・反復は享楽に到ろうとする試みを基にしている
・享楽は侵入を通して、身体に生じる。この侵入は徴を得る。〈他者〉の介入を通して、身体に刻印される。享楽への道を歩みつつ、人は不可避的にこの道に沿って、かねて勃然とした徴に従わねばならぬ。(同意訳)
というわけで侵犯から侵入のラカン、その後者の「享楽の侵入」をめぐるメモ
《……享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。》(同上)
・清潔好きな母が念入りに子どものお尻を拭くのなら、何が起こるか?
より広くラカンのセミネールを眺めるなら、セミネールXVII(精神分析の倫理)はセミネールVIIに反した位置にある。そしてSeminar XI(四基礎概念)とセミネールXX(アンコール)のあいだの移行の場を占める。倫理のセミネールでは、享楽は現実界と捉えられ、それゆえ象徴界とは全く反対のものである。そこでは、享楽は法の侵犯を通してのみ到達し得る。精神分析の裏側S.17のセミネールでは、対照的に、享楽は侵入に関わる。さらに、ラカンは享楽とシニフィアンの原初的関係性を唱える。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳)
ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。
ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。
この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。
快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009 私訳)
《……享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。》(同上)
享楽は〈他者〉のシニフィアンによって徴づけられる。主体は自らの享楽についての知を、それを通して獲得する。たとえば、
もしなんらかの理由で、ある身体的エリアや言動が、母によって、他のエリアや言動よりも徴づけられたら(享楽の侵入)、それが人の生涯において卓越した役割を占めるのは確かだ。(同上)
・清潔好きな母が念入りに子どものお尻を拭くのなら、何が起こるか?
→ 肛門性愛(清潔好きのひとは、肛門性交愛好家が多い?)。
・母が快い舌語や歌で子どもをあやすのが巧みだったらどうか?
→ララング愛好、場合によっては詩人や歌手などへの道
ーーということになるのだろう、たぶん?
古いヴァージョンではこのla langueがlalanqueと表記されていたが、最新ヴァージョンのとおり、la langueとしなければ意味が通じない。因みにlalangueについては、本講演のほぼ7ヶ月前に1974年3月30日Scuala Freudiana(Centre culturel françaisとも記されている) で行なわれた講演 v. http://www.effet-freudien.com/download/lacan1974.doc.で、平易な説明がなされている。
lalangueとはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(荻本芳信『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74 )
※附記
私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候――再考」同27号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。
その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。
実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。
むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)