以下、いままで訳したり引用したりしたもののパッチワーク。
まず最初は穏やかに中井久夫から。
ーーそろそろ自極と対象極がかなり接近してきて、マーク・ロスコの「原初の深淵」に誘惑されてみたい(呑み込まれてみたい)齢が近づいてきたるんじゃないか? いつのまにかロスコがひどく好みの画家になったな。
まず最初は穏やかに中井久夫から。
ーーそろそろ自極と対象極がかなり接近してきて、マーク・ロスコの「原初の深淵」に誘惑されてみたい(呑み込まれてみたい)齢が近づいてきたるんじゃないか? いつのまにかロスコがひどく好みの画家になったな。
……「私」といい「世界」といっても、真実は「私/世界」という、不可分のものを指しているのである。それは、ウォーコップ/安永浩のいう意味における「パターン」である。不可分なだけでなく、「私」があって「世界」があるのであり、「私」という概念が「世界」に優先する。「非-私」として「世界」を定義することは可能だが、「非-世界」として私を定義できない。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収 p.26)
安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極を両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(「発達的記憶論」同上所収)
Lust-Ich(快自我) の事の起りprocessus は、原初 primaire かもしれない。どうしてそうでない訳があるだろう? それが「原初」なのは明瞭だ、いったん我々が考え始めた時には。しかし、それはたしかに「最初 premier」ではない。
《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》
これが少し前に、私が言ったことだ…世界はレトリックの華 une fleur de rhétorique だ、と。文字通りの谺が自我 moi にも及ぶだろう、自我もまたレトリックの華でありうる、と。それは、快原理の壺 pot du principe du plaisir で育った、フロイト云くの "Lustprinzip" ――私は次のように定義しておくよ、《何んたらかんたら blablabla で満足しているもの》、と。(ラカン、セミネールⅩⅩ(アンコール)より粗訳ーーラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla)
◆“Sexuality in the Formation of the Subject”(ポール・ヴェルハーゲ 、2005)より(参照:原文)
【原自我と世界】
…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。
発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。
注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。
【取り込みと吐き出し】
快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。
不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。
この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。
注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。
すべての過程は、快と不快の経験によって方向づけられる。すなわち興奮の上下動に。人間の発達において、文字通りの「取り入れ」と「吐き出し」は、すぐに知覚的イメージの取り入れと吐き出しによって代替される。
この点において、イメージは言葉と繋がる。交流にかかわる人間にとって本質的なものが始まるのだ。この発達段階の大きな一歩が意味するのは、この点以降、我々はもはや有機体と外的世界とのあいだの交換を扱うのではなく、主体と他者とのあいだの交換を扱う、ということだ。
具体的に言うなら、母の乳房から母の舌への移行である。この理由で、ラカンの〈他者〉、大文字の他者は、「具体的な他者」と「他者が子どもに言ったこと全体」の両方を示すのだ。
言葉とイメージの使用は、アイデンティティ形成過程は同じままで、別のメカニズムを導入する。快を与える「外部」を文字通りに取り入れする代わりに、我々は今では〈他者〉のシニフィアンに同一化するようになる。不快をもたらす「外部」を文字通りに吐き出す代わりに、不快を生み出すものを抑圧するようになる(フロイト『欲動とその運命』1915)。
【ラカンの「a」】
ここでラカンのほうに顔を向けるなら、フロイト理論はラカンの鏡像段階理論にて容易に裏づけることができる。簡単に要約するなら次の通り。最初に、幼児は部分欲動から来る興奮を何か外的なものとして経験する。それは“ラカン派では”、文字「a」によって示される。
幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのだ。というのは、それが何で「ある」かのイメージを子どもに現わすのは母なのだから。
ラカンはこれを、光学器械からの一枚の鏡の構成として知られるもので描写した。凹面鏡と実際の花束、その下にある実際の花瓶をもっての工夫に富む構築の手段にて、花瓶のイメージは、花束の周りに投影される。
ここでの花束は部分欲動を表す。花瓶は容器を表すーーすなわち、欲動がその中で作用する幼児の全体としての身体である。光学器械の実験が示すのは、反射過程を通して、鏡は次のことを引き起こすのだ。すなわち、容器/身体の表面によって文字通りに包み込まれて、花束/部分欲動が現れる(incorporate[包み込む]のcorpusはラテン語で“身体”を意味する)。
【〈他者〉がメッセージを書き込む紙としての身体】
精神分析的観点からは、これは、母が幼児にその原アイデンティティを構築するイメージを現わすことを意味する。そのようなイメージは決して中立的なものではない。というのは、母は子どもの興奮を解釈する必要があるのだが、この解釈において、彼女自身の欲望と部分欲動への立場が中心的な役割を演じるからだ。ともかくも、アイデンティティの基礎的な層は、〈他者〉によって現わされたイメージに帰着する。そのイメージを子どもは取り込んだり拒絶したりはするが。フロイトにとっても(『自我とエス』1923)、自我は、まずは身体の表面であり、心理的な内容物は後からそこへ付けられる。
これは思いがけない結果をもたらす。我々自身の最も親密な部分、「我々自身の」身体が、〈他者〉によって我々に手渡されるのだ。ラカンによれば、無意識は言語のように構造化されている。この観点において、明らかなのは、身体は最初の紙の一枚として機能することだ、その上に〈他者〉がメッセージを書き込む紙として。
最初の〈他者〉、標準的には母は、要求と欲望を通して、幼児の身体のなかに〈他者〉の欲望を注ぎ込む。そうこうしているうちに、幼児は「自らの」欲望を通して「自らの」身体を持つという意識を獲得する(ラカン『セミネールⅧ 転移』)。結果的に、主体はヒステリー的な身体のイメージを得る。すなわち、〈他者〉のシニフィアンによって徴示された signified 身体のイメージである。
これは奇妙にみえるかもしれないが、ラカン理論のこの側面は、日常生活のなかにもひどく容易に認められる。社会的レヴェルでは、常に〈他者〉が身体の装いや外観を決定づける(ファッション、ジェンダーの役割、アート、ヘルスケア等々)。だが、それだけではない。とりわけいかに楽しむかを決定づける(身のこなし、食べ物、飲み物、エロティシズム)。ミクロレヴェルでは、両親、すなわち最初の〈他者〉と第二番目の〈他者〉は露骨に、見かけと楽しみの両面において、主体の身体の形式を躾ける。それ自体、この身体のイメージはアイデンティティの基礎的レイヤーを形作る。……
…………
さてヴェルハーゲの議論は上に引用した箇所以降も続くが、そこではエロスとタナトスが焦点になっている。この議論は異論も多く、ここでは敢えて掲げない(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。
今は上に掲げた文の補遺となる叙述を抜き出しておくだけにする(参照:享楽の「侵入」)。
ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。
ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。
この心理的な他者の表現-能印 expression は、幼児にとって印象-受印 impression となる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。
快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化 mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2008 私訳)
※附記:フロイトの「原始的な快自我 primitiven Lust-Ichs」をめぐる箇所(『文化への不満』より)
……病理学によれば、自我と外界の境界が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。すなわち、自分の身体の各部、いやそれどころか、自分の精神生活・知覚・考え・感情などまでを自分のものではない異質のものだと思いこむ患者もあれば、反対に、明らかに自分の内部で起こったことであり、当然自分が責任を取らなければならないことを外界の責任にしてしまう患者もあるのだ。つまり、自我感情も阻害されることがあり、自我の境界線は不変ではない。
さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情なるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものはーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして「客体」が、自我の「そと」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。感情の総体からの自我の分離――すなわち「非我」とか外界とかの承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快感原則が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感である。こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我と対立する、純粋な快感自我を形成しようとする傾向が生まれる。この原始的な快感自我primitiven Lust-Ichsの境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快感を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。
われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害の出発点になる。
自我が外界とのあいだに境界線を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していたーー感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえなければ、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集p.433-434)