「我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい」(ツキジデス『戦史』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)
さて、ツキジデスやヘーゲルの時代とわれわれの時代は違うから(民衆は教育されているのだから)、今ではこうではないといえるだろうか。今は「民衆」の意見を十分に取り上げてそれを政策に活かすべきだろうか。
二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
さて、大衆の判断に任せるべきであろうか、それとも専門家に任せるべきであろうか、専門家が私利私欲による誘惑に駆られた判断をする可能性は大いにあるにしろ、ではそれを大衆の判断で是正するなどということがあり得るのか。その「大衆」とはどの大衆なのか。その大衆とは、《立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》大衆ではないのか。
とすれば煽動家が要の役目をすることになる。
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄『ヒトラーと悪魔』)
煽動家とは、究極的にはファシストのように振舞うことではないか。そもそもファシズムの語源は「絆」である(伊: fascismoの語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)。
ファシズムについては次ぎのような見解さえある。
福田和也)僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。
柄谷行人) たぶん革命という概念でやると、ファシズムになるでしょうね(笑)。みんな、それに気づいていないだけで。(『スーパーダイアローグ』)
宮台氏は、日本はファシズム化するしかない、という。ただし、それは 「国家を強くする」 というナチスドイツ的なファシズムではなく、「社会を強くする」 というムッソリーニ的なファシズムである。つまり 「価値の埋め込みによる長期的な動員」 ないし社会をよりよくしようという動員――日本もこれをやるしかない。そして、「大きな社会=包摂性のある社会=相互扶助的な社会」 を構築していくことで、日本社会の強化を進めていくべきだ、と。(田原総一郎×佐藤優×宮台真司 『日本流ファシズムのススメ。』)
カール・シュミット(ナチスの理論家)によれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。
ところでネット選挙が解禁され、ソーシャルメディアでの情報発信やニコ生討論会などで、大衆は投票することになるとしよう。
浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.
たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)
おそらくこういった現象が起こるに相違ない。 すなわちやはり《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれない》のだ。とすればどうしたらいいのか。やはりヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せるべきなのか。
どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー「民主主義の中の居心地悪さ」より)
だがわれわれは国家のエリートたちを信用できなくなっている。
いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
ーーここまでは一年弱前に記した「民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」のほとんどくり返しである(ファシズム箇所を除いて)。
以下、そこでは引用していない文を掲げよう。
バクーニンのようなタイプのアナーキストは、一切の権力や中心を否定する。そこには、抑圧から解放された大衆は、おのずから自由連合によって秩序を作り出すだろうという暗黙の仮定がある。しかし、プルードン自身がいったように、けっしてそうはならない。逆に、それは強力な権力を招来するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』p.280)
ラカンは1968年の学生運動のさなか次ぎのように言い放った、《君たちは新しい主人を求めるている、やがて君たちはそれを得るだろう》Vous voulez un maître, vous l'aurez(1968)。
ふたたび柄谷を続ける。
また、諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提とした上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ。マルクスは、それについて特に書いていない。しかし、主としてプルードン派の構想にもとづくパリ・コンミューンを擁護し高く評価したとき、彼はそこに「可能なるコミュニズム」への鍵を見だした。そして、それは若い時期からの彼の考えと特に異なるものではない。(同上p281)
《権力や階級を構成しないようなシステム》とはなにか。柄谷行人にとっては「くじ引き」である。
われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(『トランスクリティーク』)
柄谷行人はいまでもこのように考えているはずだ(参照:世界危機の中のアソシエーション・協同組合柄谷行人と生活クラブとの対話)。ジジェクもこの柄谷行人の「くじ引き」制度の提案を最近の著書にいたるまで何度も引用している。
(2010年に提案された鈴木健のゴールデンパラシュート論は、ここでの話とはやや異なるが、高級官僚が《私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策》(柄谷行人)を実施できるような環境(のひとつ)を整えるという案とみなすことができる、ーーすなわち退職後の再就職を禁ずるかわりに(企業などとの癒着の根を断ち切るために)官僚に対して退職金の大幅割り増しをするという制度である。)
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ノーム・チョムスキー曰く、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky,“Necessary Illusions”)
アラン・バディウ曰く、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳)