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2016年5月30日月曜日

現勢神経症と原抑圧・サントーム

以下、メモ

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(PDF)

「現勢病理」の共通の分母は、興奮、あるいは緊張が、心理学的-表象的な仕方で、加工されえないという事実である。フロイトにとって、これは、当時の精神分析では治療は不可能であることを意味した。言葉上の、いや象徴的素材さえもがないので、分析するものは何もない。フロイトの論拠では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。

私の読解では、この古典的なフロイトの区分は、もし我々が処方と病理学上の両レヴェルで、彼の理論を拡大するなら、新しい症状と古典的な症状とのあいだの相違である。「現勢病理」に関して、ラカン的観点からみるなら、興奮を表象へ移行することの典型的な失敗が意味するのは、主体と大他者とのあいだの関係において、何かうまくいっていないものがある、ということだ。とくに、主体形成、あるいはアイデンティティ発達の過程における欠陥である。結果として、アイデンティティの水準での問題に遭遇する。不可欠な展開は臨床的多様性にかかわる。フロイトは、不安神経症と神経衰弱(現代のパニック障害と身体化somatization)しか叙述していない。しかし、これらのみが「現勢神経症」の可能な形式ではない。私の見解では、全ての境界性パーソナリティ障害とトラウマ神経症の殆どを付け加えなければならない。この表象の不可能性は、我々分析家をとても困難な状況に置く。というのは、それが意味するのは、我々は通常の精神分析的アプローチを適用しえないということだから。(ヴェルハーゲ、2008、私訳) 

「現勢神経症/精神神経症」(現勢病理/精神病理)をめぐるフロイト自身の言葉を抜き出せば、次の通り。

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧:引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症の原因として現われ、第一の場合は精神神経症に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926,旧訳P.356、一部訳語変更「現実神経症→現勢神経症」等)

「もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧)」が「現勢神経症の原因」とある。原抑圧とは、後期ラカン理論の≪「一」のシニフィアン=文字=対象a≫かつ、身体の出来事=サントームである(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

事実、ラカンは、セミネール23において、聴衆のひとりからのサントームをめぐる質問に答えるなかで、「原抑圧 Urverdrängung」と口に出している(参照:ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代)。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(S.23)

原抑圧とは実際は原刻印のことであり、原症状のことである。ここで初期フロイト概念Somatisches Entgegenkommenーー「身体側からの対応」とフロイト旧訳では訳されているが、英訳ではsomatic complianceであり、これは「(流動する)身体 soma の服従」とでもできるだろうーー この語は「欲動の固着」のことでもある。これが晩年のラカンの「身体の出来事 un événement de corps」=文字=サントームでなくてなんであろう。

【無意識は文字】l'inconscient peut se traduire par une lettre
C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention.

Mais l'étrange, c'est que c'est cela que le symptôme opère sauvagement : ce qui ne cesse pas de s'écrire dans le symptôme relève de là. (Lacan,S.22)


【文字はS1】
Après quoi, il est clair que ce savoir exige au minimum deux supports, n'est-ce pas, qu'on appelle termes, en les symbolisant de lettres.

D'où mon écriture du savoir comme se supportant de S… non pas à la deuxième puissance …de S avec cet indice qui le supporte, cet indice d'un petit 2 dans le bas… ça n'est pas le S au carré …c'est le S « supposé être 2 » : S2.

La définition que je donne de ce signifiant, comme tel… et que je supporte du S indice 1 : S1 …c'est de représenter un sujet, comme tel, et de le représenter vraiment. (Lacan,S.23)

ここでのS1は、おそらくミレールの言う「たったひとつきりのシニフィアン signifiant tout seul」のこと。

逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)

ここでの要素現象にも注目しておこう。この前期ラカンの概念「要素現象 phénomènes élémentaires」とは、結局、原抑圧にかかわる。そして後期ラカンの「文字」と等価だと思われる。

要素現象は、主体が象徴界のなかの穴に遭遇し、その後引き続いて発生するシニフィアンである。ミレール(2008)によれば、要素現象は、隠喩と換喩の不在のせいによる意味作用の失敗によって特徴付られる(穴と欠如との相違については末尾引用有り)。  

これは、≪ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇≫(ミレール、2012)とも言い換えられる。

(精神分析において)解釈をもたらすのは、ララングの水準においてだ。

« C'est au niveau de lalangue que porte l'interprétation » (Lacan, Le phénomène lacanien ,1974ーー中井久夫とラカン)

ところで、ラカンのセミネール20には、stoïkeïonという語がある。
……le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien : le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste. (Lacan,Séminaire ⅩⅩ ーー参照)

この原要素 στοιχεῖον[stoïkeïon] とは、ブルース・フィンクの「アンコール」英訳注によれば、要素 element、原要素 principal constituent、文字 letter 等々のこと。


【文字は対象a、かつ「一の徴」(trait unaire, einziger Zug )】
 La seule introduction de ces nœuds bo, de l'idée qu'ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.

Et si je le réduis - cet « osbjet » - à ce petit a, c'est précisément pour marquer que la lettre, en l'occasion, ne fait que témoigner de l'intrusion d'une écriture comme autre, comme autre avec, précisément, un petit a.

L'écriture en question vient d'ailleurs que du signifiant. C'est quand même pas d'hier que je me suis intéressé à cette affaire de l'écriture, que j'ai en somme promue la première fois que j'ai parlé du trait unaire : einziger Zug dans FREUD. (Lacan,S.23)

……………………

ラカンは「文字」、あるいは対象 a を、主人のシニフィアン S1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、この S1 は S2 (他の諸シニフィアンの一群)から 隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。 (ヴェルハーゲ、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)
穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥの最も深い特性である。Ⱥ は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)