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2015年1月14日水曜日

「私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ」

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、<物>へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

……my deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style. I have a kind of absolute compulsion to vulgarize things, not in the sense of simplifying them, but in the sense of ruining any pathetic identification of the Thing, which is why I like to jump suddenly from the highest theory to the lowest possible example.

この発言は、ジジェクのスタイルのまさにエッセンスの提示であるかのようである。とはいえジジェクの22歳時の卒論はハイデガーが主題であり、かつてハイデガーにイカレてしまったことの反動としても読めるだろう。ジジェクは「デリダなしでは、私はたぶん終生ハイデガリアンだっただろう。I think that without Derrida I would probably have ended up as a Heideggerian」とさえ言っている。そもそも何度もくり返される強い批判とは、つねになにか隠された理由がある。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

すなわちジジェクの根には、パセティックな、情に動かされ易いナイーヴな心があるに違いない。とはいえここではその面に触れることはしない。

たとえば、彼が「詩に歌われる言語の折檻所――いかにして詩は民族浄化と関係するか」にて、次のように書くとき、詩のパセティックなスタイルへの倦厭、--過去の外傷的記憶、あるいはそれが齎したものへの忸怩たる思いーーから記されているといえる。

・プラトンの評判には傷がついている。詩人どもはポリスから放逐されるべき、と主張したか らだ。――いや、ユーゴスラビア分裂体験を経た今から判断するなら、これはむしろ良識 あるアドバイスだったというべきか。

・「大他者」としての言語は、われ われが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。

実際、われわれも多くの秀れた詩人による「戦争詩」を知ってしまっている。あられの煽動・扇情的な詩に若者たちは高揚して戦地に向かったと言われたりもする。

ここのところ、萩原朔太郎をいささか顕揚したので、その反動として、彼の「戦争詩」を掲げよう。萩原朔太郎が後に自ら「無良心の仕事」と評した「南京陥落の日に」である。

南京陥落の日に
歳まさに暮れんとして
兵士の銃剣は白く光れり。
軍旅の暦は夏秋をすぎ
ゆふべ上海を抜いて百千キロ。
わが行軍の日は憩はず
人馬先に争ひ走りて
輜重は泥濘の道に続けり。
ああこの荒野に戦ふもの
ちかつて皆生帰を期せず
鉄兜きて日に焼けたり。

「東京朝日新聞」昭和12年12月13日

…………

ところで、ロラン・バルトはその最晩年(1979)、シューマンを称え、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナー等)を好む傾向に対し、シューマンの「私」に向かう音楽表現 を「反時代性」の哲学だとしているが、これもパセティックな芸術への不信からだろう。

さてハイデガーには疎いのだが、彼のパセティックな詩の顕揚のあり様とそれへの批判はこのようなものらしい。

(アドルノの「パラタクシス」における、ハイデガーの詩の解釈の批判をめぐって)ヘルダーリンが、「植民地を、そして勇敢な忘却を精神は愛する」と言っているのに、ハイデガーは、より深く母国を愛するために娘の国としての植民地を愛するのだとか、固有のものをよりよくわがものにするために忘却を経由するのだとか、無理無体にねじまげた解釈をする。それは、いかに深いメタフォリカルな解釈かもしれないけど、リテラルに言えば単純に間違っている。一個一個の単語まで厳密に読んでいくことでそういう間違いを暴き、そこにイデオロギー的なバイアスをみる。(浅田彰(『批評空間』1997 Ⅱー12 共同討議「アドルノとアクチュアリティー」(木田元+徳永恂+矢代梓+浅田彰+柄谷行人)

だがハイデガーだけがパセティックではない。たとえばニーチェのスタイルはどうなのか。とりわけ最晩年の『この人を見よ』のあの調子。だがわれわれはそこにユーモアを見ることができる。自らを嘲笑しパロディ化する<力>を見ることができる。それは『ツァラトゥストラ』も同じく。またそれを見ないのなら、--ナイーヴな、あるいはパセティックな読者であるなら充分ありえることだが、ーーニーチェを読んだことにはならないとさえ言いうる。

ユーモアとは「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。自らを笑い飛ばす<力>である。



2015年1月12日月曜日

美と傷、あるいは「饐えたる菊のにほひ」

芸術家の心理学によせて。――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、陶酔がそれである。陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前は芸術とはならないからである。実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。同じく、あらゆる大きな欲望、あらゆる強い欲情にともなってあらわれる陶酔がそうである。祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。或る種の気象学的影響のもとでの陶酔、たとえば春の陶酔。ないしは麻酔薬の影響のもとでの陶酔。最後に意志の陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔。――陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である。この感情から人は事物に分与するのであり、私たちから奪い取るよう事物を強いるのであり、事物に暴力をくわえるのである、――人はこの事象を理想化と呼んでいる。私たちはここで一つの偏見から脱けだそう。すなわち、理想化は、一般に信ぜられているように、些細なもの、副次的なものを取り去ったり除き去ったりすることにあるのではない。主要特徴を物すごく際立たせることがむしろ決定的なことであり、そのために他の諸特徴が姿を消すのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳 ちくま学芸文庫 p95)

さて、まずは上の文に出てくる「あらゆる強い欲情」の「欲情」とはなんだろう。手元の英訳を眺めてみると、“affectとなっている。すなわち「情動」とも訳される言葉だ。英訳だけですましておかずに、たまには、ほとんど縁のない独原文を眺めてみよう。

Zur Psychologie des Künstlers. - Damit es Kunst gibt, damit es irgendein ästhetisches Tun und Schauen gibt, dazu ist eine physiologische Vorbedingung unumgänglich: der Rausch. Der Rausch muß erst die Erregbarkeit der ganzen Maschine gesteigert haben: eher kommt es zu keiner Kunst. Alle noch so verschieden bedingten Arten des Rausches haben dazu die Kraft: vor allem der Rausch der Geschlechtserregung, diese älteste und ursprünglichste Form des Rausches. Insgleichen der Rausch, der im Gefolge aller großen Begierden, aller starken Affekte kommt; der Rausch des Festes, des Wettkampfs, des Bravourstücks, des Siegs, aller extremen Bewegung; der Rausch der Grausamkeit; der Rausch in der Zerstörung; der Rausch unter gewissen meteorologischen Einflüssen, zum Beispiel der Frühlingsrausch; oder unter dem Einfluß der Narkotika; endlich der Rausch des Willens, der Rausch eines überhäuften und geschwellten Willens. - Das Wesentliche am Rausch ist das Gefühl der Kraftsteigerung und Fülle. Aus diesem Gefühle gibt man an die Dinge ab, man zwingt sie von uns zu nehmen, man vergewaltigt sie - man heißt diesen Vorgang idealisieren. Machen wir uns hier von einem Vorurteil los: das Idealisieren besteht nicht, wie gemeinhin geglaubt wird, in einem Abziehn oder Abrechnen des Kleinen, des Nebensächlichen. Ein ungeheures Heraustreiben der Hauptzüge ist vielmehr das Entscheidende, so daß die andern darüber verschwinden.(Friedrich Nietzsche Götzen-Dämmerun oder Wie man mit dem Hammer philosophiert)


このように、”Affekte”という語彙に拘るのは、以前、『「権力への意志」の冒険』(砂原陽一)という論文にて次ぎの訳文を拾ったからだ。

権力への意志が原始的な欲動Affekte形式であり、その他の欲動Affekteは単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

”Affekte”が「情動」でも「欲情」でもなく、「欲動」と訳されている。

この”Affekte”は、たとえばクロソウスキーの解釈では、衝動implusionとなり、それは欲動Triebeのことでもあり、かつまた権力=<力>Machteのことでもある。

Nietzsche himself had recourse to a varied vocabulary to describe what Klossowslu summarizes in the term 'impulse': 'drive' (Triebe), 'desire' (Begierden), 'instinct' (Instinke), 'power' (Machte), 'force' (Krafte), 'impulse' (Reixe, Impulse), 'passion' (Leidenschaften), 'feeling' (Gefiilen), 'affect' (Afekte), 'pathos' (Pathos), and so on.
(”Translator’s Preface” Nietzsche and the Vicious Circle PIERRE KLOSSOWSKI Translated by Daniel W. Smith)

だが、これはすでに何度もくり返したので、いま多くを触れることはしない(たとえば参照:「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」)。ただ冒頭のニーチェの文に、《陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である》とされていることだけを想いだしておこう。すなわちここにも「権力の意志」があり、ひょっとして「欲動」あるいは「死の欲動」がある、と。

さて、いまもうひとつ注目したいのは、冒頭の文にて、《芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である》とされつつ、《すなわち、陶酔……性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式》との文である。

フロイトは比較的初期から晩年にいたるまで、次ぎのようにくり返している。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 人文書院 P26 原著1905年)
残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。(フロイト『文化への不満』著作集3 P446~ 原著1930年)

なにもかも性に繋げるフロイトの悪評高い「性欲至上主義」を臭わすこの見解は、じつはニーチェ起源ではないのか。 ここで再度、ニーチェの別の文章を掲げよう。

私は一つの事例を取りあげる。ショーペンハウアーは美について憂鬱な熱情をこめて語る、――結局のところなぜであろうか? その理由は、彼は美のうちに、もっと先へゆける、ないしはやっと先へゆくたい渇望をおこさせる橋を見てとるからである・ ・ ・美は彼にとっては数瞬間の「意志」からの解放であるーー美は永久に救済へとおびき寄せる・ ・ ・とりわけ彼は美を「意志の焦点」からの、性欲からの解放者として讃える、――彼は美のうちでは生殖衝動が否定されていると見てとる・ ・ ・奇妙な聖者であることよ! 誰かが君に抗議しているが、どうやらそれは自然であるらしい。自然においては、音、色、香、リズミカルな運動のなかに何のために総じて美があるのであろうか? 何が美を駆りだすのであろうか? ――幸いにも一人の哲学者もまた彼に抗議している。ほかならぬ神々しきプラトン(――そうショーペンハウアー自身が彼を名づけている)の権威が別の命題を堅持している、すなわち、すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumであると・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳 p108)


このニーチェの文には、フロイトの昇華概念がすでにあらわれている。ショーペンハウアーが「錯誤」したのは、昇華されたエロスを美と捉えてしまったことだ。が、ニーチェはそれに騙されない。

ショーペンハウアーは、或る種の芸術作品をペシミズムに奉仕させるとき、誤っている。悲劇は『諦念』を教えるのではない……怖るべき疑わしい事物を描きだすということが、それ自身すでに芸術家のもつ権力や歓喜の本能である。(ニーチェ『権力への意志』)

ニーチェはここでなにを言っているのか? 悲しみを表現する行為が、悲しみの支配だといってはいないか。そしてその「支配」が「権力への意志」だと。

以下はニーチェから一世代ほど離れた日仏の二人の同時代人の見解である。

・プルースト 1871年7月10日 - 1922年11月18日
・夏目漱石 1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)

……しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。そういえば、のちになって私が経験しなくてはならなかったように、人は、愛して苦しんでいるときでも、天職がいよいよ自覚されたとなると、仕事の時間中、愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる……(プルースト「見出された時」井上究一郎訳
まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。

これが平生から余の主張である。(夏目漱石『草枕』)

漱石はここで俳句の創作の仕方のみを語っているように思えるが、しかしながら彼の創作活動は殆んどすべて「トラウマ」の克服にかかわるものではなかったか。

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

さてここでフロイトの「昇華」を復習しておこう。

……さまざまの欲動は、満足の条件をずらせたり、他の方法をとるよう余儀なくされる。これは、大部分の場合には、われわれに周知の(欲動目標)昇華と一致するが、まだ昇華とは区別されうる場合もある。欲動の昇華は、文化発展のとくにいちじるしい特色の一つで、それによってはじめて、学問的・芸術的・イデオロギー的活動などの高級な心理活動が文化生活の中でこれほど重要な役割を占めることが可能になっている。第一印象にしたがうかぎりわれわれは、「昇華こそはそもそも文化に無理強いされて欲動がたどる運命なのだ」と主張したい誘惑を押えかねる。けれども、この件はもう少し慎重に考えたほうがよい。そして最後にーーしかもこれこそ一番大事と思われるがーー、文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この「文化のための断念」は人間の社会関係の広大な領域を支配している。そして、これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因であることは、すでにわれわれが見てきたところである。この「文化のための断念」は、われわれの学問にもさまざまの困難な問題を提起するであろうし、われわれにとしては、この点に関し多くのことを解明しなければならない。ある欲動にたいし、その満足を断念させることなどがどうしてできるのかを理解するのは容易ではない。それに、欲動にその満足を断念させるという作業は、かならずしも危険を伴わないわけではなく、リビドーの管理配分の上からいって、その補償をうまく行わないと重大な精神障害の起こる恐れがある。(『文化への不満』p458)

フロイトにとっては堅物の研究者たちの活動でさえ性欲の昇華である。

芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識真理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動きを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P444)

ここでヴァレリーの「昇華」と、その昇華が空しく崩れ去り「女狂い」に帰結したことを説く中井久夫の文を引いておこう。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)

※参照:「諸君、それは女狂い、”可能なる昇華”以外の何であろう」


だが、これだけではない。

トラウマはつねに性的な性質をもっている。もっともシニフィアン”sexual”は、欲動にかかわるものとして理解されなければならない、とするラカン派の言葉をここで掲げることもできる。

the trauma is always of a sexual nature, although the signifier 'sexual ' has to be understood as 'related to the drive'.("Paul Verhaeghe"TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)

とすれば、やはりここでもニーチェのAffekte(情動、あるいは欲動)である。

ポール・ヴェルハーゲは、トラウマを構造的トラウマと事故的トラウマの二種類に分け、前者はどの主体にも根源的なものである、としている。

everyone of us experiences a sexual trauma, because of the structural relationship between the drive and our psychological apparatus. Some of us suffer from an accidental trauma as well, on top of the original structural one. Because of the latter, every treatment meets with a structurally defined impossibility.

事故的トラウマが構造的トラウマと合体して、真のトラウマをつくる、というこのポール・ヴェルハーゲの考え方は、ほとんど中井久夫の見解と同じくする。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

ところで、中井久夫は《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》ともしている。そして次ぎのようにも書かれる(参照:スフィンクスの謎)。

成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)

中井久夫は思い出すままに自らの幼児型記憶をほとんどすべてを列挙するとし、10例を挙げているが、そのうちの一つだけをここで挙げる。

(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」

イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。(同上 「発達的記憶論」)

これはわたくしにも同じような記憶がかすかにあり、ことさら「痛み」を齎すイメージである、ただし裏庭に生えていたのは、ひどく酸っぱい「夏みかん」の木であったが。


(侯孝賢+辛樹芬)


ここまでの叙述から、われわれはジュネ=ジャコメッティの《美には傷以外の起源はない》における「傷」を、欲動やトラウマ(心的外傷)に近づけて読む仕方が生まれてくるはずだ。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

ーー美は性的なものである、というフロイトの見解を、美はトラウマ(傷)にある、あるいは欲動にあると変奏できるに相違ない(欲望と欲動の違いについては、資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)を見よ)。

(美は性的なものであるとは、美とはエロスであるとも言うことができるが、もしかりに美とはトラウマであるなら、美とはタナトス(死の欲動)であるとした方が近似し、一見矛盾があるように思える。だがフロイトには欲動融合Triebmischungという概念があり、ここでの欲動(タナトス)は、このエロスとタナトスの欲動融合と当面捉えておく上での叙述である→参照:Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸)。

ここでわが国の詩人の言葉を読んでみよう。

ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。

それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。

およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。

げにこの一つの情緒は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。

かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。

されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。

感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。(萩原朔太郎「青猫」序より)

この文から、幼年=幼児型記憶に由来するトラウマが美の起源である(すくなくとも萩原朔太郎にとって)と読むことがどうしてできないわけがあろう。しかも《燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる》とは、まさに「欲動」の定義である、--《灯火にむれる蛾のように、灯火を目ざしてはそれてゆく、その反復運動》

every 'normal' man is irresistibly driven towards the woman and her presumed pleasure, like a moth to the scorching flame of the candle. He is driven by a drive, and this is our final subject, as well as the most difficult one.(Paul Verhaeghe ”Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”)

《ふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして》とあるが、これはファンタジー(幻想)の定義としてよい。《幻想とは、象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである。》

 the fantasy is an attempt to give meaning to a part of the Real that resists to the Symbolic.(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)

朔太郎の詩に反復される言葉として、ことさら(わたくしにとって)印象的なのは、饐えた菊のにほひである。

すえたる菊

その菊は醋え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐えたる菊はいたみたる。

(『月に月に吠える』所収)

『青猫』でもつぎのようにくり返される。


・あなたの感傷は夢魔に饐えて/白菊の花のくさつたやうに/ほのかに神祕なにほひをたたふ。(「夢」)

 ・有明のつめたい障子のかげ/に私はかぐ ほのかなる菊のにほひを/病みたる心靈のにほひのやうに/かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを(「鶏」)

・戀びとよ/すえた菊のにほひを嗅ぐやうに/私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を(「薄暮の部屋」)


ーーだがこの「すえた菊のにほひ」を萩原朔太郎の幼児型記憶にかかわるものだと断言までするつもりはない。ましてや朔太郎の創作行為が、トラウマの克服、ニーチェの云う「権力への意志」の顕現だというつもりは全くない。心の傷に溺れてしまうタイプや、あるいは原トラウマが別のトラウマを呼び起こしてしまう人たちもいるのだろう。

倉田はそのささやかな手品を眺めながら、一人の詩人についての挿話を思い浮べていた。その秀れた詩人は、厄介な人間関係に巻き込まれたあげく、妻に去られ、孤独な晩年を送った。幼い娘が一人いた。ある夜、娘が二階の書斎を覗いてみると、机の前に坐った詩人がしきりに指を動かして、赤い指の玉の練習をしていた、という。/倉田はその挿話を聞いたとき、詩人の孤独感が身に沁み込み伝わってくるのを覚えた。(吉行淳之介『手品』)

萩原朔太郎には「僕の孤独癖について」という随筆があり、幼少時の「いじめ」や「仲間はずれ」経験、あるいは己れの強迫観念などが書かれているが、ここでは敢えて引用しないでおく。

…………

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦に付いてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて、芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』ーー「原初とは最初のことじゃないんだよ」(ラカン)


…………

※附記:Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”より(私意訳)。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。


2015年1月10日土曜日

「萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。」

前回(「つち澄みうるほひ」(室生犀星)と「水澄み/ふるとしもなき」(三好達治))にて、室生犀星の『抒情小曲集』の序にある北原白秋の文章を拾った。

初めて会つた頃の君は寂しさうであつた、苦しさうであつた、悲しさうであつた。初めて君の詩に接した時、私はその声の清清しさに、初めて湧きいでた同じ泉の水の鮮かさと歓ばしさとを痛切に感じた。君はまた自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛を持つた栗の若葉のやうに真純な、感傷家であつた。それは強い特殊の真実と自信と正確さを特つた若葉だ。その栗の木は日を追うて完全な樹木の姿となつた。

 北原白秋の作品にはほとんど馴染んでいないといっていいぐらいなのだが、この機会に「青空文庫」の『思ひ出  抒情小曲集』を覗いてみると、その序に次のような文がある。

……私は過去追憶にのみ生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。「思ひ出」は私の藝術の半面である。私は同時に「邪宗門」の象徴詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも從ふてゐる。從てその一面をのみ觀て、輕々にその傾向なり詩風なりを速斷せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き盡した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現實に執する私の心は時として一碗の査古律に蒸し熱い郷土のにほひを嗅ぎ、幽かな洎芙藍の凋れにある日の未練を殘す。

この文から読みとれるのは、「思ひ出」は、私(白秋)の、いわゆる「感傷」系の詩が集められているが、《懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つ》たのではないということだろう。おそらく、この当時から「感傷」あるいは「抒情」に惑溺することを忌避する風潮が詩壇や文壇にあったのであり、そしてそれに対するあらかじめの反駁だと捉えうる。

ところで萩原朔太郎の『月に咆える』の序にも白秋の文が掲げられている(これもこの機会に気づいたのであり、要するにわたくしはこれらの近代詩人たちの作品を熱心に読んだことはいままでなかった)。

萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。……大正六年一月十日 葛飾の紫烟草舎にて  北原白秋

萩原朔太郎は、なんといっても『月に咆える』が名高く、森鴎外の絶賛、あるいは西脇順三郎は、もし萩原朔太郎を読まなければ、私は日本語で詩を書いてみようなどとは夢にも思わなかったと語っているが、これもなによりも『月に咆える』を読んだことに始まるはずだ。そもそも西脇順三郎はもとは英詩を書いていたのであり、詩というのは英語でしか書けないんじゃないかなどと考えていた(松浦寿輝 「現代詩 --その自由とエロス」より)。


ところで朔太郎は、『底本 青猫』ーー「青猫」が出版されてから十年ほどのちに、新たに詩を付け加えるなどして、再刊する理由をいくつ挙げている。

最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁が歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「青猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイジヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、この「青猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷に出發して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もない。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子の上に、絶望的の悲しい身體を投げ出して居る。

おそらく白秋の『邪宗門』と『思ひ出』の関係は、朔太郎の『月に咆える』と『青猫』の関係と類似しているのではないか。「象徴詩」、あるいはイマヂスチツクのヴイジヨンの詩境にある詩群と、「抒情詩」、すなわち感傷や哀傷に出發して居る詩群。そして、詩人たちーーいや少なくともこれらの詩人たちーーの根は、実は後者であるのだが、最初に上梓したのは感傷を排した前者ということになりはしないか。

ところで、北原白秋の詩集は、わたくしの手元には、白秋が吉田一穂に編纂を託した『白秋詩抄』の岩波文庫版があるだけであり、かつてはそれしか読んだことがなかった。

本書の初版は昭和八年の晩春、白秋先生からその選抄を委ねられて、私が編纂したものである。既刊のおびただしい詩篇を、文庫版に集約するために類型を避けながら、しかも詩人の特質を多面的に示そうとして、やむなく『白秋詩抄』を基本に、他を『抒情詩抄』とに分ちて二冊とした。(吉田一穂 解説より)

『白秋詩抄』には『邪宗門』は収められているが、『思ひ出』はない。すなわち、半欠けである。吉田一穂は解説で次のように書いているにもかかわらず、手が伸びなかったのは、要するに白秋の詩に不感症だったせいだ(そもそもこの文庫を手に入れた当時は、いまでは愛着深い「吉田一穂」の名さえ知ることがなかった)。

「思ひ出」は四十四年、東雲堂から出て、世評高く、詩人白秋の位置を決定づけた。制作の順序は必ずしも「邪宗門」以後とのみかぎらず、むしろその前や同時のものものあること、「東京景物詩」や「桐の花」などと同じく、奔放無碍、噴きあふれるこの一時機に成った自在の発想である。他者の影響の微塵もない、白秋特殊の性格を直接した天成の童心詩篇としての「思ひ出」は、心理的に処女詩集であろう。幼年の目醒めにはじまる稚児的幻想の世界、逆に源泉回帰の望郷の歌である。(同 吉田一穂)

吉田一穂ついでに、ひとつ彼の名詩を掲げておこう。


あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。

ーー吉田一穂「海の聖母」(大正15)所収

ここで、話は飛ぶが、すなわち吉田一穂ではなく、吉岡実の話だが、吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』、万葉集、北原白秋(詩集であるのか歌集であるのかはわからないが)などを入れたそうだ。そして、結局内部検査で没収され北原白秋を戦地で読んでいたと。


ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実「恋する絵」)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(「死児」)


…………


雪の宵   中原中也


      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁きか  白秋


ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙吐いて、
  赤い火の粉も刎ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。


ーーとある白秋のエピグラフは『思ひ出』にある「青いソフトに」からだが、ほかにも《深き目つきに消ゆる日か、過ぎしその日か、憐憫か、》(白秋「骨牌の女王の手に持てる花」)などと読めば、中也だか白秋だかがわからなくなるような詩行に溢れている。


そなたの胸は海のやう/おほらかにこそうちあぐる。(中也)

そなたの首は骨牌の赤いヂヤツクの帽子かな、(白秋)



以下、『思ひ出』からいくつかの詩行を抜き出しておく。 ここには中也の詩で馴れ親しんだ語彙(鄙びたる、年増など)以外にも、中也の「白秋調」(大岡昇平)の起源があまたある。白秋自身の上田敏の訳詩集『海潮音』1905などからの影響、--語彙、音調を聴き取ることもできるかもしれない。

…………


・ほんに内氣な螢むし、嗅げば不思議にむしあつく、

・過ぎし日のうつつなかりしためいきは

・過ぎし日のあどけなかりし哀愁は/こまやかに匂シヤボンの消ゆるごと/目のふちの青き年増や泣かすらん。

・過ぎし日のしづこころなき口笛は

・かの蒼白き年増を恐れて、そつと歩めば、

・過ぎし日のおもひでに植物園を歩行けば、

・泣いた年増がなつかしや。

・過ぎし日は鍼醫の手凾、天鵝絨の紫の凾、

・なにゆゑに汝は泣く、/あたたかに夕日にほひ、/たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらばふ

・あはれ、わが君おもふオロンの靜かなるしらべのなかに、

・靜こころなくつく呼吸の

・晝はひねもす、乳酪の匙にまみれて、飛び超えて、

・小兒ごころのあやしさは白い小猫の爪かいな

・戲れ浮かれて鄙びたる下司のしらべに忘るれど、

・げにげに汝ら、しをらしく、あるはをかしく、おもしろく、


…………

たとえば、--

・泣いた年増がなつかしや。(白秋)

・年増婦の低い声もする(中也)
・鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。(白秋)

・鄙びたる 軍楽の憶ひ  手にてなす なにごともなし(中也)
・くるしげに馬は嘶き、/ 大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば /生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる(邪宗門)

・吁! 案山子はないか――あるまい/馬嘶くか――嘶きもしまい/ただただ月の光のヌメランとするまゝに/従順なのは 春の日の夕暮か(中也)

…………

だが北原白秋にも傷がある。

轟けよ萬世の道の臣、大御軍、
いざ奮へ、いくさびと、揺りとよむと。
げに猛き醜の御楯、大やまとの
天皇の大御軍、征き向はむ。
空ゆかば身も爆ぜむ百雷、
海ゆかば裂くなだり魚雷。

……
ーー北原白秋「皇軍頌」 、大政翼賛会文化部編『大東亜戦争 愛国詩歌集』 (目黒書店、一九四二年)一九頁

もちろん白秋だけではない、高村光太郎の例はあまりにも有名なので、ーーもし知らないひとがいるなら、たとえば、吉本隆明の 『高村光太郎』抄 が 日本ペンクラブの電子書籍文献のなかで無料で手に入るので、それを読んでみたらよいだろうが、ーーここでは、他の詩人による「戦争詩」をもうひとつだけ掲げておく。

モダニスト村野四郎は、太平洋戦争がはじまると、ただちに「挙りたて神の裔」を書いている。

皇紀二千六百一年
清列な露霜の暁
一大轟音と共に
遂に神々の怒は爆発した
おお吾々の父の
吾々の祖父の万斛の怨は
雷鳴とともに天に冲した
見よ今
逆巻く太平洋の怒涛のただ中に
ガラ ガラと崩れ墜ちる
悪徳の牙城
立てよ 神の裔
今こそ妖魔撃滅の時!
挙り立て 剣を取れ
神霊は天に在り
千古不滅の熔岩の島嶼
神国日本を守るは今なり
おお神の裔 神裔
今こそ
わが富士の大乗巌を護れ!


いや、さらにもうひとつ。あの瀧口修造でさえ、こんな詩を書いている(あるいは書かされている)が、それについては弟子筋であった飯島耕一の問いがあり、そのうちメモするかもしれない。


若鷲のみ魂にさゝぐ  春とともに  瀧口修造

いまだ 還らず・・・
いまだ 還らず・・・
巨いなる空の涯て
雲は燃え
星はかがやけれど
君はつひに還らず

されど
故里に春はかへりぬ
水温るみ 餅草萌ゆる
あゝ その春のごとくに
ちちははの胸にかへらむ
さとびとの胸にかへりて
はげしくも炎と燃えむ
美まし國の護りとならむ

君は還りぬ


いやネット上から下記の文を拾うことができたので、いま掲げておこう、飯島耕一『冬の幻』(連作短篇集1982)からである(高橋新太郎「文学者の戦争責任論ノート風」からの孫引き)

主人公は50歳過ぎの詩人・大学教員の藤堂宗宏。

藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。

Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……

十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。

多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……

藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。

それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。

Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)

飯島耕一は、《「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った》としている。ところで、今、瀧口修造のような状況になったとき、《この上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで》あのような詩を、あるいはあのような考えを書き綴ってしまわない「知識人」あるいは「芸術家」がどれだけいるというのだろう?




……さて、それからランボオはこういうんだ。<仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。>

<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。(大江健三郎『取り替え子』

古義人は大江健三郎がモデル、話しかけているのは伊丹十三がモデルの人物である。篁さんとは武満徹であり、武満は瀧口修造に師事していた。






              武満徹に  

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「夜中に台所のぼくはきみに話しかけたかった」より






何処へ   飯島耕一

陽気にはしゃいでいる人たちがいる
だけどぼくは騒げない
ぼくの心はねじくれてしまったのか
グラスをまえにして
ぼくはたった一人だ
昔の女たち 昔の友だち
みんなどこへ 行ってしまったのか
どこかへ出掛けてしまったのか

(……)

(右から岡田隆彦、飯島耕一、吉岡実、大岡信)


          飯島耕一に 

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ーー同 谷川俊太郎「台所…」より