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2016年9月12日月曜日

「シナナイタメニ」





芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年(死後)出版)




我々はラブレーの作品に、女にヴァギナを見せつけられた悪魔は退散していることを読む。(同、フロイト、メドゥーサ)





ーーいわば「魔除け」の機能である。





私は、「女性性の拒否」Ablehnung der Weiblichkeit は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

いわゆるラカン曰くのフロイトの遺書『終りある分析と終りなき分析』で、上のような記述があった後、フロイトが終生執着した去勢不安やペニス羨望が語られているにもかかわらず、その叙述の流れのなかでフロイトは受動的態度(passive Einstellung)という言葉を口に出している。

事実フロイトは『夢解釈』1900)以前に「受動性の最初期経験 initiales Erlebnis von Passivität」(1896b, S. 386,PDF) という表現を口にしているし、かつまた、

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なるものではないかと疑われる。(25 Mai 1897. Freud, Aus den Anfängen der Psychoanalyse, Brief e an W. Fliess、PDF)

ともある。





このフロイトの女性性と受動性をつなげるひとつの解釈を以下に示す。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009「古い悪党たちの新しい研究」)

…………

ところで草間彌生の作品群もフロイトがメドゥーサの首で記したように、「恐怖の緩和」として捉えられるだろうか。浅田彰は彼女の作品を「去勢の去勢」と呼んでいる。





1929年に生まれた草間彌生は、早くから旺盛な芸術活動を展開し、とくに57年にアメリカに渡ってからは、ミニマル・アートやポップ・アートの先駆者として世界的に注目されるようになる。そこで重要なのは、個人史における心的な必然性と、美術史における形式的な必然性が、ぴたりと一致したということだろう。

たとえば、幼い頃からいたるところに斑点の見える幻覚に悩まされていた彼女は、キャンヴァスの上にも執拗に斑点を並べていく。まさしく強迫神経症的な斑点の増殖。だが、それがある閾値を超えるとき、図と地、ポジとネガのめくるめく反転が生じ、観る者を窒息させる斑点の群れに代わって、それらの間の網目状の余白のほうが、前面に浮き出してくるだろう。そのとき、神経症的な自己は、「無限の網(インフィニティ・ネット)」のコズミックな広がりのなかへと消失してゆくのだ。あるいは、男根的なものに脅かされてきた彼女は、そういう男根的なオブジェで、机を、椅子を、いたるところを覆い尽くしていく。だが、ここでもまた、ある閾値を超えるとき、それらはおぞましいというよりむしろ滑稽なものとなり、ユーモラスな不能性を露呈してしまうだろう。

増殖による去勢? いや、単一のシンボリックなファルスによる抑圧やそれへの反抗という図式を逃れ、無数のイマジナリーなペニスと戯れてみせる彼女の戦略は、去勢そのものの去勢と呼んだほうがよい。このように、増殖を通じた消失(オブリテレーション)や去勢の去勢という草間彌生の逆説的戦略は、彼女にとって心的な必然性をもっていたと思われる。それがたまたま、一様な色面にまで行き着いた後でその混沌から抜け出そうとしていた美術史の動きと一致したのだ。

こうして、単純な形態の増殖によって構成される彼女の作品は、最小限の要素の反復によって新しい形態的秩序を作り出そうとするミニマル・アートの先駆けとなり、いたるところにカラフルな水玉を貼り付けて自己と世界の消滅に向かう彼女の過激なパフォーマンスは、美術界の枠を超えて派手な表現を展開しようとするポップ・アートの先駆けとなって、世界的に注目されるようになったのである。(浅田彰、草間彌生の勝利




子どもの最初のエロス対象は、乳幼児を哺乳する母の乳房である。愛の起源は、栄養欲求が満たされることへの愛着にある。乳幼児は最初は疑いもなく、乳房と自らの身体とのあいだの区別をしていない。乳房が身体から離れ「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼は対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の一部と見なす。

のちに乳房という最初の対象は、子どもの母という人物のなかへと統合される。その母は、子どもに哺乳するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は子どもにとっての最初の「誘惑者」となる。この二者関係に、母の重要性の根源がある。

人の全人生にとって、独自で、比べもののなく、変わりようもなく確立されている母の重要性。それは男女どちらの性にとっても、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母である。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1938年執筆)死後出版ーー英訳よりの粗訳)



いずれにせよ、彼女の、すくなくとも初期の作品は、《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(ラカン, S.20)としての原不安あるいは原トラウマに衝き動かされて生み出されたに相違ない。そしてそれはフロイトの「ペニス羨望」では解釈しがたい。浅田彰の去勢の去勢が含意するものとして「原去勢(=原不安)の去勢」と言い換えてみれば、それは正鵠を射ているように、わたくしには思える。

浅田彰は後年次のように言っていることも付け加えておこう。

平山郁夫や梅原龍三郎は単なるキヤノンのコピー機のようなもので、今の草間弥生や荒木経惟も札束を刷るだけの芸術家かもしれないけど、パブロ・ピカソもジョージア・オキーフも含めて、芸術家って、自分が最初に描きたいというモチーフやパッションで始まったのが、いつの間にか自分もモダンタイムスの機械になっちゃってるというところを、どうやって打破しようとしてるんだろうね。(浅田彰、憂国呆談2)




浅田彰のいう「キヤノンのコピー機」のより精緻な説明としては次の中井久夫の文がよいだろう。


【四つの軌道】
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。

一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。


【①模倣】
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。

【②絶えざる実験】
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。

【③沈黙】
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。

【④自己破壊】

第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。

【昇華という代償満足】
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996『アリアドネからの糸』所収)





◆草間彌生の自伝より

百年後の一人のために

 ものごころつく頃より、私は絵や彫刻や文章を、何十年と創りつづけてきたが、本心を言うと、私はいまだに自分が芸術家になれたとは思っていない。ふりかえってみるに、これらは筆やカンヴァスや素材をもって闘った求道への道程であった。

 それらは前方に燦然と輝く星。それを見上げれば、なおいっそう遠くに行ってしまうような、まぶしい星のたたずまいを仰ぎみて、自分の精神の力と、道を求める心の奥の誠実によって、人の世の混迷と迷路をかきわけて、魂のありかを一歩でも先へ近づける努力であった。

 考えてみるに、芸術家や政治家、医者などという職業のみが、特に世にぬきんでて偉いのではない。私がかつて感動した話は、身体障害者が施設で一日、一生懸命努力して、たった三個の小さなネジをやっとはめる仕事によって、神に自分が生かされているということの証を、自己自身感じとって、目を輝かしたということである。




 芸術家が芸術をやっているというだけで、他の人より特に偉いぬきんでた人種であるわけではない。たとえば、労働者であろうと農民であろうと掃除人夫であろうと芸術家であろうと政治家、医者であろうと、その人々が今日より明日、明日より明後日と、自分の生命への輝きと畏敬に一歩でも近づけたなら、虚妄と暗愚の中に埋もれた社会の中で、それは人間として生まれた人間らしい一つの足跡となるのではないか。

 今日、多くの人々は、飽食と猥雑と経済大国への道を求めて、栄達のためにせめぎあい、さまよっている。そうした社会の中で、重い荷物を背負った道を求めて歩むことは、より険しく、より困難になっている。しかし、そうした中でこそ、私はなおのこと魂の光明に近づきたい。

 たとえば、ゴッホの絵は何十億円もするからすごいとか、ゴッホは精神病で天才だからすぐれているとか、そんな考えをする人が世の中には多いが、そんなことではゴッホを観たことにはならない。また、日本の精神科医は、ゴッホが分裂病だの癲癇だのと論議しすぎるきらいがある。私のゴッホ観は、彼が病気であったにもかかわらず、その芸術がいかに人間性にあふれ、強靭な人間美を持ち、求道の姿勢に満ちあふれていたかという、その輝かしい美しさにある。その激越な生きざまにある。




 芸術家を志している私は、理不尽な環境に打ち勝つということは、追いつめられた立場に置かれた己れの苦しい状況に打ち勝つということであり、人間として生まれてきた故の試練であると思っている。だから、私の全人格をもってそれに立ち向かいたい。こういうことに巡り合ったことも、一つの人の世の運命であるから。

 天の啓示によって、私は神に生かされているのである。艱難辛苦、己れを玉にする毎日である。そして、歳月とともに死を意識すること、日一日である。

 光明に近づく求道の姿勢をいっそう深めたいと思い、大宇宙を背景にしても人間はしがない虫けらではないという畏敬の念を感じて、未来への心の位置を高めたい。そのため、私は芸術をそれへの手段として選んだ。これは一生をかけての仕事である。私の心を、死んで百年の間にたった一人でもよい、知ってくれる人がいたら、私はその一人の人のために芸術を創りつづけるであろう。

 そんな思いで、私は絵画を描き、彫刻を作り、文章を書いているのである。




 父・嘉門の死の九年後、1983年(昭和58年)12月に、母・茂が逝去した。母は終生、歌人でもあり、書家でもあった。母の遺稿を繙いていると、次の歌がみつかった。

  大ぜいの知人逝かせてこの年も 暮れなんとすなり つはぶきの咲く
  日の光 春をよびつゝぬかるみに まぶしく光る堤をゆけば
  眠られぬ小夜の臥床にひびきつゝ 列車の音の遠ざかりたり

 私は母のこの三首を、『心中櫻ヶ塚』の末尾に、「追記」として採録した。母に対する私の想いは、そして父に対する私の想いは、万巻を費やしても語りきれるものではないが、自分の著作の中に母の歌を添えることによって、私は父と母の思い出の片鱗を定着させたかった。

 そして、愛憎ともに万感こもごもに至る想いを抱いて生きてきた私ではあるが、今はすべてを越えて、こんなふうに思えている。私にこの年まで生かせてくれ、生死の明暗と、現し世の光陰などの綾なす社会の仕組みを、そして修羅場を見させてくれ、人間としての正しい知恵と真実への憧憬を体験させてくれたのは、父と母であると。従って私は今、私を生んでくださった、私のもっとも尊敬し愛する亡き父と母に、心から感謝をしているのである。





上の文に、《日本の精神科医は、ゴッホが分裂病だの癲癇だのと論議しすぎるきらいがある》とあった。ここでわたくしは彼女の思いに反することを記しているのかもしれない。

ところで中井久夫に「荒川修作との一夜」(『記憶の肖像』所収)というエッセイがある。

冒頭はこう始まる。

私はあわてていた。

前日、京都大学の木村敏教授から電話があった。「アラカワ・シュウサクという画家がボクたち二人にあいたいんだと。哲学者の市川浩さんからの依頼だ。キミといっしょにあったことのある、あの市川さんだ。(……)ひとつ、たのむよ。蹴上の都ホテルだ、三月十七日の夜七時、いいね」。茫然とした、「荒川修作って……」といいかけたとたろで、電話は切れた。

この文の初出は、1990年の「みすず」。中井久夫は、そのときまで「アラカワ」がだれだか知らなかった。

……ホテルのロビーに入ると、木村敏教授と市川教授が談笑しておられる。私の顔を見て市川さんが消えた。やがて、闘志満々、黒ズボンに白いシャツをまくりあげたのが、小柄な白人の女性をともなってやってくる。あれが音に聞く荒川なのか。

五人がおたがいに紹介しあった。荒川は、漆黒の頭髪が波打ち、きゅっとしまった容貌の真中に黒ダイヤの眼が光る。私には見えないものをふくめて、実に多くのものをみつめてきた眼だ。日本人にしては白い肌がニスの光沢を帯びて深いところから赤みがさしているのを、ほとんど美しいと、私は思った。動作はむしろぎこちなかった。時折、顔面をくしゃくしゃさせた。稲妻のように素早く―――。

女性はマドリン・ギンズ。夫人で「同士です」とのこと。……






アラカワとの話のとっかかりは、名古屋の話題になった。アラカワは名古屋の瑞穂区滝子の開業医の息子である。木村、中井両氏は、一時期、名古屋市立大学医学部精神科で伝説の「木村教授・中井助教授」という時期があった。

「母は私がニューヨークでやっていることを知らないはずです」と―――私の聞き間違いでなければ―――荒川は言った。「ぼくがまだ東京でノイローゼの治療していると思っているかも」。彼は東京である診療所にかかっていた。「ぼくの医者はひどいやつでね。ぜんぜん話にならん。最後に、おまえ、医者やめろと言ってやった」―――彼の顔が険しくなった。私たちは医者の名前を聞いて顔を見合わせた。「その人なら医者をやめて医師免許証も返還したという話ですよ。今では別の仕事で有名です。あなたのいうことをきいたのですね」。

今度は、彼が茫然とする番であった。「ほんとう? ほんとう」と彼は不安げに繰り返した。私は心配になった。「あなたはよい助言をされたわけです。彼は自分でも医者がいやだったとどこかで書いていますよ」。荒川はいくぶんほっとしたようであった。

「自分のは芸術ではない。そんな悠長なゆとりのあるものではない。あのね、英語でこういうけど(その言葉をど忘れしたのは私である:エッセイ集にまとめられた時点での注で、exhausted decisionであると、ある時ふっと思い出した、とある)、日本語でどういう?」「火事場の力? 窮地に出る思わぬ底力?」「かな、とにかく、ここでこうなら日本にいちゃだめだと思った。それでニューヨークに出たわけです。もう死ぬと思った。死なないために描いてきたのだ。死なないために、死なないために」。

何度「シナナイタメニ」が繰り返されたことであろう。(……)

彼は言った。「実は精神科医としてのあなた方に会いに来たのだ。あなた方はニューヨークでは有名です」。(……)

とにかく、荒川は、自分を死の瀬戸際に放置した日本の精神医学がその後どうなったか、すこしはましになったのかどうかを知ろうとやってきたのだ。驚くべきことである。……

(ARAKAWA WITH MARCEL DUCHAMP)



私たちが合格と判定されたとは思わないが、準備した話を終えてほっとしたのか、荒川は、シャガールに可愛がられた話を始めた。南フランス、いわゆる紺碧海岸のシャガールのアトリエに荒川が起居した一時期があったのだった。

「シャガールはね」と彼は語った。「朝早く、アトリエに来て、鉄のパレットを取り出す。九十四歳の彼が鉄のパレットだぜ。そこへ色を盛り上げ、カンバスにどしどし色を塗る。たいへんな仕事量だ。そして、夕焼けがアトリエの窓を染めると、部屋じゅうくまなく掃除して、雑巾をかえ、パレットをきれいに洗って、さあ帰ろうという。ある時、見かねてオレがやると言ったら、じいさん何と言ったと思う? 俺を殺す気か、これをやってるから俺は今まで生きてるんだとね、で、またごしごしさ」。いい話であった。私の大好きなライナー・チムニクの童話『クレーン男』のように、日々の力を信じて愚直に生きること―――。私は頭の中で、病なお残る若い身空の荒川になり、床に近いソファに横になって、立ち働く老ユダヤ人画家を見上げてみた。毎日ここにいたら、自分の中の何かが快癒してゆくだろうなと思った。日本の精神科医が治せなかった一青年を癒して画家にしたシャガールの偉大さが身にしみた。

「死なないためにだ。俺は、死なないためにやっているのだ。芸術? そんなのんきなものじゃない」。私は、私の患者たちが描く、時として哀切な美しい画を思った。治癒するとみな平凡な画になる。しかし、才能が涸渇するのではない、必要がなくなるのだ。私の患者たちも「死なないために」やっているのだ。名古屋弁でいえば「必死こいて」―――。(中井久夫「荒川修作との一夜」『記憶の肖像』所収)


以下、草間彌生と荒川周作に反してーー改めて二人の文章は発言を読んで戦慄しこういうことを記しているのは忸怩たる思いがしないでもないが、冒頭から始まる引用の補遺としてーー次のラカン派による(これはこれですぐれた注釈ではある)を付記しておく。


剥奪 (privation) は「想像的父を動作主とする象徴的対象の現実的穴」である。これをパラフレーズするためには剥奪の概念が去勢コンプレクスとペニス羨望を説明するために作られたことに注意しておかねばならない。

剥奪は,女性のペニスの不在(現実的な穴)つまり実在性の次元での知覚(の欠如)を,象徴的な仕方で代理することである(S4) 。たとえば,自らがペニスを持っていないことを発見した女性は,自分を男の子のようにペニスを付けて産んでくれなかった母親を憎み,いつの日かペニスの代わりの子供(象徴的代理)を父からもらえることを望む(ペニス羨望)。一方,男性の場合では,自分はペニスを持っているため,自らのペニスが剥奪されるわけではない。しかし,女性がペニスを持っていないこと(現実的穴)を発見することは,男性にとって外傷的に作用する。男性は女性の剥奪(ペニスの不在)を目にすることによって,自分も去勢されるかもしれないという不安をかかえることになるのである。

しかしペニスの不在が「不在」として知覚されるためには,そもそもその不在の知覚以前にそれが「現前」しているものとして想定されているのでなければならない。つまり,原初的には「男性だけでなく女性も母親をフアルスを授けられたもの,つまり,いわゆるファリックマザーとして考えている 」 ( E686) のである。 それゆえ,母のペニスの不在が知覚されたとき,そこには象徴的なフアルスが発見されているのである。これは例えるなら,図書館のなかで一冊の本がなくなったとき,それは純粋に存在しないわけではなく「あるべき場所に欠けている」わけであって,「ない」という意味で「ある」という性質を持つという事態に似ている ( S4) 。これは象徴的対象だけに起こる事態であって,反対に現実的対象は常にあるべき場所にあり.欠如の可能性をもたない。象徴的なもの,つまりシニフイアンだけが「その場所に欠けることができる」 (E25)のだ。

また,ここでFreudのいう事後性(遡及性Nachträglichkei:引用者)が機能していることも見逃してはならない。男性にとっては,去勢が発達において導入されるには,去勢の脅しが行われるだけでは十分ではない。「そんなことをしていると切ってしまいますよ」というやり方で自慰を禁止したりするだけでは,去勢は効果を発揮しないのである(S5)。去勢の脅しの後に,剥奪,つまり母という女性のペニスの不在(現実的な穴)を発見することによって,事後的に去勢が機能し始める。つまり.「去勢の意味作用は. . .「母の去勢」を発見することに基づいてのみ起こる」( E686 ) のだ。(松本卓也「エディプスコンプレクスの構造論一一フロイト.クラインからラカンへ」2011,PDF


次に、ポール・ヴェルハーゲのPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)の私訳の再掲(参照:古い悪党フロイトの女性論)。

一連の文章だが、やや長いので段落を分けて小題をつけている。


【10年のあいだ〈女〉を探し求めたフロイト】
フロイトの自伝(『自己を語る』(……)、最初のヴァージョンである1925年版においては、エディプスコンプレックスは次のように要約されている。少年は性的欲望を母へと集中する。それ故、ライバルである父に対して憎悪感を育む。少女にとっても、類似した状況が当然の如く起る。欲望される対象としての父とともに、母はライバルの役割が授けられる。10年後、フロイトは注を付し、このエディプスの発展の問題において、少年と少女のあいだに想定された類似性を廃棄する。この10年のあいだ、フロイトは〈女〉を探し求めていた。結果として、彼は母に遭遇したのだ。(……)


【男女とも最初の愛の対象としての母】
このフロイト理論の箇所は、比較的よく知られている。というのは、主にその議論の余地が大きい特徴のせいである(Grigg, 1999)。…まず問題含みの箇所を要約してみよう。

少年も少女もともに、母が最初の愛の対象である。息子にとっては、前エディプス期、エディプス期ともに、母は愛の対象のままである。そこで、父の介入がはっきりした効果を生む。すなわち去勢コンプレックスである。去勢不安のせいで、母は(愛の)対象としては放棄される。そして父の権威の内面化が生じる。このように、男性のエディプスコンプレックスは、去勢を施す父への恐怖の影響で、超自我を形成して終わる (『エディプスコンプレックスの消滅』 [1924])。近親相姦の禁止が、族外愛の強制を伴って設置される。いったん男になったら、以前の息子は性交にも同様にアクセスするが、他の女に対してである。この移行が常にはスムーズにいかないことは、既にフロイトによって、偉大な臨床的手練を以て叙述されている (『男性に見られる対象選択の特殊なタイプについて』[1910])。

事実上、前エディプス期の発見は、男-息子にかんするフロイトのエディプス理論に大きな変更を与えていない。ただ一つの例外がある。母はもはや、単に欲望される対象、受身の対象ではなくなる。彼女は前エディプス期の中心的形象となる。


【少女の愛の対象の母から父への移行】
少女にとっては、事態ははるかに複雑である。前エディプス期のあいだ、彼女は母に向けて能動的な愛の衝動をもつ。それは少年と同様である。だが、それからどうやって正式の愛の対象、すなわち父への移行が起るのか? フロイトによれば、これは少女によるペニスの発見と「ペニス羨望」の出現によって引き起こされる。少女がペニスを与えられていないという事実は、劣等感と嫉妬感の上に、彼女は憎悪を以て母から身を翻し父へと向かうことを意味する。父へと向かうのは、彼女に欠けているものを父から受け取ろうと希望するからである。去勢不安の女性版対応物、ペニス羨望は、このようして、エディプスコンプレックスの設置を引き起こすものとなる。そこでは、少年側は事実上、エディプス期の終焉の始まりなのだが(『解剖学的な性差の若干の心的帰結』[1925])。フロイトにとって、女性のエディプスコンプレックスは男性と同じような明確な終焉点をもっていない。そしてこれは、女性の超自我が男性のそれのような厳しさを獲得することが決してないのを説明する。


【二重の置換:クリトリス→ヴァギナ、母→父】
フロイトは二つのジェンダーのあいだの相違を、少女にのみ当て嵌まる二重の置換にて要約している。まず最初に、少女は性感帯を変えねばならない。男根的クリトリスはヴァギナと交換されねばならない。第二に、対象が変更されねばならない。父が母の場を占めるのだ(「女性性」[1933])。

この二つの移行は、さらにはっきりと解明され得る。最初の移行は、能動的・男性的クルトリスが、受動的で迎え入れる性質をもつ女性的ヴァギナと交換されなけばならないことを意味する。対象としての父への移行は、さらに二つの含意がある。第一に、もともと父から来るものとして欲望された対象としてのペニスは、子ども(赤ん坊)への欲望に変換されねばならない。第二に、この子どもは結局、男、彼女の男から欲望されなければならない。この男とは、彼女の父の場所を代わりに占める男だ。結局、フロイトは次のように書くことになる、女も後年、彼女の後の愛の対象として自分の母を探し求める、丁度どの男もそうするように、と(『女性の性愛』 [1931])。


【女になることの困難】
このように考えると、女になることはひどく複雑で困難な試みであるだけでなく、希望をもてないものになってしまう。注意深い読み手なら気づくことだろう、我々は振り出しに戻っていると。すなわち、母とともに始まり、最終的に母に戻るのだ、その母とは、すなわち、彼女自身が母となる少女である。さらに全体の過程は、男-父によって指図されている。男-父が事実上、女-母を生むのだ。この理論は数多くの拒絶反応を引き起こした。それがフェミニストからだけではないのは、驚くことではない。臨床的実践がたいした立証をもたらさないため、批判はさらに強くなる。

実際、ペニス羨望の存在はまったく明らかではない。そしてすべての娘が母から身を翻すわけではない。なぜ少女は父に向けて移行すべきなのか? フロイトの説明ーーペニスの欠如の発見に従った少女にとってのナルシシスティックな屈辱感が、少女を母から身を翻させて父に向かわせるーーこれは、ポストフロイト時代を通して、ひどく疑われた。そしてフロイト自身の論拠においてさえ、あのような展開は袋小路に行き着く。すなわち、少女は女にならない。単に母に変身させられるだけだ。こういったわけで、全く異なった解釈が可能だ。


【受動的ポジションから能動的ポジションへ】
袋小路はしばしば誤った前提の結果である。対象の変更のための動機としてのペニス羨望を、さらにもう少し検討しなくてはならない。フロイトが(少女が)母から身を翻す動機としてペニス羨望を議論したとき、彼は常に数多くの他の動機に言い及んでいた。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

その動機の内で、中心的なものは、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の他者であることから主体性への移行だと。ペニス羨望や去勢不安を言う前に、子ども、少年も含んだどの子どもも、既に、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。


【原不安としての分離不安と融合不安】
フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。


【ラカンの考え方】
ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。

【エディプスコンプレックス劇場】
「前エディプス」期に先行されるエディプスコンプレックスという考え方は、主体の母、あるいは父への各々の焦点の輪郭を描くことになる。エディプスコンプレックス劇場では、全体として、父母の両方の人物像の配役がある。中心的な登場人物は母を以て始まる。母は、どの子ども、そのジェンダーにかかわりなく、いずれの子どもにとっても、最初の愛の対象である。この最初の関係は、とても特徴ある配役設定をもたらす。

一方で、能動的権力の体現者としての母がいる。拒絶したり、供与したり、さらに悪い場合は、不在である。他方、受動的で、受け取るしかないポジションの幼児がいる。そこでが選択は限られており、受諾か拒絶しかない。

ーー《エディプスコンプレックス自体が、症状である》(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)



【ファリックマザーとの同一化による全能感】
成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定された幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への幼児期の同一化である。実に "Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut"(女が欲することは、神も同様に欲する)は次のように読むべきだ、"Ce que la maman veut, Dieu Ie veut" (母が欲することは、神も同様に欲する)と。既に(フロイトの症例ハンスの)小さなハンスが知っていた通りである。

もっとはっきり言うなら次の如し。成人の神経症の全能感は、幼児のファリックマザーとの同一化に戻ることだ(Lacan, 1994 [1956-57])。その意味は、ファリックマザーとは、欠如なしの母であり、母は子どもによってそう感受される。パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳細には、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。



【母に殺される恐怖/サディスティック衝動】
フロイトの所見によれば、受動性は常に独特の反応を伴う。すなわち能動的反復である。人が受動的に経験しなければならなかった物事の能動的反復である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。前エディプス期の母-子どもの関係はこの規則の例外ではない。

子どもは能動的に振舞いたい(上演したい)のだ、母から受動的に我慢せざるを得なかったことを。最初の移行は、母乳を飲まされることから能動的に乳を啜ることの段階にかかわる。それは場合によって口唇-サディスティックな局面を伴う。病理的事例では、これは間違えようがない。母に向けての攻撃
的な口唇-サディスティック衝動はその反対物を見出す。母に殺される恐怖である。
この口唇期の例は単なる暗号ではない。実際、二つの対立する極ーー能動性対受動性ーーは、母と子の関係における享楽の局面に関係する。

受動の極から能動の時空への移行をする子どもの試み(それは少女だけではなく少年も同様)は、次のように理解されなければならない。すなわち、(母の)享楽の受動的対象にあるポジションから逃れ出し、快の能動的コントロールに向かう試みだと。


【子どもを誘惑する母】
最初期の理論にて、フロイトは、父による誘惑という考え方と神経症者にとっての基盤として幼児の性的トラウマを唱えた。神経症の遍在はこの考え方から距離をとることを余儀なくさせたのだ、もっとも実際にはそれを廃棄することは決してなかったが(Freud, letter to Fliess, September 21, 1897 [1978 (1892-99)])。

三十年後、彼はこの考え方を定式化し直した。原初の誘惑は、保育する状況以外の何ものでもない。母が子どもをある享楽の形式に「誘惑する」のだ。後ほど、すなわち最終のエディプス段階に過ぎない、誘惑者のポジションが、子どもの想像力のなかで父に移行するのは。

ついにフロイトは見出したのだ、想定されたトラウマ的誘惑の遍在にとっての本当の基盤を。どの保育状況も、潜在的に、誘惑的であり享楽的である。このまさに同じ状況における、トラウマ的で故にぞっとさせる側面は次の事実に関係する。すなわち、主体は他者の享楽の受動的対象のポジションに陥れられることである。そのような関係の原初のヴァージョンは、初期エディプスの、母と子のあいだの紐帯である。

ーーより詳しくは、「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ。


【二者関係から三者関係へ】
この二者関係からの退出は、第三の形象、父によって可能になる。それは受動的から能動的なポジションへの移行を伴っている。

初期ラカンの枠組み内での類似の論考は次の通り。子どもはもともと二者関係内で母の享楽の受動的対象である。この享楽は、シニフィアンの象徴的秩序外部に位置するため、シニフィエ(意味づける)ことが不可能である。

ふつうは、父の介入が、意味作用と規制を導入することを通して、象徴秩序を導入する。ふたたび注意すべきなのは、この論旨において、フロイトとラカンともに、危険は母にあり、救いは父にあるということだ。二人のあいだの相違は、ラカンにとって、原父どころか父自身でもなく、父の象徴的機能にアクセントが置かれていることである。

(フロイトと母、1872年、16歳)


【補遺】--ここまでは一連の文章だが、以下は同じ書物の別の箇所から抜き出している。

後期の理論で、ラカンはフロイトの錯誤を公然と非難した。

それにもかかわらず、現在、フランスに精神分析のある保守的な層において、権威ある父の再生された懇願が聞かれうる (NAOURI , A. 2004)

この非難はラカンのセミネールの極めて後期に現れる。それ以前は、フロイトとラカンは異なった時代に書いているにもかかわらず、彼らの理論は、この点に関して、とてもよく似ている。二人ともエディプス理論を展開したのだ。それは父への懇願であったり、父への謝罪でさえある。その父とは、母に関する欲動に駆られた危険に対する不可欠な保証人である。

この二人のあいだにある最も重要な相違は、フロイトにとって、危険は、母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)を起源とすることだが、ラカンにとっては、全く反対方向だということだ。すなわち彼にとっては、子ども(事実上、息子)をあまりにも欲望する母に起源があるということだ。

この相違を脇にやれば、彼らの理論は似通っており、どちらも絶大な権威をもった父の形象から解決を期待している。まさに彼らの理論のこの側面が、私が考えるに、底辺に横たわる問題への神経症的な応答、その治療上の(理論の媒介による)承認に過ぎないのだ。後に詳述するが、この問題は、ラカンがその後期理論にて理解したものとしての「享楽」概念にすべてが関係する。


不思議にもラカンと母の写真は見当たらない。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ。(ラカン、セミネールⅩⅦ)

鰐の口、あるいはヴァギナ・デンタータでもこれといった画像は見当たらない。

かわりに荒木経惟の「書かれぬものをやめぬもの」を貼り付けておこう。





《自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう》

これはフロイトが『グラディーヴァ』で引用しているホラティウスの言葉である。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)




私のチューリップへの関係はひどくリンチアンだな、胸が悪くなるよ、想像してみろよ、あれはヴァギナ・デンタータと呼ばれるものじゃないか、君を飲み込んじまうヤツだ。そもそも花ってのはとんでみない代物さ。わからないかな、あの怖ろしさが。開いた誘いだろ、昆虫や蜂への。「おいで、私を掻き回して!」私が思うに、花ってのは子どもたちには禁じられるべきだね(ジジェク