2016年5月2日月曜日

「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

ここでミレールは、古典的ラカンの吟味をしている。事実、ラカン派の解釈はいまだ鏡像段階が幼児の最初の状態だとされることが多い。

だが、言語は最初からある。象徴界が想像界に先行している。その象徴界は、S1 導入後の象徴界とは異なった、象徴界のなかの現実界とでもいうべきものだが。

ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを言っている。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1 は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

たとえば、ロレンツォ・キエーザを次ぎのように記している。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場をする前に、文字 letter  としての言語、言語のリアルReal-of-language に関係する。人は原初の要所を思い描くことを余儀なくされる、要所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され続ける。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )

ここでの「文字 letter 」とは、「もの」としての言葉(中井久夫)、あるいは純粋シニフィアンのことである(参照:純シニフィアンの物質性)。


以下のポール・ヴェルハーゲの記述は、人間は想像的関係から始まるとされているが、その想像的関係の対象となる母は、最初から大他者(象徴界の審級)であることが示されている。

同一化は今ではミラーリングmirroring(鏡に反映すること)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。赤子はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのか、を他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話をやく人から子どもへのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。(……)

どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子どもと親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての鏡が、混じりあって、象徴的秩序、より大きな集団の偉大なる語りthe Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。(Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”、2013.)

…………

※附記

おそらくラカンに親しくない者のほとんどは、次のような先入主をもってきたし、いまもほとんどそうだろう。

二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ところで、この講演でミレールが敬意をもって言及している Jean-Louis Gault は、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人物ではなく言語自体だ、とさえ言っているそうだ。

この言語にはもちろん「文字」も含まれるだろう。文字とは「身体のパッション」、あるいは「身体の出来事」でもある。これは下にあるようにサントームでもあり、原固着でもある(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。


la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

Le sujet est causé d'un objet qui n'est notable que d'une écriture(...). L'irréductible de ceci… qui n'est pas effet de langage, car l'effet du langage, c'est le παθείν [ pathein ]

…c'est la passion du corps.

Mais, du langage, est inscriptible, (…) en tant que le langage n'a pas d'effet …cette abstraction radicale qui est l'objet (…), que j'écris de la figure d'écriture (a), et dont rien n'est pensable, à ceci près que tout ce qui est sujet… sujet de pensée qu'on imagine être Être …en est déterminé. (S.22, 1975.1.21)