the era of the ‘Ur’ – Freud’s UrverdrängungーーAnne Lysy (ECF, NLS, WAP, current President of the NLS))
すなわち、われわれの時代は、原抑圧の時代である。「父の名」(父の法)の機能が弱体化すれば、抑圧から、その抑圧の底にある原抑圧へと向かうのは当然だ。
これはなにも Anne Lysy-Stevens が勝手に言っているのではなく、セミネール23において、聴衆のひとりからのサントームをめぐる質問に答えるなかで、ラカン自身が「原抑圧 Urverdrängung」と口に出している。
Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.
現在ラカン派では、サントームの臨床が強調されることが多いが、その内実はーーすくなくとも主要な内実のひとつはーーフロイト概念の「原抑圧」にかかわることになる(参照:「原抑圧・原固着・原刻印・サントーム」)。
かつまたジャック=アラン・ミレールは、「父の名」の何種類ある定義を提示するなかで、六番目の定義として、父の名=サントームとしている(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)。
ただし、ここでの「父の名」は、実際は「父の諸名」のことだろう。
父の諸名(Noms-du-père,複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。
…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)
そして、旧来の「父の名」の下っ端ヴァージョンとしてある「父の諸名 les Noms-du-père」とは、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方をおそらく表している。
前者の意味でのサントームとは、《un événement de corps = sinthome》 (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)である。
ただし、これを父の名のひとつとしてよいのかどうかは、わたくしには厳密には曖昧なままだ。むしろ論理的には、「母の名」(母の法)としたほうがよい気がする。
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。
事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。
そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel 、‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
もっとも、くり返せば、サントームは原症状の意味をもっているーー 《sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung)》(Post-Fantasmatic Sinthome (Youngjin, Park、PDF) ーーには相違ない。いま曖昧なままなのは、この原症状を父の諸名とすることができるのかということだ。
この曖昧さは、次の文の« La femme »を、〈母〉とすることができるかどうか、という問いもかかわる。
「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。
[La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».](ラカン、セミネール23、 サントーム)
別に、《女は男のサントームである [Une femme est pour tout homme un sinthome]》(S.23)などという厄介な発言もある。
前に戻って、後者ーー挿入が多くなりすぎて「後者」の意味合いが不鮮明になってしまったが、「母から受動的に侵入・刻印された原初の徴/そこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け」の二項の後者ーーが、旧来の神経症者における「父の名」(父の法)とは異なって、その「父の名」が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョン père-version (あるいは vers le père、つまり父の機能に向かう倒錯的替え玉、父の傀儡 la dupe du père )ということになる。
…………
以下、資料編。
◆まず、エリック・ロランーーフロイトの大義派(Ecole de la Cause freudienne)、いわゆるミレール派のナンバー・ツー)の2012年の記事(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM )より。
《Sur n'importe quel plan, le père c'est celui qui doit épater la famille. Si le père n'épate plus la famille, naturellement… mais on trouvera mieux ! C'est pas forcé que ce soit le père charnel, il y en a toujours un qui épatera la famille dont chacun sait que c'est un troupeau d'esclaves. Il y en aura d'autres qui l'épateront. 》(Lacan,S.19)
※妄想については、幻想=妄想とするミレールの観点を前回引用したが、ここではミレールではなく、ジジェクを再掲しておこう。
◆次にベルギーの臨床家ポール・ヴェルハーゲへのインタヴュー記事(2011)より掲げるが、ヴェルハーゲは次ぎのように言われることもある人物である。
“PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE”(An Interview With Paul Verhaeghe,2011,PDF)より(インタヴュアーのDominiek Hoens は、英語圏のラカン解釈にかかわる論集でも、ときに見かける名だが、専門は哲学であるようだ)。
《変わったのは、大他者なのです》とあるが、これはもちろん、上に掲げたエリック・ロランの文を参照しつつ、「変わったのは、「父の名」なのです」と言い換えることができる。
……「ふつうの精神病」は、皆が精神病的であることを意味していない。人は精神病的主体から学んだ教訓(それは臨床領野のすべてと関係がある)と、臨床カテゴリー自体を混淆してはならない。(……)
我々はクレペリンの時代と同じ状況にある。当時、精神病院に入院した人々の80パーセントほどは、パラノイア(妄想)的だと考えられた。我々は「ふつうの精神病」をいたるところに持っているだって? いやそんなことはない! このコンセプトは、整備プログラム、調査、方向づけであり、我々は、何を扱っているかが分かるまで当面抱き続けているものだ。
その上おそらく、「精神病」という言葉が時代の精神とズレる日が来るのではないか。代わりに、「ふつうの妄想」という用語について語る来るべき日が。
ジャック=アラン・ミレールが、ジャック・ラカンのエラスムス的調子、『痴愚神礼讃』の調子をもって言った「みな狂人だ、みな妄想的だ」(参照)。これは、みな精神病的であることを意味しない。そうではなく、このすべては、21世紀における我々の現代的調査、すなわち、精神病とは、我々にとって何を意味するのかの問いである。
それはちょうど、精神病のふつうの地位が、普遍的な拡がりを持っていることを意味しないのと同様に、我々は精神病的主体から引き出した教訓は、「父の機能」が消滅したわけではないことだ。父の機能は残っている。変形されてはいるが。
父はいる。よりふつうの位置の父が。ラカンはこの父を次のように呼んだ。まだ「ウケる(épater)」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父と。彼は「例外」を構成する者だ。我々を驚かす能力がある者だ。ジャック=アラン・ミレールは、これを示す例を取り上げている。現代の政治家は、それが道化師の機能のようであってさえ、印象づけようと奮闘している、メディアやコミュニケーション産業に囚われつつ、印象づけようと努めている、と。もちろん、これは正しい仕方でなされなければならない。
《Sur n'importe quel plan, le père c'est celui qui doit épater la famille. Si le père n'épate plus la famille, naturellement… mais on trouvera mieux ! C'est pas forcé que ce soit le père charnel, il y en a toujours un qui épatera la famille dont chacun sait que c'est un troupeau d'esclaves. Il y en aura d'autres qui l'épateront. 》(Lacan,S.19)
(……)印象づける者とは、我々の世界において、よりいっそうの規律と統整を喚起させる者だ。…他の皆とは異なった形で、なんとか物事をなそうと努める者たち。このような個人は、我々の特殊なカテゴリーに入る。そして我々の調査における共同者である。すなわち、いったん我々が分類不能の地平にあるとき、いかに「ふつうの父の名」が変形・機能しているかを取り調べる共同者だ。……(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM 、2012)
※妄想については、幻想=妄想とするミレールの観点を前回引用したが、ここではミレールではなく、ジジェクを再掲しておこう。
欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」)
◆次にベルギーの臨床家ポール・ヴェルハーゲへのインタヴュー記事(2011)より掲げるが、ヴェルハーゲは次ぎのように言われることもある人物である。
この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013、PDF)
“PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE”(An Interview With Paul Verhaeghe,2011,PDF)より(インタヴュアーのDominiek Hoens は、英語圏のラカン解釈にかかわる論集でも、ときに見かける名だが、専門は哲学であるようだ)。
DH)新しい病理・新しい病い・新しい主体性の型についての全ての問いにかかわって、より厳密なラカン派的接近方法内では、これらはしばしば「後期ラカン」と関連づけられます。その「後期」とは、エディプス・コンプレックスの彼方のラカン、サントームと享楽のラカンという意味です。これは、純粋な理論的立場からは、次のことを意味しないのでしょうか? つまり、欲望、エディプス・コンプレックス、あるいは無意識は、もはや役立つカテゴリーではないことを。
PV)エディプス・コンプレックスについてのラカンの最後の理論において、彼はそれを必要不可欠な社会構造としています。しかしまたラカンは、エディプス・コンプレックスは、定義上、この個別の社会構造を必要としないことをも示しています。一つの社会構造がなければならない、享楽に対する保護、限度を設けるという意味での保護です。これは、倫理のセミネール 7 と比べて、きわめて異なった視点です。セミネール 7 では、享楽は、法の侵犯として叙述されているのですから。とはいえ、一方は他方を排除しません。最後の理論は、倫理のセミネールの核心として現れたものの実に深い反映です。ところで、私はあなたの質問を忘れてしまった。
DH)私は別の形で定式化しえます。精神分析理論、そして古典的形式におけるラカン理論は、神経症の理論、無意識の理論、去勢の、欲望の理論です。あるポイントでーーこれはラカン読解のある仕方で、ということですが、ときに、セミネール 17、あるいはセミネール 20 に断絶(裂け目)が位置されると読みえますーー、このポイントにて、ラカンは、古典的ラカンの出発点を変えたかもしれない、と。そして、異なった理論の選択のもと、古典的ラカンを捨て去りさえした、と。
私は、ジャック=アラン・ミレールによって広められた用語に思いを馳せています。すなわち、「ふつうの精神病」、psychose ordinaire です。これが指摘しているのは、古典的神経症ーーヒステリーと強迫神経症ーーはまだ出現しはしますが、(あなたがすでに言及したように)以前より減少した、ということです。これは別の問題にかかわるに違いありません。この論拠の流れにしたがえば、精神分析が依拠する基盤、歴史的であると同時に原則的な基盤ーー無意識の理論、欲望の理論--はもはや効力はない。このカテゴリーでは、わずかなことしかなされえない。そう人は考え得ます。というのは、主体性の新しい形式、快楽との関係性を考えるために、もはや適切ではないからです。
PV)私は異なった仕方で定式化します。ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。
実に全く疑いはない。私たちは、もはや単純にフロイト理論や初期のラカン理論を適用しえないことは確かです。それはまさに単純な理由からです。すなわち、神経症は異なったものになった。社会が変わったからです。アイデンティティさえ変貌した。これを私もまた確信しています。…
でもこれは次のように言うことではない。すなわち、私たちは、古典的理論に現れた、数ある決定的語彙を使い続けえない、と言うことではない。不安の理論、快楽の理論、欲望の理論。それはただ現在異なったふうに転調されているのです。
変わったのは、大他者なのです。私たちは、大他者への数々の変化を感知しています。…結局、フロイト理論は、ヴィクトリア朝社会の解釈です。これは過ぎ去った。私たちは、今、ポストモダン社会、新自由主義社会のなかにいます。そう、私たちの理論はその新しい社会のなかの数多くの構造を認知しています。そして、エロス、タナトス、不安、快楽、ジェンダー、去勢のような数多くの根本問題も、その社会のなかに場所を持っています。だが、もはやヴィクトリア朝にあったものではない。
《変わったのは、大他者なのです》とあるが、これはもちろん、上に掲げたエリック・ロランの文を参照しつつ、「変わったのは、「父の名」なのです」と言い換えることができる。