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2015年6月18日木曜日

新自由主義社会のなかの居心地の悪さ

フロイトが『文化のなかの居心地の悪さ』(1930)で教えてくれたのは、社会と個人のあいだいは緊張の領域があり、個人の欲望は社会によって拘束されるということだ。彼が仕事を始めたのは、19世紀のいわゆるヴィクトリア朝モラルの社会、すなわち全き父権制社会がいまだ華やかかりし時代であり、そこでは伝統的な階級構造と支配的な宗教による「禁止」、あるいは超=強制倫理の支配する時代だった。この社会において「神経症」が生みだされた。精神分析が生れたのは、神経症のせいだとさえ言える。

その後、第一次世界大戦によって、西欧文化の超自我(父権制社会)が揺るがされる。ヴァレリーの「精神の危機」 (1919) とは、実は西欧文化の「父」の危機であった。さらに1968年の学生運動によって象徴的父の決定的な崩壊、1989年にはベルリンの壁の崩壊により、マルクスという父も死んだ(参照:1、「三つの「父の死」」、2、「神の二度めの死」=「マルクスの死」)。

現在は象徴的権威の崩壊により資本の論理のみが渦巻く社会だ。すなわち、《 自由、平等、所有そしてベンサム(Freiheit, Gleiheit,EigentumundBentham)だけである》(マルクス『資本論』)であり、ベンサム主義(経済の論理、効率の論理)、ほとんど非イデオロギーとさえいえる「新自由主義」が席捲する時代である。

それぞれの社会構造は、それぞれの異なった症状を生む。いまでは「神経症」、その代表症状であるヒステリーはーーすくなくとも強度のヒステリーはーーほとんど消えてなくなった。それは超自我社会でなくなったおかげである。

幸にして自然は緩和剤としての歇私的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。 枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。 発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。 或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。(夏目漱石『道草』)

一神教文化ではない、すなわち超自我の機能が弱かった日本社会(明治以降約半世紀強の天皇制のもとの疑似一神教文化)でさえ、かくの通り。西欧のT・S・エリオットの妻ヴィヴィアン、あるいはエドヴァルド・ムンクの恋人(オスロのワイン商人の美しい娘)などはどんな具合だったか・・・

「さいわいにも」こういった症状は稀になった。だが現在の社会構造においては、また別の異なった症状が生まれている。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

以下に引用するポール・ヴェルハーゲの「資本主義と心理学:文化のなかの新しい居心地の悪さにおけるアイディンティティと不安」と題される論においては、この新しい症状を生み出している「社会構造」と闘わなくてよいのか、という問いがベースになっている。

もちろん、かりにこの社会構造を克服して、新しい社会になったとしても、そこにおいてまた別の新しい症状が生まれるという議論もあるだろう。とはいえ、ボール・ヴェルハーゲは、昨年にも一般公衆向けに 「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎したNeoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29)という短い記事をガーディアンに書いている。


Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(Paul Verhaeghe,2012)

どの社会秩序もアイデンティティの発展を決定づけるとともに、そのメンバーの潜在的な不調disordersを決定づける。超-厳格な超自我の圧制下、(フロイトの時代の)ヴィクトリア朝社会は神経症の市民を生みだした。彼らは、集団として、つねに自らの家父長にためにーー他の集団の家父長に対してーー、戦う用意があった。

エンロン社会は、互いに競合する個々の消費者を生みだす。ラカンにとって、ポストモダンの超自我の命令は「享楽せよ!」である。

ヴィクトリア朝時代の病いは、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代の病いは、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。

我々は狂ったように自ら享楽しなければならない。いやより正しく表現するなら、狂ったように消費しなければならない。数年前に比べて、享楽の限界は最低限にしなければならない。草叢の蛇(目に見えない敵snake in the grass)は、文字通りあるいは比喩としても、首尾よく捕まえなければならないーーそれは我々の義務であるーー、その捕獲方法は、もちろん絶えまない他者との競争にてである。このようなシステムはトーマス・ホッブズの不安angstを正当化する、すなわち、Homo homini lupus est(人間は人間にとって狼である)。

結果はMark Fisherが印象的に呼んだ「抑鬱的ヘドニア(快楽)depressive hedonia」だ。能力主義システムは、自らを維持するため、急速に特定のキャラクターを特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。融通性がまた高く望まれる。だが、その代償は皮相的で不安定なアイデンティティである。孤独は高価な贅沢となる。その場は一時的な連帯が取って代わる。その主な目的は、負け組からよりも仲間からもっと何かを勝ち取ろうとすることだ。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントは殆ど存在しない。疑いなく、会社や組織への忠誠はない。これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは己れをコミットすることの失敗あるいは拒否を反映している。個人主義、利益至上主義とオタク文化me-cultureは、擬似風土病のようになっている。…表面の下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、薬品産業は莫大な利益をえている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大はこの結果だと思う。私の意見では、それは伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。そうではなく、社会的孤立の増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(私訳)


冒頭近くに「エンロン社会」という語彙が出てくるが、それについては、「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」を見よ。

一般には、エンロン事件をめぐるエンロンとは、次ぎのようなものである。

……マッキンゼー出身でエンロン社CEOになったジェフリー・スキリングは「ランク・アンド・ヤンク」方式を実施した。役員から社員までをランク付けしておいて、下位の者をクビにしていくという差別化方式だ。これがピーターの法則から免れるためのベストプラクティスだと思われたのだ。その後、ケネス・レイがCEOになった時期、アーサー・アンダーセンのコンサルが入り込み、結果は知っての通り、エンロンは最悪の社内状況を生み、瓦解した。その後、多くのコンサルティング・ファームでは「アップ・オア・アウト」方式を導入するようになった。「一定の期間に昇進できない者は会社をやめなければならない」というものだ。(コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする

ヴェルハーゲの文に、《急速に特定のキャラクターを特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。融通性がまた高く望まれる。だが、その代償は皮相的で不安定なアイデンティティである》とあった。

新自由主義における「模範的な」キャラクターとは、たとえばドワンゴの社長川上量生氏のような人物ということになるのか、--彼については何も知らなかった身であるが。

@kadongo38@cracjp 君らと議論してもなんの得もしないじゃん。君らはもともと失うものないし、そっちが一方的に得するだけでしょ?まあ、ずっとネットで言い合ってきたよしみでいっぺんぐらいやってもいいけど、動機が今回とは別の理由だよね。それこそゲンロンカフェとかでいい。

これは何を言っているのか? オレは社会的地位もあり、名声もある。そのオレが君たちのようななにも失うもののない「雑魚」を相手にしてやってるんだよ、--とわたくしは読んでしまう・・・

こういった発言にひどく苛立つのはーーそしてこのツイートを垣間見ている筈の多数の人がたいして苛立つ様子がないらしいのを知るとーー、その苛立ちは、ただわたくしが浮世ばなれしているせいということになるかもしれない(わたくしは1995年に日本を離れている)。


…………

※附記

ヴェルハーゲはホッブスのHomo homini lupus(人間は人間にとって狼である)を引用しているが、もちろんそれはフロイトの『文化のなかの居心地の悪さ』の叙述を想起して書いているはずだ。

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。

したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。

「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。

通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。

民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 )

父なき時代、象徴的権威の崩壊の時代とは、実に《阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在》の時代のことでもあるだろう。

《阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。》