……私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。
ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?
そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)
ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)
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◆CONTRAINDICATIONS TO PSYCHOANALYTICAL TREATMENT、Jacques-Alain Miller、2003、PDF
ここに分析家 P氏がいる。彼はある女性の患者を 5年のあいだ診察している。P氏は彼女を寝椅子に横たえ、彼はその後ろで肘掛け椅子に座る。彼女は週3度訪れる。人は信じうるかもしれない、これが「純粋精神分析」だと。もっとも 2セッション不足しているが。患者は 5年間、どんな変化の徴候も示していないという事実を除外して。
彼女は単調で反抗的独白にてセッションを埋める。一連のセッションにて、彼女は微に入り細を穿ち語る。彼女に起こったことは何でも。分析家 P氏は、通常、解釈と呼ばれるものを彼女に語りかけようとする。彼女は話を中断し、彼に話させる。それは終わったら、独白を再開する、「まるで何もなかったかのように」とP氏は言う。
短いセッション・長いセッション・解釈あるいは介入・扇動あるいは激励ーーどれも全く機能しない。分析家 P氏は途方に暮れた。彼はもはやさっぱり分からない。なぜ彼女がそこにいるのか、なぜ彼はそこにいるのか、彼は誰でいったい何をしているのか。それにもかかわらず、彼は堪えた。というのは彼は覚えているからだ。患者が彼に会いに来る前、同僚の精神科医と一緒にいた。彼は約1年ほど彼女を診た。その後、彼は彼女を追い返した。彼は彼女に言った、「あなたはここでは何もすることがない」と。
自殺未遂が起こった。P氏は、患者の臨床変化にかんして、もはやどんな希望もなかった。にもかかわらず、彼は彼女を追い返さなかった。彼はまだ覚えていた、とても昔に彼女がかつて一度言ったある事を。「ここに来ることは、私にとって、狂気に陥らないための支えなの。父がそうなったような狂気に」。彼にとってこれで充分である。もちろんそうだ。彼は他には何もない。
これは純粋精神分析だろうか? いや、確かにそうではない。これは治療だろうか? 全くはっきりしない。これは経験だろうか? 経験を締め出しているわけではない。が、何もその徴候がない。しかし誰がいるだろう、分析家を除いて、このゲームの役割を担う人物が? ここに彼が自らを対象(対象a)に化身させた力能がある。その対象のまわりに、いくら空しいものに見えようと、患者の語りはぐるぐると巻きつく。彼は、疑いもなく、患者についてそれ以上のことは何もわからない。
精神分析家-対象を以って、精神分析は空洞のための場、間隙のあいだにある空間を提供する。そこでは、制限された時間内で、患者は主体となる機会を持つ。すなわち、それをしなかったら患者を同定しているあり方、その存在の欠如をもたらす機会を持つ。もしあなたがたが望むなら、ウィニコット用語を使ってもよい、移り変わる空間 transitional space と。純粋な見せかけ semblant の場、日常生活の裏面 [ l'envers] のような場。そして、そこで主体は絶え間なく駆り立てられて戻ってゆくーー、意味 sense の生誕へと、主体の最初のさえずり(喃語 babblings)へと。それは偶然性の場であり、必然性はその握りこぶしをゆるめる。そしてこれはまさに可能性の場だ。
もし主体がこの経験にてなすことが何もないにしてさえ、それにもかかわらずセッションは可能性の場である。その場にて何の変化もないかもしれない。だが移行は常に可能だ。
この理由で、分析家との出逢いは主体にとって測り知れない価値を証している。それが不可能な精神分析の場合でさえ。(ミレール、2003、私訳)