2016年5月6日金曜日

太鼓のひと弾き

君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる [Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie] (ランボー「A une raison」)

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東浩紀 @hazuma: トランプについて、彼が大統領になりかねない現実をなんとか理性的世界のなかに組み込もうと努力している論評(本選でどうせ負ける、じつはまともナドナド)を数多く見かけるけど、ぼくは、彼は単なる馬鹿であり、それを選ぶぐらい現代世界は病んでいるのだとシンプルに捉えるのが正しいと思う。

そしてそれはアメリカだけでなく、欧州も日本も同じだと思う。おそらくは今後、世界的に、政治家は馬鹿になっていくだろう。歴史的には、いわゆる民主主義が一時うまく回っていたのは、産業革命から2世紀、財と象徴資本が著しく偏在し議論の質を暗黙に支えていたからという結論になるのではないか。

ぼくたちはいま、グローバルな衆愚政治の時代のとばぐちにいるわけで、かつてのように民衆が選良を選び、選良が国家を動かすという幻想はもはや信じることができない。いまだその幻想にしがみつくひとが多いが、基本的に不毛だと思う。そんな時代で各自どう生きるかも、根本的に再考する必要がある。

正しさの根拠が支持者の数で決まる世界というのは、個人的にはたいへん貧しい世界だと思うし、ぶっちゃけ人類の叡智がかなぐり捨てられている感しかしないが、それでいいと本人たちがいいというのであれば口出しできないというのが現代世界の倫理なので、たぶんこの衆愚政治化は回避しようがないのだ。

やっぱ、人類には神が必要なのかもしれないね。「おれはこんなに民衆に支持されてるぜ、金もってるぜ、だから偉いんだ、正しいんだ」と臆面もなく発言してしまう人間に対する、抑止力としてね。近代が神を殺したのは、プラグマティックにまちがいだった気がするな。

というか、そもそも神は、そういうアホを抑止するためにこそ生み出された観念なんだろうから、その機能的有用性を無視して、神の概念を勝手に実体視して、「神なんか存在しません(キリッ」とかやってた近代人は単純に愚かだったんだな。神なんているわけない。でも必要だったんだよ。。。


これはひどく「正しい」問いかけではないか。

わたくしには「民主主義」をいまさら顕揚しているインテリ連中が、ひどいマヌケにみえる。

国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる。(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)
現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である。(バディウ

そして、われわれには「神」が必要であることもまちがいない。象徴秩序を支える大他者(父の名)としての「神」が。

《始めに言葉ありき》(「ヨハネによる福音書」)

神とは言葉(ロゴス)である。

なにかを名付けることは神の諸名のひとつである。

父の諸名(Noms-du-père,複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

具体的には、次のようなことだ。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)


それをラカン派ではクッションの綴じ目ともいう。

象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立において、現実界 the Real は象徴界の側にある。それは、象徴界にまとわりつく--象徴界の非一貫性/裂け目/不可能性という装いにてしがみつく--現実 reality の部分である。現実界とは、象徴秩序と現実 reality とのあいだの外面的な対立が、象徴界自体に内在しているーー内部から手足を切断されつつ内在しているーーそのポイントにある。すなわち、象徴界の非全体 pas-tout である。ひとつの現実界 a Real があるのは、象徴界が外部の現実界 external Real を掴みえないからではない。そうでなく、象徴界が十全にはそれ自体になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、ひびが入っているせいである。というのは、現実界 the Real とは形式化の行き詰まりだから。

この命題は、その十全な「観念論者」の重さを与えられねばならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かなので、どの形式化も現実 reality を掴むのに失敗し、現実の上でよろめくという《だけではない》。現実界 the Real とは、形式化の 行き詰まり以外の何ものでもない。濃密な現実 reality が「向こう out there」にあるのは、象徴秩序の非一貫性と裂け目のためである。現実界 the Real は、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。現実界は象徴秩序の外部にある例外ではないのだ。

現実 reality はそれ自体、不安定で非一貫的なものだ。したがって、現実は、それ自体を一貫的な領域へと安定化するために、主人のシニフィアンの介入が必要である。この主人のシニフィアンは、点(ポワン・ド、キャピトン)を徴づける。この点において、シニフィアンが現実界 the Real のなかに落ちる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ポワン・ド・キャピトン point du capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)

ジジェクの見解では、バディウの「正義」でもなく、かつまた「民主主義」でも「自由」でもなく 、別の「神の言葉」、別の名付けが、現在、ひどく必要である。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)

…………

※附記

現在の混沌の主因は、実は誰もがわかっているはずだ。ただ、フロイトの無意識の基本的定義のひとつである「知っていることを知らない」振舞いをしているだけだ。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーー「ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈」)

たとえば、ラカン派の臨床家でもあるヴェルハーゲは次ぎのように言う、新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

・ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014、私摘要訳 )