という図表をたまたま拾った。他方、《ポルノを規制すれば性犯罪が増えるというは、「全く根拠の無いデマ」のレベルなのです》との見解もある(ポルノを規制しても性犯罪は増えない)。実際、行政当局はポルノ規制後、よりいっそう厳格に性犯罪の取り締まりをしたための上のような結果であるかもしれないという想定もあるだろう。
ただし、規制(抑圧)をすれば、欲望が生じるというのは、古来からの「常識」ではある。
律法は罪であろうか。決してそうではない。 しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(パウロ ローマの信徒への手紙7章)
(あなたの知らない児童ポルノの真実) |
ところで、性規制が厳しかった時代の日活ロマンポルノと今の露骨なAVとどちらが人びとをより多く刺激するだろうか?
(若松孝二監督『性の放浪』1967) |
ここでは、答は曖昧なままにして、わたくしは日活ロマンポルノをそれなりに懐かしむ世代の人間ではあるとだけ言っておこう。
(同 若松『胎児が密猟する時』1966) |
そして現在の露骨なAVをもたまに観ないではないが?! その多くにはすぐさまウンザリすると言っておこう。
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。
ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。
やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。
それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
この坂口安吾とロラン・バルトという二人の異質であるだろう作家は、同じように隠して出現ー消滅があると、いっそう劣情(エロス)をシゲキされるといっている。
(荒木経惟作品) |
ここで精神分析的観点を導入すれば、女性たちはいざしらず、男性たちの性欲メカニズムは一般的に次ぎのように言われることが多い。
なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe私訳)
ジジェクは、米国のかつてのヘイズ・コード(映画製作倫理規定)をめぐって、《根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまう》としている。
1930年代・40年代の悪名高いヘイズ・コード(映画製作倫理規定)はたんなるネガティヴな検閲規定だったわけではない。ヘイズ・コードは過剰をじかに描写することを禁じたが、このコード自体が、その過剰そのものを生み出すポジティヴな(フーコーだったら生産的といったであろう)法制化であり、規制だった。この禁止が正しく機能するためには、非合法的な物語のレベルでは実際には何がおきているかについての明確な意識に依存しなければならなかった。ヘイズ・コードはたんにある種の内容を禁止したのではなく、むしろ暗号化された表現をコード化したのである。スコット・フィッツジェラルドの未完の小説『ラスト・タイクーン』で、映画プロデューサーである主人公モンロー・スターが脚本家たちに与える有名な指示はこうだーー
《われわれの目の前で、彼女がスクリーンに映ると、いつでも、一瞬ごとに、彼女はケン・ウィラードと寝たがる。……彼女のすることなすこと、すべてはケン・ウィラードと寝る代償だ。街を歩くときは、ケン・ウィラードと寝るために歩いている。食事をするのは、ケン・ウィラードと寝るために体力をつけるためだ。だが、二人が正当に認められるまでは、彼女がケン・ウィラードと寝ることばかり考えているなどという印象は、どんなときでも、いっさい与えてはならない。》
ここからわかるのは、根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまうということである。街を歩くことから食事をすることまで、この飢えた哀れなヒロインのすることなすことすべてが、恋人と寝たいという彼女の欲望の表現に変容させられる。この根本的な禁止は本質的にひねくれている。なぜならこの禁止は不可避的に、再帰的などんでん返しを起こさずにはいられず、そのおかげて、禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう。検閲の役割は見かけよりもはるかに両義的なのだ。当然、こうした見方に対しては次ぎのような反論が出るだろう。すなわち、この議論はうかつにもヘイズ・コードを、支配システムにとって直接的な黙認よりも脅威的な価値転倒機械に祭り上げているのではないか? ストレートな検閲が厳しくなればなるほど、それによって生れる意図しなかった副産物がより価値転倒的になるというのか? こうした批難に対しては、以下のことを強調しておこう。意図しなかったひねくれた副産物は、象徴的支配システムを直接に脅かすものではなく、システムに組み込まれた侵犯であり、見えないところでシステムを支えている猥褻なものなのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
あるいはフェミニスト寄りのラカン派コプチェクならどうか?
コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(コプチェクの講演、2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)
もちろん、日本にはかねてより「恥の文化」という伝統がある。《日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ。》(中井久夫「暴力について」)
もし日本が痴漢先進国であるならば、この「恥の文化」のせいではないか、と疑うこともできよう。
(参照:痴漢文化といじめ文化) |
さて、コプチェクの友人であるジジェクの文によって、《隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為》をもたらすメカニズムの捕捉しよう、《対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱す》と。
……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)
…………
これらは差別についても、似たようなところはないか。
ジジェクの文に、《根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまう》、あるいは《禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう》とあるが、差別をしらみつぶしに抑圧すれば、日常茶飯の振舞いすべてが差別化してしまうなどということはないか。
「差別は純粋に権力欲の問題」(中井久夫)であり、とすれば、すべての振舞いが権力欲の餌食になりがちだ、と言い換えてもよい。
差別欲・攻撃欲をしらみつぶしに塞ぐのは、日常生活の「ゆらぎ」を失くすることではないか。判でついたような聖人的態度のすすめではないか。
われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別欲・攻撃欲をしらみつぶしに塞ぐのは、日常生活の「ゆらぎ」を失くすることではないか。判でついたような聖人的態度のすすめではないか。
日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
さらには、すぐれたヘーゲリアンであるジャン=ピエール・デュピュイーー日本では『ツナミの小形而上学』でようやく名の知られるようになったーーは、自らを正義と見なす社会が、すべての恨み怒りから自由であるなどとは、大間違いであるとしている。反対に、まさにそのような社会において、下位の立場を占める者たちが、傷つけられた誇りによって、怨恨の暴発に唯一の捌け口を見出すと(参照:階級が無い社会の「不幸」)。
われわれは最も原始的な情動を抑えることはできない。なんらかの代償行為が必要である。
権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
差別欲・権力欲を飼い馴らすための、いくらかのヒントはここにある→「不滅の差別言動の飼い馴らし」
…………
この文は以下のツイートを眺めて記されたものである。
えるねこ @die_sel_cat 差別の被害を無くしたいだけなので、結果大っぴらに差別ができなくなった差別者連中が、差別したい欲求と現実のリスクとの間で、ピーピー苦しむのは大歓迎なのであります。
C.R.A.C. @cracjp
どんどん蓋していきましょ。 https://twitter.com/netowyocom/status/685722314680307713
わたくしは、彼らがいちはやく、排外主義と真正面から戦った人たちであることを知らないわけではない。だがありとあらゆる「差別」に蓋をしようとする最近のありようにはいささか違和をもっている。
@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」(佐々木中ツイート)
とはいえ、彼らが「髪の毛を代赫色に染めた少年たち」の末裔ではないか、との感覚は持ち続けている。
阪神大震災直後、西部被災地においての経験であるが、約半月は貨幣経済がほぼ完全に停止した。援助物資と焚き出しに依存して生活する他なかった。逆に、お金があっても店はなく、小銭が時々要るだけであった。学校もすべて休校となり、避難所と化した。それだけでなく学歴社会も一時停止した。証拠に、皆の顔から普段の社会的地位(とその背景の学歴など)による仮面が抜け落ちていた。被災民は高揚していた点では異常であったが、憑きものとしての学歴や何やかやがとれていた点ではふだんより正常であった。その人の正味の価値がみえていたといおうか。いつもは控え目な人がみごとな働きをし、ふだん大言壮語する人が冴えなかったりした。髪の毛を代赫色に染めた少年たちがきびきびと働いていた。ヴォランティアの青年は時に「奔走家」といわれた「維新の志士」も実際はこうではなかったかという思いを起こさせた。歴史の霞の中で美化されているが、幕末の十代、二十代も神様であったわけはない。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」『家族の深淵』1995の注)