2016年5月3日火曜日

ミレール? 天才だよ、シニカルで完璧に学者ぶった天才だ(ジジェク)

ーーという題の文を記して、その後、ミレールの別の論文をたまたま読んだのだが、彼はクリアだね、実に明晰で、ラカン理論の変遷がわかったツモリになれる。驚きをも与えてくれる。

《精神病の主因は父の名の排除ではない。逆に、父の名の過剰だ》、などという逆説的「真理」をも提示してくれる(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)。

この論文の表題 L'Autre sans Autre、とは il n'y a pas d'Autre de l'Autre 「大他者の大他者はいない」の言い換えだが、「大他者なしの大他者」なんていいじゃないか。

というわけで、下記の文をいくらか書き換えようか、と思ったが、思っただけで、そのまま投稿する。


(Lacan dot com)

あなたがたは覚えているだろう、フロイトの名高い自問、「女は何を欲しているのか?」を。一人の男として、フロイトはこの問いを発した。そしてたぶん、一人の女としても。我々は、三十年のラカンの教えにもかかわらず、答えを持っていない。我々は試みた。したがって、特異な問いではない。

私には別の問いがある。それは長年私を悩ましてきた。その問いは「アメリカ人は何を欲しているのか?」だ。私は何と答えを持っている! 部分的な答えだ。アメリカ人はスラヴォイ・ジジェクを欲している! 彼らは、スラヴォイ・ジジェクのラカンを欲している。彼らは、我々 La Fondation du Champ freudien のラカンよりも、ジジェクを好むのだ、おそらく、当面のところは。

問いはこうだ、彼らは、とりわけ明瞭なコンセプトを欲しているのか? あるいは、声高に論争する余地を欲しているのか? 何らかの交渉する空間を? そして、それは精神分析のコンセプトに当てはまる。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

ミレールはジジェクが英語圏で読まれすぎ、反面、彼の見解はわずかしか注目されていないことーー特に非専門家のあいだではーーにまずは苛立っているのだろうが、この講演は「ふつうの精神病」のコンセプトをめぐるものでもあり、ジジェクは、わたくしの知るかぎり、「ふつうの精神病」概念に一度も触れていない。おそらくミレールの苛立ちはそれに大きくかかわるのではないか。

ジジェクは、かつては私のラカンはミレールのラカンだと言った。だが、ある時期(2000年前後)から、ミレール批判が始まった。ジジェクのミレール批判は理論的な部分もあるが、その主要な部分は、ミレールは、まったく社会改革に目が向かず、たとえば、ミレールが21世紀にはいって専心している後期サントーム臨床(「ふつうの精神病」にかかわる)は個人の臨床の道具でしかない、というものだ(もちろんミレールはたんなる臨床家であり、それでいいという観点もあるだろう。だがミレールはラカンの遺産を引き継ぐ代表者でもある)。

他方、フロイトもラカンも社会構造に目を向けた。それぞれの社会構造は、それぞれの異なった症状を生む。いまでは「神経症」、その代表症状であるヒステリーはーーすくなくとも強度のヒステリーはーーほとんど消えてなくなった。それは超自我社会でなくなったおかげである。だがラカンは主人の言説の時代から資本家の言説の時代へ、と1970年前後にいったとき、今までとは異なった別の症状の現われに気づいていた。現在の症状は、資本の論理、新自由主義による症状である。


主人の言説は、概ね消滅してしまった(ラカン セミネールⅩⅦ、1970)

資本主義の言説を特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。(セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)

ここで一見意想外な指摘を掲げておけば、ラカンの男性の論理/女性の論理の二項は、後者の女性の論理を顕揚していると理解されることが多い。だが「主人の言説から資本家の言説へ」とは「男性の論理から女性の論理へ」としても捉えうることだ。そして現在の症状(社会症状であるならば、レイシズム、原理主義等、個人症状であるならば自閉症、いじめ猖獗等)はひょっとして社会的な女性の論理における症状なのではないか、という観点がある。

……女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

ここでの法は、法への一つだけの例外とともの超越性と普遍性である(……)。

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy 私訳ーー三つの「父の死」)

資本の論理とは例外の論理ではない。究極的には差異の論理だ。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(岩井克人

そして、Levi R. Bryanが言うように、《女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する》。

たとえば、現在どんなことが起っているのか。

ヴィクトリア朝時代の病いは、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代の病いは、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。(……)

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントは殆ど存在しない。疑いなく、会社や組織への忠誠はない。これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは己れをコミットすることの失敗あるいは拒否を反映している。個人主義、利益至上主義とオタク文化me-cultureは、擬似風土病のようになっている。…表面の下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、薬品産業は莫大な利益をえている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大はこの結果だと思う。私の意見では、それは伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。そうではなく、社会的孤立の増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(Paul Verhaeghe、Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent、,2012 私訳ーー新自由主義社会のなかの居心地の悪さ

いずれにせよ、ジジェクやポール・ヴェルハーゲの解釈では、現在のレイシズム、原理主義の猖獗は、資本の論理(資本家の言説)社会のせいである。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーー「ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈」)

ラカンの遺産をまっさきに継ぐべきミレールが、冷笑主義的個人臨床に引きこもっていていいものだろうか、というのが彼らの批判としてよいだろう。

とはいえ、フロイトやラカンは言うだけ言って、社会構造の変革にはたいしたことはやっていない、という観点もあろう。ラカンが言うように、フロイトは『集団心理学と自我の分析』で、ヒトラーの出現を予言したとしても、ヒトラーが現われたあと、それに抵抗することは事実上なにもやっていない。ラカンも資本家の言説の出現を指摘しはしたが、その後たいしたことはやっていない。つまり、現在のラカン主義者、マルクス主義者は、ラカンの可能性の中心を読み取ってなにやら言っているだけだ、という批判はありうる。

たとえば、ヴェルハーゲは次ぎのように言う、新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

・ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014、私摘要訳 )

ーーこの指摘は痛烈だ。われわれは何らかの形でこれをやっているのではないか。

いずれにせよ、フロイトやラカンは(そして上のヴェルハーゲなども)日々患者に接しているはずで、社会構造の変貌にたいして敏感な嗅覚をもっていた(いる)に相違ない。そもそもすぐれた分析家とはそういう資質があるはずだ。

たとえば、日本でも中井久夫が次ぎのように言っている。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

これはまさに主人の言説の崩壊(象徴的権威の斜陽)を感じとっていた精神科医の言葉である。

さて、具体的に、ジジェクのミレール批判を抜き出せば、たとえば、最近のミレール批判は次ぎの通り。


◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012より

ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である(フロイトがすでに言ったように)。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。

このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる。真理は、悲壮な誠意の自己盲目的行動において、瞬時のあいだのみ経験されるだけである……。

こういった瞬間は永遠に維持できはしない。だから我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。政治的行動は、究極的にイリュージョンの単なる遊戯でしかないと気づきつつ。

バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。

この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。
ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけ semblances (理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、「自ら享楽し、他者が享楽するに任せる」という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す。

我々は見てきたように、ミレールはもちろん商品市場に要求される享楽の標準化に批判的ではある。とはいえ彼の異議表明は、標準的な文化批評の域を出ない。さらに、ミレールが無視しているのは、あのような特異性が繁茂する特殊な社会-象徴的状況だ。(……)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被とのあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違える les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルに棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

※ジジェクとほぼ同様な見解の ロレンツォ・キエーザのミレール批判は、「Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)」にある。