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2015年2月6日金曜日

倒錯の形式的構造

《自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない》(ラカン 『セミネールⅩⅩ(アンコール)』)

…………

ラカンにとって、倒錯者は、彼が何をするかというその内容(彼の普通ではない性行為)によって定義されるのではない。最も基本的な倒錯は、倒錯者が真理と発話にどのように関わるかについての形式的構造の中にある。倒錯者は、〈大文字の他者〉であるなんらかの人物像(神や歴史からパートナーの欲望にいたるまで)にじかに触れることを求めるため、言葉の曖昧さをいっさい排除して、〈大文字の他者〉の道具として、直接的に行動することができる。この意味で、オサマ・ビン・ラディンとブッシュ大統領は、政治的には正反対の極にいるが、どちらも倒錯者の構造を共有している。どちらも、自分の行動は神の意志にじかに命令され導かれているという前提にもとづいて行動している。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳 P196-197)

ジジェクの見解を信じるとして、オサマ・ビン・ラディンやブッシュが倒錯者なら、イスラム国の自称カリフやらその取り巻きも倒錯者ということになるのだろうか。

あるいはまた「表現の自由」という理念を楯に騒ぎ立てる連中はどうなんだろう? --彼らは倒錯者というより、一見たんなる集団神経症にもみえるが(参照:仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」)、なかには「倒錯的」に振舞っている輩もいるのかもしれない。

ヒステリーと精神病を分けるものは、彼らの“〈大文字の他者〉の享楽”への異なった関係の仕方である(〈大文字の他者〉の享楽とは、主体の〈大文字の他者〉の享楽のことではなく、主体において享楽する〈大文字の他者〉のことである)。ヒステリーは〈大文字の他者〉の享楽の対象になることに堪えがたい。彼女は自身が“使用されている”、あるいは“食い物にされている”と感じる。他方、精神病者はおのれを、意図して〈大文字の他者〉の享楽の対象へと没入させる。(倒錯者は特別な事例である。彼は己を〈大文字の他者〉の享楽の対象としてではなく、〈大文字の他者〉の享楽の道具として位置づける、――彼は他者の享楽に奉仕するのだ)。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 私訳)
what differentiates hysteria from psychosis is their different relation to the “enjoyment of the Other” (not the subject's enjoyment of the Other, but the Other who enjoys [in] the subject): a hysteric finds it unbearable to be the object of the Other's enjoyment, she finds herself “used” or “exploited,” while a psychotic willfully immerses himself in it and wallows in it. (A pervert is a special case: he posits himself not as the object of the Other's enjoyment, but as the instrument of the Other's enjoyment—he serves the Other's enjoyment.)

…………

ラカンの幻想の式――それは神経症の式であり、ラカン派にとっては、すくなくともある時期までの標準的な一般人の心的あり方であるーーは、$ ◇ aである。藤田博史氏は、この幻想の式を分解して($ ー -φ ー Φ ー A ー a)、次のように読んでいる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》(参照:「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺

だが今は「幻想(ファンタジー)」の話ではない。「倒錯」の話である。倒錯の式 は、a$と書かれる。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。(……)主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。(……)サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)

ジジェクは、『ラカンはこう読め!』にて、この文章を引用して次ぎのように書いている。

この一節は全体主義政治に新たな光を投げかける。真のスターリン主義的な政治家は人類を愛しているが、恐ろしい粛清と処刑を実行する。それをしながら、彼の心は痛んでいるのだが、やめることはできない。それは彼にとって〈人類の進歩〉に向けた彼の〈義務〉なのだから。これが、〈大文字の他者の意志〉の純粋な道具の地位を引き受けるという倒錯的な態度である。それは私の責任ではない。実際にそれを行うのは私ではない。私はたんにより高次の〈歴史的必然性〉の道具にすぎない。こうした状況がもたらす猥褻な享楽は、私は私自身が自分のしていることに対して無罪であると考えている事実から生み出される。私は、私には責任がなく、たんに〈大文字の他者の意志〉を実現しているだけだということをじゅうぶんに意識しているからこそ、他人に対して苦痛を課すことができる。「外から強制された客観的必然性を実現しているだけなのに、どうして主体に罪があろうか」という疑問いに対し、サディストは、この客観的必然性を主体的に引き受け、自分に課せられたことに享楽を見出すことによって、答える。(ジジェク『ラカンはこう読め』 P181-182)
ナチスのSS(親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーは、ヨーロッパのユダヤ人を抹殺するという任務に直面して、「誰かが汚い仕事をしなければならないのだから、やろうではないか!」という英雄的な姿勢をとった。自分の国のために高貴なことをするのは容易だ。そのために自分の命を犠牲にすることだってできる。それよりもはるかに難しいのは自分の国のために犯罪をおかすことだ。ハンナ・アーレントはその『エルサレムのアイヒマン』の中で、ナチスの死刑執行人たちが自分たちのやった恐ろしい行為に耐えるためにおこなったこの回避を鋭く描いている。彼らのほとんどはたんなる悪人だったのではなく、自分たちの行為が犠牲者に屈辱と苦痛と死を与えていることをはっきり自覚していた。この窮状から抜け出す道はこうだった。

「自分は人びとに対してなんと恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだーー自分は職務遂行の過程でなんと恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務はなんと重く私にのしかかってきたことか!(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳)

このようにして彼らは誘惑への抵抗の論理を逆手に取ることができた。抵抗すべき誘惑とはまさに、人間の苦渋を目の当たりにして、基本的な同情と共感に屈することへの誘惑であった。彼らの「倫理的」努力は、辱め、拷問し、殺してはならないというこの誘惑に抵抗するという仕事に向けられていた。同情や共感という自発的な倫理的本能に背くことが、私が倫理的に偉大であることを示す証拠に変わる。私は義務をまっとうするために、他人に苦痛を与えるという重荷を引き受けるのだ。(同 P181-182~)

 さあて、どうだろう? あの連中は倒錯者だろうか。

だがこれも冒頭近くに掲げたジジェクによればだが、倒錯的になるには倒錯者である必要はないとも言うのだ。倒錯の形式的構造があり、その構造に嵌ってしまえば、人は倒錯的になると。とすれば「原理主義者」と呼ばれる種族たちは、ほとんどつねに倒錯的なのではないか。それはラカン原理主義者でも同じだ。

 これもかなり以前写し取った文章だが、ここに再掲しておこう(メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$)。

マイケル・マンの映画『マンハンター』は、直感的に、「第六感」によって、サディスティックな殺人犯の心に入りこむことで有名な刑事の話である。彼の任務は、一連の田舎の平和な家族を皆殺しにした、特別に残酷な大量殺人犯を発見することである。彼は、殺された家族の一軒一軒によって撮影された自家製八ミリ映画を繰り返して上映して、<唯一の痕跡>、すなわち、殺人犯を惹きつけ、彼にその家族を選ばせた、すべての家族に共通の特徴を見つけ出そうとする。だが内容のレベルで、つまり家族そのものの中に共通の特徴を探しているかぎり、彼の努力はいっさい報われない。ある矛盾に眼が惹きつけられたとき、彼は殺人犯の特定への鍵を発見する。最後の犯行現場での操作の結果、裏のドアを破って家に押し入るために、犯人は、そのドアを破るには不適切な、というより不必要な道具を使っていることが判明した。犯行の数週間前、古いドアは新しい型のドアに取り替えられたのだった。新しいドアを開けるためには、別の道具のほうがはるかに便利だったはずだ。殺人犯はどのようにして、この間違った情報、より正確にいえば古い情報を手に入れたのだろうか。自家製八ミリ映画のいくつかの場面には、その古い裏のドアがはっきりと写っていた。殺されたすべての家族の唯一の共通点は、“自家製映画そのもの”である。殺人犯はこれらの私的な映画を観たにちがいない。殺された家族を結ぶ線はそれ以外ないのだ。それらの映画は私的なものだから、それらを結ぶ唯一の考えられる線は、その八ミリ・フィルムを現像した現像所である。すぐさま調べたところ、すべての映画は同じ現像所で現像されたことが判明し、じきにその現像所の工員の一人が犯人であることが判明する。
この結末の理論的興味はどこにあるのか。刑事は、自家製映画の内容の中に、犯人逮捕の手がかりになるような共通の特徴を探し、そのために形式そのもの、すなわち彼はつねに一連の自家製映画を見ているのだという重要な事実を見落としてしまう。自家製映画の上映そのものを通じて、自分はすでに殺人犯と同一化しているのだということ、すなわち画面のあらゆる細部を探り回る自分の強迫的な視線は犯人の視線と重なり合っているのだということに彼が気づいた瞬間、決定的な変化が起きる。その同一化は視線のレベルの上のことで、内容のレベルにおいてではない。自分の視線がすでに他者の視線であるというこの経験には、どこかひどく不快で猥褻なところがある。なぜだろうか。ラカン的な答えはこうだーーそうした視線の一致こそが倒錯者の定義である(ラカンによれば、「女性的」神秘思想家と「男性的」神秘思想家との違い、たとえば聖テレザとヤコブ・ベーメとの違いはそこにある。「女性的」神秘思想家は非男根的な「すべてではない」享楽を含んでいるが、「男性的」神秘思想家の本領はまさしくそのような視線の重複にある。彼はその視線の重複によって、神にたいする自分の直観は神が神自身を見る視線なのだという事実を経験する。「自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない」LACANGod and the Jouissance of The Woman inChapter 6 of Encore)。(ジジェク『斜めから見る』PP.202-204