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2016年1月4日月曜日

BWV797の間奏2

立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

ーーリルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳

…………

「Sinfonia 11」は,シチリアーノ風のリズムが魅力的である.しかし,単に舞曲ふうに演 奏するのではなく,そこに漂う哀しみを伴った深い情感を豊かに表現したい曲である.特に, 間奏2の崇高さは,特筆すべきものがある.「間奏2」に対応する「間奏6」を1オクター ブ低くしたのは,間奏2の崇高さを際だたせるためであったかも知れない.「極めて美しい ものは,二つあるよりも,ただ一つである方がよい」という判断からであろう.(J.S. バッハ作曲「三声シンフォニア」の楽曲分析と演奏解釈 −第 11 番 ト短調 BWV 797 − 藤本逸子,2012(PDF))

ーーああ、やっぱりBWV797の間奏2の至高の美しさを褒めている人がいるよ




グールドの演奏は、CDスタジオ版よりモスクワライブ版のほうがずっといいが、それでもまだわたくしの趣味からいえばテンポが速すぎる。とはいえ間奏2の最初の音の美しさはどんな演奏家にも負けない→Glenn Gould in Russia 1957

わたくしはーー何度も記しているがーー、13歳だったか14歳かのとき、スウィングル・シンガーズでこのBWV797を聴いてボロボロになった。


◆The Swingle Singers - J.S. Bach - Sinfonia XI (Three Part Invention) BWV 797 [HQ Audio]





LIGETI TRIOのBWV797 なんてものもあるな

このBWV797にはエロスがふんだんにあるよ、

ああ、《丘のうなじがまるで光つたやうではないか
灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)

《美は耐えがたいものであり、また不寛容なものでもある。美は容赦なくわれわれの視線をさぐり、音を聞こうとする耳を誘惑し、待機中の言葉をつかみかかり、電撃と緩慢さを交錯させる。美はみずから充足し、わたしたち抜きで存在するのだが、それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、こちらにはわかるはずもない答えを要求する。……》(シュネデール)

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)

「性的身ぶりの残り香」いっぱいのイギリス組曲のガボットをも掲げておこう。

◆Bach English Suite No 6 in D minor BWV 811 Glenn Gould Gavotte.