芸術家の心理学によせて。――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、陶酔がそれである。陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前は芸術とはならないからである。実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。同じく、あらゆる大きな欲望、あらゆる強い欲情にともなってあらわれる陶酔がそうである。祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。或る種の気象学的影響のもとでの陶酔、たとえば春の陶酔。ないしは麻酔薬の影響のもとでの陶酔。最後に意志の陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔。――陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である。この感情から人は事物に分与するのであり、私たちから奪い取るよう事物を強いるのであり、事物に暴力をくわえるのである、――人はこの事象を理想化と呼んでいる。私たちはここで一つの偏見から脱けだそう。すなわち、理想化は、一般に信ぜられているように、些細なもの、副次的なものを取り去ったり除き去ったりすることにあるのではない。主要特徴を物すごく際立たせることがむしろ決定的なことであり、そのために他の諸特徴が姿を消すのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳 ちくま学芸文庫 p95)
さて、まずは上の文に出てくる「あらゆる強い欲情」の「欲情」とはなんだろう。手元の英訳を眺めてみると、“affect”となっている。すなわち「情動」とも訳される言葉だ。英訳だけですましておかずに、たまには、ほとんど縁のない独原文を眺めてみよう。
Zur Psychologie des Künstlers. - Damit es Kunst gibt, damit es irgendein ästhetisches Tun und Schauen gibt, dazu ist eine physiologische Vorbedingung unumgänglich: der Rausch. Der Rausch muß erst die Erregbarkeit der ganzen Maschine gesteigert haben: eher kommt es zu keiner Kunst. Alle noch so verschieden bedingten Arten des Rausches haben dazu die Kraft: vor allem der Rausch der Geschlechtserregung, diese älteste und ursprünglichste Form des Rausches. Insgleichen der Rausch, der im Gefolge aller großen Begierden, aller starken Affekte kommt; der Rausch des Festes, des Wettkampfs, des Bravourstücks, des Siegs, aller extremen Bewegung; der Rausch der Grausamkeit; der Rausch in der Zerstörung; der Rausch unter gewissen meteorologischen Einflüssen, zum Beispiel der Frühlingsrausch; oder unter dem Einfluß der Narkotika; endlich der Rausch des Willens, der Rausch eines überhäuften und geschwellten Willens. - Das Wesentliche am Rausch ist das Gefühl der Kraftsteigerung und Fülle. Aus diesem Gefühle gibt man an die Dinge ab, man zwingt sie von uns zu nehmen, man vergewaltigt sie - man heißt diesen Vorgang idealisieren. Machen wir uns hier von einem Vorurteil los: das Idealisieren besteht nicht, wie gemeinhin geglaubt wird, in einem Abziehn oder Abrechnen des Kleinen, des Nebensächlichen. Ein ungeheures Heraustreiben der Hauptzüge ist vielmehr das Entscheidende, so daß die andern darüber verschwinden.(Friedrich Nietzsche Götzen-Dämmerun oder Wie man mit dem Hammer philosophiert)
権力への意志が原始的な欲動Affekte形式であり、その他の欲動Affekteは単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
”Affekte”が「情動」でも「欲情」でもなく、「欲動」と訳されている。
Nietzsche himself had recourse to a varied vocabulary to describe what Klossowslu summarizes in the term 'impulse': 'drive' (Triebe), 'desire' (Begierden), 'instinct' (Instinke), 'power' (Machte), 'force' (Krafte), 'impulse' (Reixe, Impulse), 'passion' (Leidenschaften), 'feeling' (Gefiilen), 'affect' (Afekte), 'pathos' (Pathos), and so on.
(”Translator’s Preface” Nietzsche and the Vicious Circle PIERRE KLOSSOWSKI Translated by Daniel W. Smith)
だが、これはすでに何度もくり返したので、いま多くを触れることはしない(たとえば参照:「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」)。ただ冒頭のニーチェの文に、《陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である》とされていることだけを想いだしておこう。すなわちここにも「権力の意志」があり、ひょっとして「欲動」あるいは「死の欲動」がある、と。
さて、いまもうひとつ注目したいのは、冒頭の文にて、《芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である》とされつつ、《すなわち、陶酔……性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式》との文である。
さて、いまもうひとつ注目したいのは、冒頭の文にて、《芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である》とされつつ、《すなわち、陶酔……性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式》との文である。
フロイトは比較的初期から晩年にいたるまで、次ぎのようにくり返している。
「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 人文書院 P26 原著1905年)
残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。(フロイト『文化への不満』著作集3 P446~ 原著1930年)
なにもかも性に繋げるフロイトの悪評高い「性欲至上主義」を臭わすこの見解は、じつはニーチェ起源ではないのか。 ここで再度、ニーチェの別の文章を掲げよう。
私は一つの事例を取りあげる。ショーペンハウアーは美について憂鬱な熱情をこめて語る、――結局のところなぜであろうか? その理由は、彼は美のうちに、もっと先へゆける、ないしはやっと先へゆくたい渇望をおこさせる橋を見てとるからである・ ・ ・美は彼にとっては数瞬間の「意志」からの解放であるーー美は永久に救済へとおびき寄せる・ ・ ・とりわけ彼は美を「意志の焦点」からの、性欲からの解放者として讃える、――彼は美のうちでは生殖衝動が否定されていると見てとる・ ・ ・奇妙な聖者であることよ! 誰かが君に抗議しているが、どうやらそれは自然であるらしい。自然においては、音、色、香、リズミカルな運動のなかに何のために総じて美があるのであろうか? 何が美を駆りだすのであろうか? ――幸いにも一人の哲学者もまた彼に抗議している。ほかならぬ神々しきプラトン(――そうショーペンハウアー自身が彼を名づけている)の権威が別の命題を堅持している、すなわち、すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumであると・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳 p108)
このニーチェの文には、フロイトの昇華概念がすでにあらわれている。ショーペンハウアーが「錯誤」したのは、昇華されたエロスを美と捉えてしまったことだ。が、ニーチェはそれに騙されない。
ショーペンハウアーは、或る種の芸術作品をペシミズムに奉仕させるとき、誤っている。悲劇は『諦念』を教えるのではない……怖るべき疑わしい事物を描きだすということが、それ自身すでに芸術家のもつ権力や歓喜の本能である。(ニーチェ『権力への意志』)
ニーチェはここでなにを言っているのか? 悲しみを表現する行為が、悲しみの支配だといってはいないか。そしてその「支配」が「権力への意志」だと。
以下はニーチェから一世代ほど離れた日仏の二人の同時代人の見解である。
・プルースト 1871年7月10日 - 1922年11月18日
・夏目漱石 1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)
……しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。そういえば、のちになって私が経験しなくてはならなかったように、人は、愛して苦しんでいるときでも、天職がいよいよ自覚されたとなると、仕事の時間中、愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる……(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)
まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。
これが平生から余の主張である。(夏目漱石『草枕』)
漱石はここで俳句の創作の仕方のみを語っているように思えるが、しかしながら彼の創作活動は殆んどすべて「トラウマ」の克服にかかわるものではなかったか。
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
さてここでフロイトの「昇華」を復習しておこう。
……さまざまの欲動は、満足の条件をずらせたり、他の方法をとるよう余儀なくされる。これは、大部分の場合には、われわれに周知の(欲動目標)昇華と一致するが、まだ昇華とは区別されうる場合もある。欲動の昇華は、文化発展のとくにいちじるしい特色の一つで、それによってはじめて、学問的・芸術的・イデオロギー的活動などの高級な心理活動が文化生活の中でこれほど重要な役割を占めることが可能になっている。第一印象にしたがうかぎりわれわれは、「昇華こそはそもそも文化に無理強いされて欲動がたどる運命なのだ」と主張したい誘惑を押えかねる。けれども、この件はもう少し慎重に考えたほうがよい。そして最後にーーしかもこれこそ一番大事と思われるがーー、文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この「文化のための断念」は人間の社会関係の広大な領域を支配している。そして、これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因であることは、すでにわれわれが見てきたところである。この「文化のための断念」は、われわれの学問にもさまざまの困難な問題を提起するであろうし、われわれにとしては、この点に関し多くのことを解明しなければならない。ある欲動にたいし、その満足を断念させることなどがどうしてできるのかを理解するのは容易ではない。それに、欲動にその満足を断念させるという作業は、かならずしも危険を伴わないわけではなく、リビドーの管理配分の上からいって、その補償をうまく行わないと重大な精神障害の起こる恐れがある。(『文化への不満』p458)
フロイトにとっては堅物の研究者たちの活動でさえ性欲の昇華である。
芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識真理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動きを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P444)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)
※参照:「諸君、それは女狂い、”可能なる昇華”以外の何であろう」
だが、これだけではない。
トラウマはつねに性的な性質をもっている。もっともシニフィアン”sexual”は、欲動にかかわるものとして理解されなければならない、とするラカン派の言葉をここで掲げることもできる。
the trauma is always of a sexual nature, although the signifier 'sexual ' has to be understood as 'related to the drive'.("Paul Verhaeghe"TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)
とすれば、やはりここでもニーチェのAffekte(情動、あるいは欲動)である。
ポール・ヴェルハーゲは、トラウマを構造的トラウマと事故的トラウマの二種類に分け、前者はどの主体にも根源的なものである、としている。
everyone of us experiences a sexual trauma, because of the structural relationship between the drive and our psychological apparatus. Some of us suffer from an accidental trauma as well, on top of the original structural one. Because of the latter, every treatment meets with a structurally defined impossibility.
事故的トラウマが構造的トラウマと合体して、真のトラウマをつくる、というこのポール・ヴェルハーゲの考え方は、ほとんど中井久夫の見解と同じくする。
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )
ところで、中井久夫は《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》ともしている。そして次ぎのようにも書かれる(参照:スフィンクスの謎)。
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)
中井久夫は思い出すままに自らの幼児型記憶をほとんどすべてを列挙するとし、10例を挙げているが、そのうちの一つだけをここで挙げる。
(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」
イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。(同上 「発達的記憶論」)
これはわたくしにも同じような記憶がかすかにあり、ことさら「痛み」を齎すイメージである、ただし裏庭に生えていたのは、ひどく酸っぱい「夏みかん」の木であったが。
(侯孝賢+辛樹芬) |
ここまでの叙述から、われわれはジュネ=ジャコメッティの《美には傷以外の起源はない》における「傷」を、欲動やトラウマ(心的外傷)に近づけて読む仕方が生まれてくるはずだ。
美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
ーー美は性的なものである、というフロイトの見解を、美はトラウマ(傷)にある、あるいは欲動にあると変奏できるに相違ない(欲望と欲動の違いについては、資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)を見よ)。
(美は性的なものであるとは、美とはエロスであるとも言うことができるが、もしかりに美とはトラウマであるなら、美とはタナトス(死の欲動)であるとした方が近似し、一見矛盾があるように思える。だがフロイトには欲動融合Triebmischungという概念があり、ここでの欲動(タナトス)は、このエロスとタナトスの欲動融合と当面捉えておく上での叙述である→参照:Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸)。
ここでわが国の詩人の言葉を読んでみよう。(美は性的なものであるとは、美とはエロスであるとも言うことができるが、もしかりに美とはトラウマであるなら、美とはタナトス(死の欲動)であるとした方が近似し、一見矛盾があるように思える。だがフロイトには欲動融合Triebmischungという概念があり、ここでの欲動(タナトス)は、このエロスとタナトスの欲動融合と当面捉えておく上での叙述である→参照:Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸)。
ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。
それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。
およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。
げにこの一つの情緒は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。
かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。
されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。
感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。(萩原朔太郎「青猫」序より)
この文から、幼年=幼児型記憶に由来するトラウマが美の起源である(すくなくとも萩原朔太郎にとって)と読むことがどうしてできないわけがあろう。しかも《燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる》とは、まさに「欲動」の定義である、--《灯火にむれる蛾のように、灯火を目ざしてはそれてゆく、その反復運動》
every 'normal' man is irresistibly driven towards the woman and her presumed pleasure, like a moth to the scorching flame of the candle. He is driven by a drive, and this is our final subject, as well as the most difficult one.(Paul Verhaeghe ”Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”)
《ふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして》とあるが、これはファンタジー(幻想)の定義としてよい。《幻想とは、象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである。》
the fantasy is an attempt to give meaning to a part of the Real that resists to the Symbolic.(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)
朔太郎の詩に反復される言葉として、ことさら(わたくしにとって)印象的なのは、饐えた菊のにほひである。
すえたる菊
その菊は醋え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐えたる菊はいたみたる。
(『月に月に吠える』所収)
『青猫』でもつぎのようにくり返される。
・あなたの感傷は夢魔に饐えて/白菊の花のくさつたやうに/ほのかに神祕なにほひをたたふ。(「夢」)
・有明のつめたい障子のかげ/に私はかぐ ほのかなる菊のにほひを/病みたる心靈のにほひのやうに/かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを(「鶏」)
・戀びとよ/すえた菊のにほひを嗅ぐやうに/私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を(「薄暮の部屋」)
ーーだがこの「すえた菊のにほひ」を萩原朔太郎の幼児型記憶にかかわるものだと断言までするつもりはない。ましてや朔太郎の創作行為が、トラウマの克服、ニーチェの云う「権力への意志」の顕現だというつもりは全くない。心の傷に溺れてしまうタイプや、あるいは原トラウマが別のトラウマを呼び起こしてしまう人たちもいるのだろう。
倉田はそのささやかな手品を眺めながら、一人の詩人についての挿話を思い浮べていた。その秀れた詩人は、厄介な人間関係に巻き込まれたあげく、妻に去られ、孤独な晩年を送った。幼い娘が一人いた。ある夜、娘が二階の書斎を覗いてみると、机の前に坐った詩人がしきりに指を動かして、赤い指の玉の練習をしていた、という。/倉田はその挿話を聞いたとき、詩人の孤独感が身に沁み込み伝わってくるのを覚えた。(吉行淳之介『手品』)
萩原朔太郎には「僕の孤独癖について」という随筆があり、幼少時の「いじめ」や「仲間はずれ」経験、あるいは己れの強迫観念などが書かれているが、ここでは敢えて引用しないでおく。
…………
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦に付いてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。
小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて、芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。
しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』ーー「原初とは最初のことじゃないんだよ」(ラカン))
…………
※附記:Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”より(私意訳)。
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。