外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。
幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年 『徴候・記憶・外傷』所収)
幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。
たしかに、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっている。生きるとはライプニッツの言葉を借りれば「過去を担い未来をはらむ」現在を生きることであり、記憶もつねに現在との緊張関係においてある。
それは個人史も社会・民族・国家の歴史も同じことである。すなわち、人間集団の歴史的事実もたえず評価が変わり、事実も評価の変化をとおして代わってゆく。ある事象はそもそも書かれなくなり、忘却のかなたに去る。長い間、ささやかな挿話にすぎなかった事象が重大な意味を帯び、その観点から調査されてディテイルがくっきりしてくる。そのは事実自体も不動ではないということである。
もう一つは、非常に多くの記憶が消滅している。個人史においても世界史においても、いたるところに空隙があり、消失がある。記憶されているのはごく一部にすぎないのが事実である。しかも、個人も人間集団も、その歴史の連続性を疑わない。少なくとも個人においては三歳以後の人生が連続しているという感覚がある。これを「自己史連続感覚」と名づけよう。
自己史連続感覚は多くの忘却や空隙にもかかわらずゆるがない。したがって外傷性障害における時間喪失や逆行性健忘が苦痛や困難をともなって長く「外傷的」に記憶されるのは一見ふしぎである。
「正常な時間喪失」や「正常な忘却」が異常なそれらよりも圧倒的に多量であるはずなのに、自己史連続感覚がゆるがないのはなぜであろうか。……(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』pp.167~)
(さなぎ期) |
◆外傷性記憶と成人型記憶の特性について(中井久夫「外傷性記憶とその治療 ーー 一つの方針」初出2003年より)。
【外傷性記憶の特性】
【成人型記憶の特性】
(田んぼの真ん中の一本道。周りに他の幼児たちの集まりがある(集団登園だというのは後ほどの言語命題)。遠くに鎮守の森がみえる。遠い…。
幼児たちは、たすきがけにしてハンカチをぶら下げている。他の幼児はすべて白いハンカチなのに、私のものは柄ものであるのに気づいて泣き出している。母が駆けつけてくる、その上気した困惑の表情。)
(1)静止的あるいはほぼ静止的映像で一般に異様に鮮明であるが、
(2)その文脈(前後関係、時間的・空間的定位)が不明であり、
(3)鮮明性と対照的に言語化が困難であり、
(4)時間に抵抗して変造加工がなく(生涯を通じてほとんど変わらず)、
(5)夢においても加工(置き換え、象徴化なく)されずそのまま出現し(通常の夢が睡眠のレム期に出現するのに対して外傷夢はノンレム期であるという研究がある)、
(6)反復出現し、
(7)感覚性が強い。状況の記述や解釈を伴う場合は事後的、特に周囲、写真、日記、新聞記事などの外的示唆によることが多い。
(8)視覚映像が多いが、一九九五年一月の払暁震災のように振動感覚の場合もあり、全感覚が記憶に参与しうる。聴覚の場合、微妙な鑑別が必要となる。
(9)何年経っても何かのきっかけによって(よらないこともある)昨日のごとく再現され、かつしばしば当時の情動が鮮明に現われる。これを身体外傷と比較すれば、ヴァレリーのいうとおり、体の傷は癒えても心の傷は癒えないということになる。これは脳の一つの特性であろう。
(10)過去の追想につきものの「時間の霞」がかかるどころか、しばしば原記憶よりも映像の鮮明化や随伴情動の増強が見られる。
【成人型記憶の特性】
(1)サルトルがいうように眼前の事物像に比して絶対的貧困性があり、特に細部が曖昧であり、
(2)常に文脈の中にあって、したがって、生の連続体の一部として意識され、
(3)容易に言語化され、言語化されることによって「自己史」連続体の一部としてくりこまれ、その副次的な、一種の「挿絵」という第二義的地位に座を見いだし、
(4)語りとして「自己史」の一部に統合された結果、生の進行とともにその意義、その内容の強調点が変化し、されに一般に自分の都合のよいように、あるいは自己を美化するように変造・加工され、
(5)特にこの変造・加工は(この場合はレム期においてみられる)夢に著しく、置き換えや象徴化されるのが普通である。このことは外傷夢の無加工性と対照的である。
(6)主題や場面やストーリーが反復再現するが、全くの再現ではない。
(7)感覚性の強さは言語化された記憶を経由したもので、一般に時間とともにうすらぎ、質的にも変動を起こして、ある特異な情動すなわち「なつかしさ」を伴う。否定的内容の事件に対しても「けっきょく済んでほっとした」「よくやってこれたものだ」という肯定的結論の情動を伴うが、これもまた時間とともに現場感と切実さを失ってゆく。
(8)当初は個別感覚に基礎を置くが、次第に一般感覚的、さらに雰囲気的なものが前面に出てくる。
(9)昨日のごとく再現されることが絶対にないとはいわないが、それはきわめて稀であり、了解しうる状況においてである。たとえば若い日の恋人との予期しない再会。しかし、その場合でも特異な情動たとえば「ほろにがい甘さ」が加わっており、細部はしばしば状況に都合のよいように変造されている。
(10)大きな特徴は、先に挙げた「連続性」とともに「時間の霞」である。事件との時間的距離の感覚があり、それが記憶をひとつの全体の中におさめている。時間性が成人型記憶の全体を覆っていて、外傷性記憶の時間停止と対照的である。
(田んぼの真ん中の一本道。周りに他の幼児たちの集まりがある(集団登園だというのは後ほどの言語命題)。遠くに鎮守の森がみえる。遠い…。
幼児たちは、たすきがけにしてハンカチをぶら下げている。他の幼児はすべて白いハンカチなのに、私のものは柄ものであるのに気づいて泣き出している。母が駆けつけてくる、その上気した困惑の表情。)
…………
次に「発達的記憶論」初出2002年における「外傷性記憶再論」から小節から。上にかかげた外傷性記憶と成人型記憶の特性の約一年前に書かれており、下記の文は、その詳述ともとらえうる。
外傷性記憶は、一般に通常の記憶に比して、
(1)プロトパシー的である。その鮮明性と対照的に言語化が困難である。その独特の感覚の「質」はその一つである。
(2)「非文脈的」(絶対的)である。この非文脈性は生涯をつうじての不変性、静止性、反復出現性、絶対性(非相対性)、前後関係と時空的定位との不可能性となって現われる。外傷夢の場合は夢作業による加工が行われていないということも、その一つであろう。何年、何十年経っても昨日のごとく再現される。身体外傷が八カ月でほぼ瘢痕治癒するとの対照的であって、心の傷の大きな特徴ということができる(ヴァレリーの『カイエ』にあるとおり「体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五十年の失恋の記憶が昨日のことのように疼く」)。もっとも、古い身体的外傷もセネステジー的に「うずく」ことはある。
(3)主に視覚的記憶が問題にされるが、実際はすべての感覚にわたって現われる。すでに述べたように、振動感覚は一九九五年の阪神・淡路大震災においてみられ、聴覚は幻聴となって統合失調症としばしば誤診されている。触覚、味覚、嗅覚は、インタヴューにおいて問われないために見逃されている可能性がある。性感覚もある。
鮮明性は視覚中心に考えられているが、それぞれの感覚によって独自の鮮明性(生々しさ)がある。ただ、視覚と聴覚以外は、その感覚よりもそれがもたらす結果によって知られることが多いのではないか。阪神・淡路大震災直後および一年後の記念日において、振動感覚のフラッシュバックはまず驚愕と恐怖の表情と、刺激の大きさに釣り合わない「跳び上がり」によって知られたのであった。触覚、味覚、嗅覚なども、この非文脈性のために自他に理解できない嫌悪行動、回避行動(「これはどうしても食べられません」など)に現われている可能性がある。
(4)想起は非自発的、受動的、しばしば侵入的である。類似の感覚刺激によって誘発されることは上記震災の記念日現象にみられるとおりである。別の重要な外傷後行動症状である「回避」との接点でもある。
(5)しばしば強い情動と連合している。この情動は、嫌悪、驚愕、恥辱、マヒ(金縛り)感であることが多い。これが行動症状としての「回避」との第二の接点である。強い情動と連合している場合には、複数の感覚が融合して「共通感覚」となっていることが多い。あるいは共通感覚が地盤となってその上にいずれかの感覚が突出しているのであろうか。
(6)また、情動と感覚の距離が近く、しばしば感覚か情動かの区別がつきにくい。このことは、直接的な嫌悪、驚愕、恥辱、マヒを引き出す触覚以下の近接感覚において顕著である。視覚、聴覚などの遠距離感覚は、刺激の対象化(客観化)を目指す感覚であるために、直接に情動と結合することもあるが、触覚などの近接感覚に触発されて二次的に生じる結合も多い。身体的現象とされる「古傷が疼く」のも、実際には心的外傷の共通感覚的想起であるのではなかろうか。
外傷関連障害においては、恥辱感をはじめとする情動との連合性によって、患者は多くの症状を進んで語らず、その結果、さまざまな病名を告げられ、誤診に異議を唱えず、多年にわたって誤診にもとづく治療を受け入れていることが多い。これは治療者の大いに留意するべき点である。
(7)しばしば、原記憶に比して記憶映像および情動の増強と鮮明化がみられる。これは生理学的疎通(facilitation――反復された特定の刺激経路がそれによって通りやすくなること)によるのかもしれず、反復強迫によることもあり、森田正馬のいう「精神交互作用」すなわち注意の焦点となる強化・反復増強・意識の中心への移動のためとも考えられる。
(8)想起は「索引性」(後述)によらない。いつもすぐ隣りの「控え部屋」にいるようにただちにそっくりそのまま出てくる。この点も成人型記憶との大きな相違点である。
(9)成人型記憶においては、いくつかの記憶を綜合して、これを思考、感情、あるいは意志への導入の手はじめとすることができる。これは、言語化の容易性、文脈性、索引性などによるものと考えられる。外傷性記憶は、二つ以上の独立した感覚映像を同時的・並列的に意識内に置くことができないようである。すなわち、一つの感覚がある時点での意識を独占する。二つ以上の感覚がある場合にあh、融合して共通感覚化するのであろう。たとえばいじめの加害者の視覚映像と聴覚(音声内容と音調)映像。
成人型記憶を幼児型記憶と対照させれば、
(1)一般に記憶映像に全体と部分があり、分化している。しかし、それだけに尽きるものではない。それは、ふだんは不明瞭であるが、部分を切り離して取り出し、その部分を拡大することができる。さらに、これから部分を取り出して、拡大することができる。すなわち、二次的な「全体と部分」ではなく、重層性、階層秩序〔ヒエラルキー〕性、そして「フラクタル性」(部分を拡大してみると全体と同じ建築的構造architecturalityがある)を持っている。
(2)ゆらぎ性がある。記憶建築は柔構造である。これは記憶映像が視覚であっても絵画のように固定的図式ではないことを含意している。サルトルはこれを記憶の絶対的貧困性と呼んだのであろう。絶対的貧困性とは視覚的記憶映像の任意の部分を問うてみると、必ず曖昧な部分があることである。
(3)これと関連して、文脈依存性 contexutuality がある。すなわち、自己史記憶連続体の中で、その時間的・空間的前後関係によって感覚映像もそれに伴う情動が決定される。したがって、生きてゆくうちに、自己史記憶連続体の中での意味づけも変化し、それに伴って情動も、記憶映像自体ですら変化する。かつては生死を賭けた問題も時間がたてば一片の挿話となってしまう。
(4)索引性indexicality がある。想起は、一見無媒介的であっても、文脈的である。すなわち、文脈を「索引」に用いて到達できる。
(5)言語化が容易である。サルトルのいう絶対的貧困性は言語化と関連して言ううることであって、記憶映像自体が「貧困」かどうかをいうことはできない。むしろ、記憶映像の過剰な豊富性を「減圧」し「貧困化」しえ、「合意による確認」すなわち社会性を帯びさせることに、言語化の第一義的な意味があるのであろう。
言語化の第二の重要な意味はストーリーとしての自分史の形成が言語化を介して行われることである。……
満開の木のそばを通ると、時々、花びらがゆっくりと落ちてきた。すると影がすばやく──落ちる花びらよりもすばやく──花びらを迎えに川底から浮かびあがってきた。それを見るのは、崇拝者や傍観者は見てはならないものを見たような奇妙な気持ちだった。─『ナボコフ自伝─記憶よ、語れ』
【中井久夫自身の幼児型記憶】
(1)「誰かの背に背負われて、青空を背景に、白い花を見上げている」
これはそういう写真がないし、話題になったこともない。もっとも、「誰か」は祖父であるがこれは後の推定である。白い花は「アカシア」であると知っていて、それは聖心女学院小林分校への道のアカシア(正確にはニセアカシア)の並木道であるが、いずれも映像ではなく後から加わった命題記憶である。私は六〇年後に行ってみた。わずかに一〇メートルほどのあいだ、ニセアカシアの老木が残っていた。
(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」
イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。
(3)「ハコベの生えているところで太陽に向かって祖父と深呼吸をしている。祖父が「新鮮な空気を吸う」と言い、私が真似をしている」
記憶には、裏庭にはハコベが生えていたという映像がある。他にいろいろのものがつけ加わっているが、それらは命題記憶だけで、映像を欠いている。
(4)「窓から田んぼをへだてて向こうを走る自動車を眺めて数えている」
これは武庫川の堤であるというのは、消去法によって生まれた結論であると思われる。「田んぼ」には視覚的に初めから焦点が合っておらず、したがって季節は不明である。
(5)「応接セットがあってカンバスで覆われたまま、二つ横並びにしてある。そのあいだのひじかけにオモチャの機関銃を据えて撃つマネをしている。「わあ、かなわん。降参」と母方の祖父が言っている」
声ははっきりしない。応接セットであるというのも命題記憶である。並んだ椅子の肘かけだけが視覚映像である。機関銃を祖父からおみやげに貰ったというのも、命題記憶であろうと思われる。
(6)「ベランダのようなところから川の流れをみている。向こうに民家、その向こうに山」
これは宝塚遊園地の建物(大劇場か)にあった武庫川に臨む「納涼台」という屋外で軽食を食べさせるところから武庫川を眺めているのであろう。この時かどうか、ここの(と思う)「キツネウドン」の味を覚えている。
(7)「人間が細く映る鏡や太って映る鏡に自分を映している」
これも宝塚の建物の中であると推定できる。
(8)「天井に鈴蘭灯が揺れている。天井は白い。鈴蘭灯はくもりガラスで、縁は金色」
これは阪急電車の車内に立っていて、大人の乗客のあいだから見上げた天井であろう。「阪急電車」というのは消去法である。
(9)「雑然とした茶褐色の家並みの間の道でおばさんが「ぼっちゃん、じろーじゃ」と言っている。私は「ちがう、じどうしゃ」と言い返す」
これは、命題記憶によって、母親の郷里の村のメインロードであり、おばさんが「森本さん」という人だと知っているが、映像の中には手掛かりはない、こういって私をからかって笑っている場面であることは確かである。
(10)「どこかの階段。木がまだ新しい。陽が照っている」
これは時も場所も状況も全然見当がつかない(この背後には大きな家族問題が隠れているかもしれない)。そういう記憶映像がいくつかある。朝日新聞が東京-ロンドン間を飛行させた「神風号」のニュース映画を観に行ったはずなのに、覚えているのはパラシュート降下する人の映像で「神風号は落ちたはずはないのに」と思ったとか。(中井久夫 同「発達的記憶論」)
視覚的な記憶には二種類ある。一つは、目をひらいて、心の実験室のなかで、その面影を苦労して再現するもの(この方法で見たアナベルは、つぎのような漠然とした言葉で表現できるようだーー蜂蜜色の肌、細い腕、短く切った茶色の髪、長い睫毛、溌剌とした大きな口)。それから、もう一つは、目をとじたとたんに、まぶたの暗い内側にぽっかりうかんでくるものーー最愛のひとの面影の客観的な純粋に視覚的な再現、実物そおままの色彩をもった、かわいい幽霊だ。(この方法で私の目にうかぶのはロリータだ)。(ナボコフ『ロリータ』)
……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。それから四ヶ月後に、彼女はコルフ島で発疹チフスで死んだ。
こうしたみじめな記憶のページを何度となくめくりながら、私の人生の亀裂は、あのとき、あの遠い夏のきらめく日ざしのなかではじまったのだろうか、あの少女への熾烈な欲情は先天的な異常性格の最初の徴候にすぎなかったのだろうかと、くりかえし自分に問いつづける。しかし、自分自身の渇望や動機や行動などを分析しようとすると、私は際限なく二者択一の問題を提供して分析癖をたのしませる一種の回顧的な想像に落ちこみ、そのために、一つ一つの道筋が果てしなく八方にわかれて過去が狂おしいほど複雑なものに見えてくるのだ。しかし、ある魔術的な宿命的なつながりによって、ロリータの前身がアナベルだということは確信できるように思う。
また、アナベルの死のショックが、あの悪魔のような夏の日の欲求不満を固定化し、それが永久的な障害となって、もはやいかなる恋もできずに灰色の青春時代をおくらなければならなかったことも、私は知っている。現実的で、がさつで、標準的頭脳ばかりのいまの若い人たちには、さだめし不可解だろうが、……(ナボコフ『ロリータ』)