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2016年1月3日日曜日

精神分析における父→母→父→母

我々は思い出させられるよ、フロイトが父を過剰に強調して母をほとんどまったく無視したこと、それがクライン派とより広くいえばアングロサクソンスクールの過剰な修正を導き出したことを。そして今度はラカンの過剰修正が引き続いてね、要はまた父への焦点に戻ったのさ。とにかく、とっても注目に値するよ、現代の精神分析的アタッチメント理論 (Fonagy et al., 2002) の主要な仕事を読むのはね、その仕事の概念的と経験主義的箇所には、父はほとんど完璧に不在なんだな、事例研究とはひどくコントラストがあるね。(POSTTRAUMATIC STRESS DISORDER (PTSD), ACTUALPATHOLOGY, AND THE QUESTION OF REPRESENTABILITY、A Reply to “Attachment Deficits, Personality Structure, and PTSD” (J. Mills) Paul Verhaeghe, PhD, and Stijn Vanheule, PhD、2008、PDF

どこかで読んだのと似たような話だな

実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。(柄谷行人ーー「実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって」)

だいたいこうやってみておけば間違いないよ、新しい「思想」なるものはね

主体→非主体→主体→非主体ってわけだ
父→母→父→母 と同じようにね

で、それがわるいわけじゃないさ、必ずしもね、
な、そうだろ?

十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

 だいたいこうやってこと新しく言ってみるのも新しい紋切型じゃないかね?