このブログを検索

2015年11月10日火曜日

現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic

以下、資料。

ジュパンチッチの表象論の一部を私訳して掲げるが、いままで〈一〉と訳してきた“the One ”をここでは一律「壱」とした(山括弧が多すぎて不快になったためだ。そもそも一は横書きにはあわない漢字である。会計文書のような感を抱かないでもないが、もうひとつのイチ、「壹」--これは壺を想起させ、包み込む機能としての主人のシニフィアンにはふさわしいのだが、やや見た目が重すぎる)。

バディウの概念である “count-as-one” ( として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。

…ラカンはセミネールⅨ(同一化)にて、統一性と全体性とのあいだの結束 solidarity を打ち破った。これは、ラカンに部分とともに作業することを可能にした。すなわち、ある壱 a oneとしての全体性の不在 inexistence は「部分的システム partial system」としての部分を考えることを可能にした。ラカンはこのシステムを無意識と同じものとする。(……)部分的システムとしての無意識の存在 existenceは、究極的には、空虚の内-在 in-existence に依拠する。あるいはもっと厳密にいえば、要素として内-在する in-exists 部分としての空虚の存在に依拠する。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa

※参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)


さてここでの核心の、アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”(2004)の一部の粗訳を掲げる(難解な論文で、わたくしには曖昧なままの箇所が多いので、かならず原文を参照のこと)。

なお、“Concept and Form:The Cahiers pour l’Analyse and Contemporary French Thought (Representation)”には次のような叙述がある。

If one were to name one central issue that distinguishes the rise of modern thought’, suggests the Lacanian philosopher Alenka Zupančič, ‘it is perhaps none other than precisely the issue of representation, its profound interrogation, and the whole consequent turn against the logic of representation

くり返せば、誤訳をおそれるので、かならず原文を参照のこと(わたくしはいまだこの文章をにらんでいるのみの段階だから)。

…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口 major breakthrough だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。

メタ構造としての表象の問題、そして結果として起こる要請ーー表象からそれ自身を引き離す、あるいは「状態 state」からそれ自身を引き離す要請の問題は、純粋な多数性の存在論、無限の、偶然性の存在論とは異なった存在論に属した何ものかである。

メタ構造としての表象は、一つの世界にかかわるのみだ。そこでは、たとえどんな理由であれ、「神は死んだ」という出来事的表明は、なんの真理もない。

対照的に、無限の偶然的な世界(あるいは「状況」)では、メタレベルに位置している「それ自身を数えることの勘定 counting of the count itself」は何の必要性もない。

それは、「壱に対して数えること counting-for-one 」自身と同じレヴェルに位置しており、ある還元不能の間隔 irreducible interval によって、それから切り離されているだけだ(そして、この間隔を、ラカンは現実界と呼んだ)。

さらに、これがまさにある状況を「無限」にする。無限にするのは、表象のどんな操作の除外 exclusion でもない(表象の操作とは、壱に対してそれを数え、そしてそれ自身の上にそれを閉じることを「欲する」)。そうではなく、表象の操作の包含 inclusion である。

どんな個別の「現前 presentation」をも無限にするのは、まさにそれがすでに再現前(表象 representation )を含んでいるということによる。この着想はまた、結合(あるいは固定)unification (or fixation) をもたらす。バディウが「状態」と呼んでいるものとは別のものだが。

ラカンはそれを「クッションの結び目 」(point de capiton)の概念と繫げる。(潜在的に potentially)無限のセットの結合は、メタ構造の場合とは同じではない。「クッションの結び目 」としての S1 は、S2 に対して、メタシニフィアン meta-signifier ではない(S2、すなわち潜在的にvirtually 無限のシンフィアンの鎖とその組み合せであり、ラカンはまた「知」とも呼んだが、その S2 に対して、S1[主人のシニフィアン]はメタシニフィアンではない)。

S1 がこのセットを結びつけるのは、「数えること自体を数えること 」counting the count itself によってはなく、二つのカウント two counts の直接的一致のまさに不可能性を「現前する presenting」ことによってである。すなわち、二つのあいだのまさに隙間を現前することによってである。

言い換えれば、S1 は二つ(「数えること」counting と「数えること自体を数えること 」counting the count itself )が壱になることの不可能性のシニフィアンである。まさに隙間、あるいは間隔、あるいは空虚のシニフィアンであり、表象のどんな過程のなかでもそれらを分離するシニフィアンなのである。空虚とはまさに表象の無限のレイヤー化 layering の原因である。

ラカンにとって、「あること=存在」being の現実界とは、この空虚、あるいは間隔、隙間であり、このまさに非一致 non-coincidence なのだ。そこでは逸脱する過剰はすでにその結果である。S1 がこの空虚を現前させるのは、それを名付けることによってであり、それを表象しはしない。

ラカンの S1 、(悪)評判高い「主人のシニフィアン」、あるいはファルスのシニフィアンは、逆説的に、ただ「壱であることはない」the One is not と書く仕方しかない。そして「 is 」は、すべての「壱に対してのカウント」count-for-one の最中にある原初の乖離を構成する空虚である。

「壱に対してのカウント」count-for-one は、つねに-すでに弍である。S1 は、人が、「壱であることはない」the One is not として描きうるもののマテームである。それは、「壱であることはない」the One is not と書かれる。まさに、それが壱であることを邪魔するものを現前することによって。これが 、S1 が言っていることだ。すなわち、「壱であることはない」と。しかし、純粋な多数ではなく、弍なのだ。

これがおそらくラカンの決定的な洞察である。もし、人が「壱の存在論」を置いてきぼりにして先に進むための用意を持ちうる何かがあるのなら、この何かは単純に〈多数〉ではない。そうではなく、弍である。

ーージュパンチッチが「 is 」としているのはおそらく「繋辞」として捉えられるだろう。

さて、ジジェクは、LESS THAN NOTHING(2012)にて、上のジュパンチッチの叙述の一部を引用して、次のように記している。

すべてはこの決定的ポイントにかかっている。すなわち、脱構築主義者、あるいは歴史主義的「民主主義的な唯物論者」の反哲学は多数性 multiplicity を褒めそやし、「二項論理」を毛嫌いする。それらは、弐のなかに次のものを見るのだ、ただたんに鏡像のような壱の二重化を(この理由で、反哲学者たちは、ヘーゲルの多、対抗、矛盾の継起を批判することを好むのだ。その批判は、ヘーゲルの「本質の論理」の始めからであり、多数から壱への漸進的服従の典型的事例とするわけだ)。唯物論者の弁証法は、弐なしの多数性は、ただたんに、諸壱 Ones の多数性であるということを知っている。諸壱 Ones の多数性、すなわち、複数性の単調な夜、そこではすべての牛は黒い。

多数性の反哲学的「褒めそやし」が見逃していることは、壱がそれ自身と合致しないことだ。この非合致は、壱をその対立物のまさに「現象」(appearance 幽霊)の形式にする。すなわち、その状況の複合性が、どの壱の土台を掘り崩すだけではない。ーーはるかに根源的なのは、それ自身を二重化する壱のまさに壱性 one‐ness である。それは「単純な壱 simple one」を蔽う過剰として機能する。

ここでは、空虚の機能が決定的である。どの壱をも内部から破裂させるものは、その統合を転覆する複合性ではない。そうではなく、空虚はいずれの壱の部分でもあるという事実である。すなわち、「シニフィアン壱」、ある多数性を統合し全体化するそのシニフィアンは、この多数性のなかにそれ自身の空虚を刻印する点である。

あるいは、ドゥルーズ用語の「最小の差異」(物の、それ自体からの距離を示す純粋に潜在的差異、どんな現実の特性に依拠することもない差異)にて言えば、現勢的アイデンティティactual identity はつねに潜在(潜勢)的な最小の差異に支えられている。(ZIZEK,LES THAN NOTHING、私訳)

ーーこのあと、メイヤスーやカントールに触れており、カントールのロジックは、ラカンの非全体 pas-tout の論理と相同的なものとの指摘があるが、カントールの「カ」の字もしらない者にとっては、訳出をーーつまりかかわりあいになるのをーー当面(?)遠慮しておくことにする。

ジジェク組(ジュパンチッチ、あるいは冒頭のロレンツォ・キエーザも含めてよいだろう)はメイヤスーの著書を「すばらしい洞察に満ち溢れている」としつつも、次のような見解なようだ。

Lorenzo Chiesaの編集する“Lacan and Philosophy: The New Generation”, 2014には、ジュパンチッチによるメイヤスーの『有限性の後に(Après la Finitude)』をめぐる論“Realism in Psychoanalysis”(Alenka Zupancic)が収められているのだが、ロレンツォは冒頭の序文で次のように記している。

As we have already remarked with reference to para-ontology and the letter, the real is that which needs to be put aside for traditional ontology to be able to speak of ‘being qua being', and consequently any discourse on being qua being is in the end made possible only by its very opposite, namely, by the fact that ‘that which it is', Lacan's idizwadidiz, ‘can only be'—to use Zupancic's highly convincing formulation—‘by being something else than it is', i.e. contingently. Such a reflection on the utter contingency of ontology and of being qua being puts her in a position to denounce what she rightly calls Meillassoux's ‘God of atheists', that is, ‘a God guaranteeing that there is no God', the absolutisation of the absent cause which we defined earlier as ‘a (not-one)'. But while I prefer to associate Lacan's stand -point with an innovative form of para-ontological agnosticism, Zupancic chooses to understand her psychoanalytic realism as a ‘Lacanian atheism'.(……)

In the name of this Lacan, of his anti-ideolinguistic insistence on the materiality of the signifier, we should therefore establish a constructive negotiation with science that neither circumvents the question concerning the emergence of language and the ‘nature of nature' nor commits Meillassoux's mistake of numerically reifying acausality and non-totalisability (in this regard, I am myself tempted to label the speculative realists as post-Cantorian and post-Gödelian Pythagoreans).

ーーこの論集には、ラカン・カント・フレーゲをめぐる若き(哲学的)ラカン派の論もおさめられているのだが(ジャック=アラン・ミレールによるフレーゲに依拠した名高い論『Suture』をベースに)、これがまたひどく難解ーーわたくしにはーーである。

※参考:“The first great Lacanian text not to be written by Lacan himself” – Reading Miller’s ‘Suture’

…………

ジュパンチッチは、「壱に対して数えること counting-for-one 」が《ある状況を「無限」にする》としているが、これはなにもアカデミックな話ではなく、われわれの日常でもそうである。

たとえば、〈私〉という一人称代名詞や、私の固有名(名前)は、主人のシニフィアンS1である。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

私という言表内容と私の言表行為とはギャップがある。だがその言表行為の主体は、表彰内容から除外されずに、表象操作を含んでいる。すると、〈私〉なるものは無限となる。だからわれわれはいつまでも話し続ける。

無限にするのは、表象のどんな操作の除外 exclusion でもない(表象の操作とは、壱に対してそれを数え、そしてそれ自身の上にそれを閉じることを「欲する」)。そうではなく、表象の操作の包含 inclusion である(ジュパンチッチ)

もちろん言表行為の主体が除外されていると思い込んでいるシアワセな人たちもこの世には存在するだろう。すなわち人は、〈私〉という一人称単数代名詞によって語るとき、言表行為と言表内容は一致しているつもりになることはありうる。そしてそれで生涯をおえる人さえもいるだろう。

主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。(ラカン、S.17)

……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.

〈私〉=S1というシニフィアンは、場合によっては、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる“maître/m'être à moi-même”(S.17)。 ラカンはほかにも、「〈私〉という小さな主人」 petit Maître, comme « moi »(S.17) といっている。

もちろんこれらの文は、フロイトの決定的な文、《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》とともに読まなくてはならない。

さて、私が自分の家の主人でないことに気づくとはどういうことか?

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス(作家の方法)』)