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2015年6月20日土曜日

ビロードの肌ざわり BWV 793

四十年以上つづく「ある女」への恋」にてWolfgang WellerのBWV 792を「絶賛」したが、彼のBWV793はぜんぜんダメだ(つまりわたくしの好みではない)。ここに掲げる気にもならない。


◆グールド Moscow. May 7, 1957




◆スタジオ録音版(1964)



Schiff

スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲も退くの演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。(シュネデール)

ベートーヴェンのOP110ではないが、この短いシンフォニアでも、やはりそうだ。大違いだ、モスクワライヴにはくらくらする。

あっ! ああ! あああ!!--ここにあるのは、
《軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、
わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間を、
ちょっとのま釘づけにするという、
けっして容易ではない技術であるーー》(神々しいトカゲ

一陣の風がさっとふき渡るのだ、

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (ヴァレリー「海辺の墓地」中井久夫訳)

《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

くらくらするのは、何にか? 《「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる》(フロイト)。

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)


…………

アンドラーシュ・シフの2001年録音版に行き当たったので貼付。

◆J.S.Bach: Goldberg Variations BWV 988 4. Variatio 3- Canone all'Unisono [Schiff]2001




SCHIFF 1981


◆Gould 1955 studio





Glenn Gould in Russia 1957

Gould - Salzburg's Recital of 1959

1981DVD


ザルツブルグがもっとも薫り高い。ああ、ビロードの肌ざわり! もちろんビロードの肌ざわりは、齢を重ね性的情動が低下すれば、失われてゆく。

最晩年のより構成的な演奏は理知が摘みとった演奏でしかない。

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。

しかしながら、理知が現実から直接にとりだしてくるそのような真実も、私は一概に軽蔑すべきものではないと感じるのであった、なぜなら、そのような真実は、過去と現在との感覚に共通のエッセンスが時間のそとにもちだしてくれる例の印象を、純粋のままにではなくても、すくなくとも精神の透徹力によって、たいせつに収蔵することができるだろうからであった。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)