2016年5月4日水曜日

「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

われわれはーーすくなくともフロイトや前期ラカン、さらにはドゥルーズなどの読者であったわれわれれ、多くは凡庸な解釈者を通しての分かったつもりになっていただけかもしれないわれわれは、そうであっても、神経症・精神病・倒錯の区分けにそれなりに魅されてきたと言えるのではないか。

たとえばドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』には、次のような表現がある、《オイディプス的な家族的大地、倒錯の人工的な大地、精神病の隔離された大地》。この書が上梓された当時は、まだ「オイディプス的な家族的大地」の残照があった。だが、いまはそんなものはほとんどない(すくなくとも先進諸国では虫の息である)。

そのとき、あいつは「神経症」的だよ、あるいは「精神病」、「倒錯」的だよ、とは何か。たんに血液型の推測と似た遊戯の一種のようなものなのか。

かりにそうであっても、旧套の人間であるわたくしは、この三区分の「血液型推測」にいまだ魅せられているところがある。

神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012ーー「精神の貴族としての倒錯者」)
呪物〔フェティッシュ≒倒錯者の対象物)は、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、呪物崇拝者にはぜんぜん気にもならないのである。 (フロイト『呪物崇拝』)


こういったことに関心があるのは、たとえばフロイトが1931年の短いエッセイの冒頭で掲げた次ぎのような問いにかかわる。

われわれの観察は、ひとりびとりの人物は人間というものの一般的な姿を一目では見渡すことのできない多様性をとって実現しているものである、ということをわれわれにしめしている。このようなたくさんのもののなかで二、三の類型を区別したいというもっともな欲求にもししたがうとすれば、どのような特徴をたよりに、どのような見地からこの区分をくわだてたらよいのかという選択をあらかじめ行わなければならないなるだろう。(フロイト『リビドー的類型について』1931)

この、フロイト旧訳ではわずか四頁のエッセイは、わたくしの知るかぎり、ほとんど言及されることのないものだ。だが、フロイトはこのエッセイの末尾近くで、次のように記しており、現在でも豊かに活用できうる示唆をもっている。

エロティック型が罹患すると、強迫型が強迫神経症となるように、ヒステリーになるということは容易に推量できるように思われるが、しかしこれは最後に強調しておいたような不確実性とも関わりをもっている。ナルシシズム型は、その平正の非依存性によって外界から拒否される機会にさらされており、犯罪を犯しやすいという本質的な条件をそなえていると同時に、精神病への特別な素因をふくんでいる。(フロイト「リビドー的類型について」1931)
Daß die erotischen Typen im Falle der Erkrankung Hysterie ergeben, wie die Zwangstypen Zwangsneurose, scheint ja leicht zu erraten, ist aber auch an der zuletzt betonten Unsicherheit beteiligt. Die narzißtischen Typen, die bei ihrer sonstigen Unabhängigkeit der Versagung von Seiten der Außenwelt ausgesetzt sind, enthalten eine besondere Disposition zur Psychose, wie sie auch wesentliche Bedingungen des Verbrechertums beistellen.(Freud,ber libidinöse Typen)

旧来のラカン派的観点からは、だれもが神経症か倒錯、精神病なのだから、フロイトが記すリビドー類型の罹患とは関係なしに、神経症・精神病・倒錯のどれかの構造にあてはまる。これをフロイトのこのエッセイの叙述に当てはまれば、エロティック型=ヒステリー、強迫型=強迫神経症、ナルシシズム型=精神病となる(前二者は、神経症の下位分類)。

ところで、フロイトはこのエッセイで、混合型を提示している。

①「エロティック強迫型(erotisch-zwanghafte)」
②「エロティック・ナルシシズム型(erotisch-narzißtische)」
③「ナルシシズム的強迫型」(narzißtische Zwangstypus)」

ラカン的には、①は神経症型、②はヒステリー精神病型、③は強迫神経症精神病型ということになる。これは、古典的ラカン理論の区分けではありえない。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也)

だが、現在のラカン理論解釈ではゆたかな示唆がある、といううふうに、わたくしは読む。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

そもそも、われわれの「症状」は二重構造になっている。上方が神経症の真珠(欲望の象徴界)、下方が精神病的砂(欲動の現実界)と。

これはフロイトの精神神経症/現実神経症(抑圧/原抑圧)区分でもある。

フロイトは、『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」(後の大半の抑圧 Mehrzahl aller späteren)と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧Urverdrängung)は現実神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧 Nachdrängung)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。
これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER:” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007

とすれば、フロイトの混合型とは、われわれ標準的な人間のほとんどの基本的精神構造ではないか。われわれには、原抑圧はどんなタイプでもかならずある。抑圧は捉え方しだいだが、なんらかの形である(そもそも言語を使用する人間は、神経症的に「抑圧」される)。

①のド神経症型ーーフロイト曰く、《両親の遺物や教育者や模範などに対する依存症》が顕著になるタイプーーは、二重構造的説明にはあてはまらないが、②③は、ーー②はエロナル型、③は強迫ナル型とでも略することができようーー、明らかに二重構造の類型である。

それは、下記に示すがミレールのふつうの精神病概念にも近似した区分けであるように思う。

ーーで、〈あなた〉はエロナル型だろうか、それとも強迫ナル型だろうか。あるいはド神経症型だろうか・・・

もちろん、純粋型、つまりエロ・強迫・ナル型もありうるのかもしれないが(とくにナル型は最もありうるだろう、「現実神経症」が上のフロイトが記すように「精神神経病」なしでも現われるのなら)、純粋ナル型以外は、理論的にはーーつまりフロイトの原抑圧や現実神経症の考え方を信用すればーー大半は混合型であるだろう。

やや冗談っぽく記しているが、それなりにマジであり、フロイトにとって、エロティック型の《愛を失うことに対する不安に支配され》た状態は、エロス的融合の側にあり、強迫型の《高度の独立性》はタナトス的分離の側にある。

結合の代用としての肯定はエロスに続し、排除の継承である否定は破壊欲動に属している。(フロイト『否定』旧訳)

[Die Bejahung – als Ersatz der Vereinigung – gehört dem Eros an, die Verneinung – Nachfolge der Ausstoßung – dem Destruktionstrieb.](Freud: Die Verneinung,1925)
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

エロス Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。つまり、分離した要素を結びつけることによる融合・統一である。逆に、タナトスThanatos は、分離の状態への回帰を目指す。これが破壊欲動の内実である。

たとえば、どの原主体も、乳幼児期には、無力(寄る辺なさ Hilflosigkeit)な状態におかれ、避けがたく母との融合・同一化しなければならない。だがしばらくした後、その受動的ポジションから能動的ポジションへと移行を目指す。人は常に、《受動的なことに反抗し能動的な役割を好む》(フロイト『精神分析概説』1938)。これが分離・独立であり、母との融合(エロス)の破壊(タナトス)である。

フロイトはナルシシズム型を、《自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができる》と記していることを附記しておこう(参照)。

この下部の欲動の現実界が上部構造においていくらか加減されているという意味合いでのエロナル型であり、強迫ナル型である。いってしまえばエロス型/タナトス型ということになるが、これではたいしておもしろくない。エロナル型、強迫ナル型のほうがいいんじゃないか。

ところで、エロナル型と強迫ナル型の人間類型の差異はどうして生まれるのだろうか。以下の文の「ヒステリー」はエロナル型、「強迫神経症」は強迫ナル型の基盤として読んでみよう。

ヒステリーにおいては、すべてのアクセントは、快の部分の取り入れ・同一化に置かれる。ヒステリー的主体は、自らが〈他者〉を失うことを許容しえない。強迫神経症においては、すべてのアクセントは、不快部分の吐き出し・分離に置かれる。強迫神経症的主体は、自らが〈他者〉と融合することを許容しえない。(……)

ヒステリー的な母は充分に与えない。強迫神経症的な母は過剰に与える。

ヒステリー的な子どもは、〈他者〉からけっして充分に受けとらない。この帰結として、絶えまず要求する主体となる。〈他者〉によって受け入れられたいという主体だ。

強迫神経症的な子どもは、あまりにも過剰に受けとる。この帰結として、拒絶・拒否する主体となる。〈他者〉から可能なかぎり逃れたい主体だ。 (Paul Verhaeghe、Beyond Gender: From Suject to Drive、2012)

ーーひとつの見解ではある。ヴェルハーゲ以外にこういったことを言っている解釈者はいない。だが、ヒステリーは口唇欲動にかかわり、強迫神経症は肛門欲動にかかわる、というのはほぼコンセンサスがある。とすれば、母のおっぱいが足りないのが、エロチック型であり、規則正しいうんこを母から強要されるのが、強迫型であるには相違ない。この線で「論理展開」すれば、ヴェルハーゲの解釈に至りうる。

最近、わたくしはひどく攻撃的な人物(強迫ナル型)を垣間見ると、彼の母に思いを馳せる。ひどく融合的な人物(エロナル型)を垣間見ると、彼女の母(あるいはきょうだい関係)に思いを馳せる・・・(もちろん、わたくし自身については、とっくに診断ずみであるが、「倒錯」の扱いにおいて若干の曖昧さは残る)。

さて、以下が実は本題であったのだが、上記はあとでつけ加えた新式「血液型」推定にかかわる、いささか長くなりすぎた「序論」である・・・  

なお、くり返せば、以下に出てくるミレールの「ふつうの精神病」概念は、フロイトの「現実神経症」概念にーー分裂病の取扱いなどの細部を除けばーーひどく近似したもののはずだ。

…………

今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF


《あの時私はなぜ、……「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか》とあるが、この「あの時」とは、1998年のことだろう。

1998年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにECFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。(立木康介ーーラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって


◆ポール・ヴェルハーゲのインタヴュー(2011)より。

……私は異なった形で形式化したい。ポストラカニアンは、実にこれを、「ふつうの精神病」用語で理解しようとした。ーーわたしはこの用語が好きではない。二つの理由がある。これは古典的なラカン派の意味での精神病にわずかにしか関係がない。さらに、よりいっそうの混乱と断絶をもたらしている。それは非-精神分析的訓練を受ける同僚とのコミュニケーションの混乱と断絶である。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE An Interview With Paul Verhaeghe,2011,PDF)

…………

さて、ミレールの講演 2008 の結論部分を抜き出しておこう(今までもその一部を掲げたことがあるが、もう少し長く)。

【ふつうの精神病の相反する二つの理論的帰結
①神経症概念の改良】
「ふつうの精神病」の理論的帰結は二つの対立した方向に向かう、と私は感じる。一方向は、神経症概念の改良である。私は次のように言うのを好む、神経症は固有の構造であり、壁紙ではない、と。あなたは、「これは神経症だ」と言う何らかの基準が必要性だ。あなたは、「父の名 the Name-of-the-Father 」ーーそれは「父の名のひとつ a Name-of-the-Father」ではない--との関係が必要だ。あなたは、− φ の何らの証拠、つまり去勢・不能・不可能との関係の何らかの証拠が必要だ。あなたは、フロイトの二番目の構造図式を使用するためには、自我とエスとの間、あるいは諸シニフィアンと諸欲動との間のはっきりした差異化が必要だ。あなたは、はっきりと輪郭を描かれた超自我が必要だ。そして、もしあなたがこれを持たずに他のサインを持っているなら、そう、あなたは神経症ではない。あなたは何か他のものだ。

【②精神病の一般化】
したがって、一つの方向において、我々は神経症概念を改良する方向に導かれる。しかし他方で、反対方向の帰結がある。つまり、あなたは精神病の一般化に導かれる。これはラカンがとった道のりだ。精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。 そんなものは存在しない。父の名はひとつの属性(述語 predicate)である。常にそうだ。父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。

【神経症と精神病の区別の撤廃】
そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが 1978 年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれの仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。私は、今年の最後のレッスンで、この文、« Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant »にコメントした。「みな狂人だ、すなわち妄想的だ」。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも同様である。


【すべては妄想的】
あなたは精神分析家として機能しないだろう。もしあなたが知っていること、あなた自身の世界が妄想的であることに気づいていないなら。ーー我々はこれを幻想的と言う。だが、幻想的という意味は、妄想的のことだ。分析家であることは次のことを知ることである。あなた自身の世界・あなた自身の幻想・あなたが「意味をなす make sense」仕方が妄想的であることを。この理由で、あなたはそれを捨て去らなければならない。あなたの患者の正しい妄想、患者の「意味をなす」仕方に、ひたすら気づくために。

 【痴愚礼讃】
これが、あなたがたにエラスムスの『痴愚神礼讃』を推奨する理由だ。この古典、彼自身の仕方で、エラスムスはまさにこう言う、ーーみな妄想的だ、と。私はこの話をこの文をもって終える。「意味をなすこと」は、それ自体妄想的である。すなわち、意味をなすことは、我々を現実界から引き離す。我々が現実界と呼ぶものは、「意味をなせない」何ものかだ。そして、この理由で、我々は現実界というカテゴリーを使用する。だから、意味をなすことに御用心! 私は気づいている、この一時間半、私が「意味をなした」ことを。だから、私が言ったことに御用心!(同上、ミレール、Ordinary psychosis revisited,2008)

ひとつ前のパラグラフで、ミレールは、幻想=妄想としている。通常、幻想とは、想像界もしくは象徴界の審級とされてきたはずだ。これを、たとえばジジェクは長年語ってきた(参照:「三種類の幻想、あるいは幻想と妄想」)。

だが、2012年の書には、次のような叙述が見られる。

欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)