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2015年10月6日火曜日

インドシナ難民とシリア難民



ーーアメリカに移住したベトナム難民の(いっけんして)豊かで知的な雰囲気をもつ家族である(ただし後列右にマスクをした子供がひとりいる)。

…………

インドシナ難民」(Wiki)の項目を眺めると次ぎのように記されている。

各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。

アメリカ - 823,000人
オーストラリア と カナダ - 各137,000人
フランス - 96,000人
ドイツ と イギリス - 各19,000人
日本 - 11,319人
イスラエル 400人

ーーと調べてみたのは、すこし前次のツイートに出合ったからだ。

@kawakami_yasu: 70年代のインドシナ難民は特別ですが、この時も150万人近い難民のうち日本が受け入れたのは1万人強で、カナダの受入数の10分の1ですね。呼び寄せ家族を入れて、2万人近くですか。アジアのことなのに、相対的には少ない受け入れですね。 (川上泰徳 元朝日新聞編集委員)





これも少し前だが緒方貞子さんの「難民受け入れは積極的平和主義の一部」というインタヴュー記事にはこうあった。

――日本の難民受け入れをどう考えていますか。

 「物足りない、の一言です。特に人道的なこういう事件(シリアなどからの大量難民)が起こったときに『まだか』という感じですよね。日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんてできませんよ」

 「簡単に言えば、難民受け入れがものすごく厳しいですよ。私が(難民高等弁務官だったのが)2000年までで、今、15年でしょう。変わっていないみたいですよ、残念ながら」

 ――現在のシリアを巡る情勢については。

 「難民については、必要な人の受け入れはしなければならない。それから、難民を出している国の安定というものに対して、技術援助や経済援助だけではできないものがある。政治的な介入が必要ですが、それはとても難しいだろうと思います」

 ――シリア情勢で、日本がすべきことは何ですか。

 「日本を目指して逃げて来る人は少ないんですよ。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげてもよいんじゃないかと思います」

 「難民条約を技術的に堅く当てはめようとしたら、助けられる人も助けられない。日本は、それから外れることは非常に難しいんですよ。緊急の状態のときに出てくる人には、やはり柔軟性を持って助けてあげて、そして、その次の定住とかそういうものを考えるということではないか。緊急状態から出てきた人たちに猛烈に厳しいんですよ、この国は」

 ――日本が難民受け入れに消極的である根本的な理由は何だと思いますか。

 「長い間、島国でね、島国を守っていくということだけで来たからでしょう。そういう島国根性的なことは変わっていないと思いますよ。だけど国際化が進んで、非常に国際協力が発達したなかでは、前と同じ島国根性でやっていけるんでしょうかという疑問は持ちますよね」

異質なものを排除するムラ社会の土人」(2015年8月31日)という投稿をしたことがあるがね、どこかのネトウヨがなんたら言ってきたので。

インドシナ難民150万人弱とは比べものにならない難民が「この今」いるのだな


シリア難民400万人の受け入れ先


何度も記したがね、日本だけでなく、アジアがダメなんじゃないか

私は確信している、我々はかつてなくヨーロッパが必要だと。想像してごらん、ヨーロッパなしの世界を。二つの柱しか残っていない。野蛮な新自由主義の米国、そして独裁的政治構造をもった所謂アジア式資本主義。あいだに拡張論者の野望をもったプーチンのロシア。我々はヨーロッパの最も貴重な部分を失いつつある。そこではデモクラシーと自由が集団の行動を生んだ。それがなくて、平等と公正がどうやってあると言うんだ?(Zizek,The Greatest Threat to Europe Is Its Inertia' 2015.3.31ーー

とはいえわれわれはヨーロッパのレイシズム猖獗をすぐさま想起できないではない、あのフランスはいまではヨーロッパ最悪のレイシズム国になってしまった。だがジジェクのいっているのは、それにもかかわらず、ということだ(参照:「鎖国のすすめ」)。ヨーロッパの「理念」にたよらずに世界にほかになにがあるというのだろう? 

ドイツのメルケル首相は「ヴェルトオッフェンハイト Weltoffenheit(世界に開かれていることの重要性)」をしきりに強調している。島国根性の日本人には思いもよらぬ言葉だろう。

…………

東浩紀 ‏@hazuma 10月5日

どこの国でも大衆は保守で頑固で移民排斥したり福祉カットしたり同性愛差別したりするものであって、それを認めたうえでそれでもリベラルな理想を陰々滅々と掲げるのが知識人というものだと思うのだが、今年前半わかったのは、日本の知識人はまだその前段階で大衆の良識とか信じているということだ。

日本再生のためには、エリート復活しかないと思う。というか先進国は全体的にそれしかない。かなりマジで

とあるが、やっぱり民主主義やめたほうがいいんじゃないか。

《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(ノーム・チョムスキー)

《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(アラン・バディウ)

ーーこれらも何度も引用した。

穏健にいえば次のようなことでもいい。

ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)

コンセンサスだけが能の民主主義はやめたほうがいいんじゃないか?

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)

…………

現在上手くいっているだけかもしれないという前提で敢えて図式的にいえば、ノーベル平和賞候補のメルケル首相の画期的な成果・政策(タテマエだけの部分はあるにせよ)は、脱原発、脱財政赤字、難民大量受入ーーこれらは「最も民主主義的な」国民投票では(脱原発以外は)、日本でもドイツでも反撥にあうに決まっている。

ドイツには国民投票はない(ナチス時代の衆愚政治への反省のため)。そもそも衆愚政治と市民参加が活発なデモクラシーとを判別する手段はない。

メルケルは消費税(付加価値税)を16→19%にしたが基本的にはドイツの財政健全化策は、歳入増加よりも社会保障費や補助金等の削減による歳出抑制に重点を置いている点が特徴。

脱財政赤字や難民受入という理念としての人権政策は、いわゆる「民主主義」では達成しがたい。ドイツは日本と比べてひどくエリート主義だよ

たとえばドイツには高級官僚の休職制度がある。政治的に合わない政党が政権を取った場合に、官僚が一旦休職するという制度(高級官僚を 1.5 倍くらい雇うことになるが、これはエリート保護だろう)。財政再建のなかでもこの制度を死守している。

参照:「日本の民主主義制度のどこに問題があるのか ~ドイツと比較しながら検証する~」2015 / 03 / 13

メルケルは2010年のインタヴューで「ドイツはイスラム国になるだろう」と言っている。

「フランスでは20歳以下の子供の30%がムスリムです。パリやマルセイユでは45%の割合まで急上昇しています。南フランスでは、教会よりモスクが多いのです。

イギリスの場合もそれほど事態は変わりません。現在、1000を超えるモスクがイギリスには存在します。──ほとんどが教会を改築したものです。

ベルギーでは新生児の50%がムスリムであり、イスラム人口は25%近くに上るといいます。同じような調査結果はオランダにも当てはまります。

それは住民の5人1人がムスリムのロシアにも言えることです。」

この記事には次ぎの引用もある。

アラーは、ヨーロッパにてイスラムの勝利を授けてくれるだろう、剣も、銃も、征服もなしに。われわれにはテロリストは必要ない。自爆テロはいらない。ヨーロッパにおける五千万人超のムスリムが、あと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。(カダフィ大佐Muammar Gaddafi)

それにもかかわらずのドイツの大量難民受け入れ政策である。さてそれが民主主義で可能だろうか。《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人)


しかも《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)のであり、これは昔も今も変わらない。

「一度限りの我らの言辞に欺かれ」ないまともな人の割合が、たとえば啓蒙によって日本人の過半数になるなどと〈あなた〉は想像することができるだろうか。いや過半数でなくてもいい。十分の一の人、つまり一千万人がそうなる可能性を想像できるだろうか?

「私は相対的には愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

ーーさて啓蒙されるとはどういうことか? 

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄『ヒトラーと悪魔』)

何に、誰に、啓蒙されるのか。デマゴーグに啓蒙されるなどということはないか?

諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提とした上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)