(四つの言説)の形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。
実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。(Paul Verhaeghe,1995)
※『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES(Paul Verhaeghe)』1995よりだが原文はここから拾える→「Publicaties van Paul Verhaeghe」
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以下、ラカンの形式化殺し(ラカンの心理学化)のラカン派精神分析家のツイート(2015年10月05日(月))
小笠原晋也@ogswrs
Bonjour, mes amis ! 今晩急な用事ができたので,いつもより早めに,短めに tweet します.引き続き,支配者の言説について.支配者の言説は Urverdrängung と Urphantasie に関連しています. https://pic.twitter.com/n3y9BoWZDR
Urverdrängung[源初排斥]と Urphantasie[源初幻想].後者は Urszene[源初光景,原光景]と本質的に同義です.ここで,Ur- のつくもうひとつの Freud の用語が想起されます : Urvater[源初の父].
Urvater は,周知のように,Freud が『トーテムとタブー』で提示した神話的な父です.原始部族ないし原始家族において,父はすべてを支配する権力者であり,部族ないし家族のなかの女すべてを自分のものにし,息子たちは何も所有できず,支配者たる父に奴隷として仕えていた.
息子たちは団結して,父に対して蜂起し,父を殺した.支配者の座についた息子たちは,しかし,父殺しの罪にさいなまれ,父の所有物であった部族(家族)内の女たちに手を出さない掟を自分たちに課した.Freud の神話はおおむねそのような内容のものです.支配者の言説は父の独裁にかかわります.
支配者の言説における S1 は Urvater の学素です(ドイツ語をよく知らない人のために Urvater の読みをカタカナ書きすれば:ウァファータ).源初の父は女すべてを悦していた.現存しない「女すべて」を.源初の父とは,定冠詞の抹消された La Femme を悦する者です.
キリスト教では,天にまします父なる神を omnipotent[全能]かつ omniscient[全知]なる父と呼びますが,Freud の源初の父は「全悦」[ tout-jouissant ] なる父です.現存しない「女すべて」は Ⱥutre であり,左下の真理の座に相当します.
禁止された悦の徴示素としてのファロス Φ は,源初の父のファロス,全悦なる父のファロスです.ですから,支配者の言説をこのように書き換えても良いでしょう: https://pic.twitter.com/FoNjvXLRnX
支配者の言説は,Hegel においては支配者 S1 と奴隷 S2 との対立の第一段階に相当しますが,Freud においては源初の父 S1 と息子たち S2 との対立の第一段階を形式化している,見なすことができます.いずれにせよ,支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています.
以前誰かが質問したのだろう、その応答として次のようなツイートを見たことがある。
中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.
このツイート、とくに中井久夫の文を「あの手の心理学的言説」とするのはとても印象深い発言でーーなぜだがはこのブログの読者なら分かるだろうーーこの際、記念に貼り付けておく。
なお小笠原氏の本日のツイートは、ある質問者からの次の問いへの応答にかかわるはず。
では単刀直入に質問しましょう。あなたはこう言われた。
①「支配者の言説」は左上の能動者の座(支配者の座)に位置するのが父の機能としての支配者徴示素 S1 である場合 ②四つの言説の四つの座の機能を説明している場合
支配者の言説が①のみではなく②であるのはミレール系の解釈者が25年まえから説明している。ところがあなたは次のように記している。
《ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつの他なる徴示素に対して代表する”という公式は,Jacques-Alain Miller が繰り返し説明してきたように支配者の言説にかかわっているのではなく,分析の言説にかかわっている》(ハィデガーとラカン)
これは今でも正しいのか誤謬だったのに気づいたのか、yes/no のみでご返事を頂きたく思います。
一週間以上前になされた問いのようだが、通常、質問にたいして嬉々として翌日返答するのに、長い間応答できずにいたもののようだ。
はっきり言ってしまえば小笠原氏は主人のシニフィアンS1概念のラカンの理論的変遷をまったく捉えていないように思える。
…この段階(セミネールXⅦ)において、ラカンは重要なニュアンスをつけ加える。それによって「父の名」に関する以前の理論の相当な変化がもたらされる。すなわち、主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる(144)。このニュアンスは彼の理論の次の「進化」から理解することができる。「父の名」から「父の諸名」(複数の父の名)へと、さらには最終的には「主人の事例instance」(101)によるS1として生みだされる限りどんなシニフィアンでもいい、と。
はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことだ。(Paul Verhaeghe, (2006). Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳ーー"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」)
いやそもそも主人の言説とはラカンの最も基本的な幻想の式のヴァリエーションのはずであり、それを否定する解釈者には、寡聞にしてか遭遇したことがない・・・
幻想の式、すなわち$◇a であり、これは$ → S1→ S2 → a と分解できる。
そして主人の言説とは次の通りであり、まさに幻想の式の変形である。
わたしは、臨床において必要なものは、たった一つしかないと思っています。頭のなかにあるのは一つ、(……)ファンタスム、つまり人間の幻想(ファンタスム)の式です。
$◇a
これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。(藤田博史「セミネール断章2012年2月」)
さらにS1に限って言えば、ラカンは、master signifiers(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んでいる。解釈者あるいは訳者によって、ボタンの結び目、ネクタイピンなどどもされる。
すなわちひとびとの語り、シニフィアンのネットワークをピンで留めるシニフィアンであり、それは個々の主体だけではなくより広く社会においてもそうである(Stavrakakis 1999)。
それがあるために社会は整合化(秩序化)される(ジジェク)。
どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。
”anchoring point”(船が碇を下ろすポイント:ジジェク)とか“suture”(縫合する:ミレール)などの言い方がされるときもある。
なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。
この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
――たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が”master signifiers“である。
というわけで攻撃目標からそうそうに外さなければならない。
わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
彼の解釈をブログに記すことそれ自体がハシタナイ振舞いだったのかもしれない。それはすこし前からおぼろげに気づいてはいたとはいえ、本日追い討ちをかけられてしまった・・・
読者? 彼の「道化師的」ツイートをまともに追っている読者などいるようには思えない・・・、
むしろいくらかまともに追ってしまったわたくし自身に忸怩たる思いを抱かないでもない。(参照:ハイデガー化されたラカン研究者小笠原晋也氏の「口すべり」)
とはいえなぜ研究者とはマヌケがおおいのだろう、あのような児戯に類する視野狭窄症を患うのが研究者の常疾とでもいうものなのだろうか・・・
鈴木創士@sosodesumus
ああ、学者と称する人たち、哲学者、研究者と称する人たち、芸術家、作家も少し…俺は編集者まがいのこともやってたし、いまもほんのちょっだけやってるので、彼らがどれだけ頭が悪く、人格もなってなくて、くだらない連中かということに口を蓋できないときがある。特におっさんが最悪だ。お生憎様!
ーーそもそもラカンをめぐってブログなど記していると、《どれだけ頭が悪く、人格もなってなくて、くだらない連中か》と見なされてしまうのではないか・・・そんな疑念を抱かざるをえないほどの衝撃の小笠原チャンだった。
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さて冒頭のヴェルハーゲの文の全文も含めもうすこし長く引用しておこう。
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ヴェルハーゲのこの観点の論拠のいくつかは、セミネールⅩⅦから抜き出すなら次の通り。
この文からフロイトの「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”を想起しないわけにはいかないだろう。
すなわち主人の言説は精神分析の基本である。ところが上に掲げたが《支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています》などとオッシャラレル方がイラッシャル。この「支配者の言説」は「主人の言説Le discours du Maître」の小笠原訳であることはまちがいない。
さてセミネールⅩⅦから一つだけ邦訳してみたが、あとは原文と英訳(手許にあるいささか雑な旧訳だが)にする。
◆まずはS1(主人のシニフィアン)はその機能を果たすならどんなシニフィアンでもよい、と読み取れる箇所。
さて冒頭のヴェルハーゲの文の全文も含めもうすこし長く引用しておこう。
ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。
この点に関して、最も重要なラカンの構造は、もちろん四つのディスクールにおける理論です。(……)
これらの形式的構造の長所は明らかです。まずなによりも、抽象化の水準で目を瞠る利点があります。たとえばラカンのアルジェブラalgebra。あなたはそれらの“petites lettres”、小さな文字、aやSやA、そしてそれらの間の関係によって、なんでも代表象することができます。まさにこの抽象化の水準で、わたしたちはどの個別の主体も大きな枠組みにフィットさせることが可能になります。
.第二に、これらの形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。
実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。
(FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES、Paul Verhaeghe、私訳)
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ヴェルハーゲのこの観点の論拠のいくつかは、セミネールⅩⅦから抜き出すなら次の通り。
……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.
主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。
この文からフロイトの「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”を想起しないわけにはいかないだろう。
人類は時の流れのなかで、科学のために二度その素朴な自惚れに大きな侮辱を受けねばなりませんでした。最初は、宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分であることを人類が知ったときです。・・・二度目は、生物学の研究が人類の自称する想像における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性は消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のものと、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度目の、そしてもっとも手痛い侮辱を、今日の心理学的研究によってあたえられることになります。自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない、ということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、私ども精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかし、この警告をもっとも強力に主張し、一人一人の胸に身近にひびくような経験材料によって裏書きすることは、私どもにあたえられた使命であるように思われます。このためにこそ、私どもの学問に対して総反撃が起こり、いっさいのアカデミックな丁重さはかなぐり捨てられ、公平な論理からはまったくはずれた反対論が起こったのです。( フロイト『精神分析学入門』)
すなわち主人の言説は精神分析の基本である。ところが上に掲げたが《支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています》などとオッシャラレル方がイラッシャル。この「支配者の言説」は「主人の言説Le discours du Maître」の小笠原訳であることはまちがいない。
さてセミネールⅩⅦから一つだけ邦訳してみたが、あとは原文と英訳(手許にあるいささか雑な旧訳だが)にする。
◆まずはS1(主人のシニフィアン)はその機能を果たすならどんなシニフィアンでもよい、と読み取れる箇所。
Le discours du Maître nous montre la jouissance comme venant à l'Autre. C'est lui qui en a les moyens. Ce qui est langage ne l'obtient qu'à insister jusqu'à produire la perte d'où le plus de jouir prend corps.
D'abord le langage, et même celui du Maître, ne peut être autre chose que demande, et demande qui échoue.
Ce n'est pas de son succès, c'est de sa répétition que s'engendre quelque chose qui est d'une autre dimension – que j'ai appelé la perte – où le plus de jouir prend corps.
Cette création répétitive, cette inauguration d'une dimension dont s'ordonne tout ce dont va pouvoir se juger l'expérience analytique, ceci peut aussi bien partir d'une impuissance originelle, de celle pour tout dire de l'enfant, loin qu'elle soit la toute-puissance.
Si l'on a pu s'apercevoir que ce que la psychanalyse nous démontre c'est que « l'enfant est le père de l'homme », c'est bien qu'il doit y avoir quelque part, quelque chose qui en fait la médiation.
Et c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître. (Lacan, Le SéminaireⅩⅦ Staferla 版 pp.179-180)
The Master‟s discourse shows us enjoyment as coming to the Other. It is he who has the means for it. Language only obtains it by insisting to the point of producing the loss by which surplus enjoying is embodied. At the start, language, even that of the master, can be nothing other than demand, a demand that fails. It is not from its success, it is from its repetition that something of a different dimension is generated that I have called the loss – the loss by which surplus enjoying is embodied. This repetitive creation, this inauguration of a dimension that organises everything by which analytic experience is going to be able to be judged, can also start from an original impotence, in a word, that of the child - which is a long way from omnipotence. If people have noticed that psychoanalysis shows us that the child is father to the man, it is very much because there must be somewhere, something that mediates between them, and it is very precisely the agency (insistance?) of the master, in so far as it managed after all to produce, out of any signifier whatsoever, the master signifier.
◆次ぎは、S1は〈私〉という一人称単数代名詞でもよいと読み取れる箇所(m'être, m'être à moi-même)
Ce qui fait le Maître, c'est ceci : c'est ce que j'ai appelé, en d'autres termes « le cristal de la langue ».
Pourquoi ne pas utiliser ce qui en français peut se désigner sous l'homonymie de l'« m apostrophe être » m'être, m'être à moi-même ?
C'est de là que surgit le signifiant-m'être, dont je vous laisse le deuxième terme à écrire comme vous le préférerez.(Lacan, Le SéminaireⅩⅦ、P.262)
He operates on what I have called, in different terms, the crystal of the tongue. Why not use in this respect what can be designated in French by the homonymy of m‟être, m‟être „à moi-même‟? It is from this that there emerges the m‟être signifier which I leave you to write as you prefer – [maître or m'être].
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S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)