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2015年1月10日土曜日

「萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。」

前回(「つち澄みうるほひ」(室生犀星)と「水澄み/ふるとしもなき」(三好達治))にて、室生犀星の『抒情小曲集』の序にある北原白秋の文章を拾った。

初めて会つた頃の君は寂しさうであつた、苦しさうであつた、悲しさうであつた。初めて君の詩に接した時、私はその声の清清しさに、初めて湧きいでた同じ泉の水の鮮かさと歓ばしさとを痛切に感じた。君はまた自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛を持つた栗の若葉のやうに真純な、感傷家であつた。それは強い特殊の真実と自信と正確さを特つた若葉だ。その栗の木は日を追うて完全な樹木の姿となつた。

 北原白秋の作品にはほとんど馴染んでいないといっていいぐらいなのだが、この機会に「青空文庫」の『思ひ出  抒情小曲集』を覗いてみると、その序に次のような文がある。

……私は過去追憶にのみ生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。「思ひ出」は私の藝術の半面である。私は同時に「邪宗門」の象徴詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも從ふてゐる。從てその一面をのみ觀て、輕々にその傾向なり詩風なりを速斷せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き盡した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現實に執する私の心は時として一碗の査古律に蒸し熱い郷土のにほひを嗅ぎ、幽かな洎芙藍の凋れにある日の未練を殘す。

この文から読みとれるのは、「思ひ出」は、私(白秋)の、いわゆる「感傷」系の詩が集められているが、《懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つ》たのではないということだろう。おそらく、この当時から「感傷」あるいは「抒情」に惑溺することを忌避する風潮が詩壇や文壇にあったのであり、そしてそれに対するあらかじめの反駁だと捉えうる。

ところで萩原朔太郎の『月に咆える』の序にも白秋の文が掲げられている(これもこの機会に気づいたのであり、要するにわたくしはこれらの近代詩人たちの作品を熱心に読んだことはいままでなかった)。

萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。……大正六年一月十日 葛飾の紫烟草舎にて  北原白秋

萩原朔太郎は、なんといっても『月に咆える』が名高く、森鴎外の絶賛、あるいは西脇順三郎は、もし萩原朔太郎を読まなければ、私は日本語で詩を書いてみようなどとは夢にも思わなかったと語っているが、これもなによりも『月に咆える』を読んだことに始まるはずだ。そもそも西脇順三郎はもとは英詩を書いていたのであり、詩というのは英語でしか書けないんじゃないかなどと考えていた(松浦寿輝 「現代詩 --その自由とエロス」より)。


ところで朔太郎は、『底本 青猫』ーー「青猫」が出版されてから十年ほどのちに、新たに詩を付け加えるなどして、再刊する理由をいくつ挙げている。

最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁が歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「青猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイジヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、この「青猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷に出發して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もない。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子の上に、絶望的の悲しい身體を投げ出して居る。

おそらく白秋の『邪宗門』と『思ひ出』の関係は、朔太郎の『月に咆える』と『青猫』の関係と類似しているのではないか。「象徴詩」、あるいはイマヂスチツクのヴイジヨンの詩境にある詩群と、「抒情詩」、すなわち感傷や哀傷に出發して居る詩群。そして、詩人たちーーいや少なくともこれらの詩人たちーーの根は、実は後者であるのだが、最初に上梓したのは感傷を排した前者ということになりはしないか。

ところで、北原白秋の詩集は、わたくしの手元には、白秋が吉田一穂に編纂を託した『白秋詩抄』の岩波文庫版があるだけであり、かつてはそれしか読んだことがなかった。

本書の初版は昭和八年の晩春、白秋先生からその選抄を委ねられて、私が編纂したものである。既刊のおびただしい詩篇を、文庫版に集約するために類型を避けながら、しかも詩人の特質を多面的に示そうとして、やむなく『白秋詩抄』を基本に、他を『抒情詩抄』とに分ちて二冊とした。(吉田一穂 解説より)

『白秋詩抄』には『邪宗門』は収められているが、『思ひ出』はない。すなわち、半欠けである。吉田一穂は解説で次のように書いているにもかかわらず、手が伸びなかったのは、要するに白秋の詩に不感症だったせいだ(そもそもこの文庫を手に入れた当時は、いまでは愛着深い「吉田一穂」の名さえ知ることがなかった)。

「思ひ出」は四十四年、東雲堂から出て、世評高く、詩人白秋の位置を決定づけた。制作の順序は必ずしも「邪宗門」以後とのみかぎらず、むしろその前や同時のものものあること、「東京景物詩」や「桐の花」などと同じく、奔放無碍、噴きあふれるこの一時機に成った自在の発想である。他者の影響の微塵もない、白秋特殊の性格を直接した天成の童心詩篇としての「思ひ出」は、心理的に処女詩集であろう。幼年の目醒めにはじまる稚児的幻想の世界、逆に源泉回帰の望郷の歌である。(同 吉田一穂)

吉田一穂ついでに、ひとつ彼の名詩を掲げておこう。


あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。

ーー吉田一穂「海の聖母」(大正15)所収

ここで、話は飛ぶが、すなわち吉田一穂ではなく、吉岡実の話だが、吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』、万葉集、北原白秋(詩集であるのか歌集であるのかはわからないが)などを入れたそうだ。そして、結局内部検査で没収され北原白秋を戦地で読んでいたと。


ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実「恋する絵」)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(「死児」)


…………


雪の宵   中原中也


      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁きか  白秋


ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙吐いて、
  赤い火の粉も刎ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。


ーーとある白秋のエピグラフは『思ひ出』にある「青いソフトに」からだが、ほかにも《深き目つきに消ゆる日か、過ぎしその日か、憐憫か、》(白秋「骨牌の女王の手に持てる花」)などと読めば、中也だか白秋だかがわからなくなるような詩行に溢れている。


そなたの胸は海のやう/おほらかにこそうちあぐる。(中也)

そなたの首は骨牌の赤いヂヤツクの帽子かな、(白秋)



以下、『思ひ出』からいくつかの詩行を抜き出しておく。 ここには中也の詩で馴れ親しんだ語彙(鄙びたる、年増など)以外にも、中也の「白秋調」(大岡昇平)の起源があまたある。白秋自身の上田敏の訳詩集『海潮音』1905などからの影響、--語彙、音調を聴き取ることもできるかもしれない。

…………


・ほんに内氣な螢むし、嗅げば不思議にむしあつく、

・過ぎし日のうつつなかりしためいきは

・過ぎし日のあどけなかりし哀愁は/こまやかに匂シヤボンの消ゆるごと/目のふちの青き年増や泣かすらん。

・過ぎし日のしづこころなき口笛は

・かの蒼白き年増を恐れて、そつと歩めば、

・過ぎし日のおもひでに植物園を歩行けば、

・泣いた年増がなつかしや。

・過ぎし日は鍼醫の手凾、天鵝絨の紫の凾、

・なにゆゑに汝は泣く、/あたたかに夕日にほひ、/たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらばふ

・あはれ、わが君おもふオロンの靜かなるしらべのなかに、

・靜こころなくつく呼吸の

・晝はひねもす、乳酪の匙にまみれて、飛び超えて、

・小兒ごころのあやしさは白い小猫の爪かいな

・戲れ浮かれて鄙びたる下司のしらべに忘るれど、

・げにげに汝ら、しをらしく、あるはをかしく、おもしろく、


…………

たとえば、--

・泣いた年増がなつかしや。(白秋)

・年増婦の低い声もする(中也)
・鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。(白秋)

・鄙びたる 軍楽の憶ひ  手にてなす なにごともなし(中也)
・くるしげに馬は嘶き、/ 大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば /生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる(邪宗門)

・吁! 案山子はないか――あるまい/馬嘶くか――嘶きもしまい/ただただ月の光のヌメランとするまゝに/従順なのは 春の日の夕暮か(中也)

…………

だが北原白秋にも傷がある。

轟けよ萬世の道の臣、大御軍、
いざ奮へ、いくさびと、揺りとよむと。
げに猛き醜の御楯、大やまとの
天皇の大御軍、征き向はむ。
空ゆかば身も爆ぜむ百雷、
海ゆかば裂くなだり魚雷。

……
ーー北原白秋「皇軍頌」 、大政翼賛会文化部編『大東亜戦争 愛国詩歌集』 (目黒書店、一九四二年)一九頁

もちろん白秋だけではない、高村光太郎の例はあまりにも有名なので、ーーもし知らないひとがいるなら、たとえば、吉本隆明の 『高村光太郎』抄 が 日本ペンクラブの電子書籍文献のなかで無料で手に入るので、それを読んでみたらよいだろうが、ーーここでは、他の詩人による「戦争詩」をもうひとつだけ掲げておく。

モダニスト村野四郎は、太平洋戦争がはじまると、ただちに「挙りたて神の裔」を書いている。

皇紀二千六百一年
清列な露霜の暁
一大轟音と共に
遂に神々の怒は爆発した
おお吾々の父の
吾々の祖父の万斛の怨は
雷鳴とともに天に冲した
見よ今
逆巻く太平洋の怒涛のただ中に
ガラ ガラと崩れ墜ちる
悪徳の牙城
立てよ 神の裔
今こそ妖魔撃滅の時!
挙り立て 剣を取れ
神霊は天に在り
千古不滅の熔岩の島嶼
神国日本を守るは今なり
おお神の裔 神裔
今こそ
わが富士の大乗巌を護れ!


いや、さらにもうひとつ。あの瀧口修造でさえ、こんな詩を書いている(あるいは書かされている)が、それについては弟子筋であった飯島耕一の問いがあり、そのうちメモするかもしれない。


若鷲のみ魂にさゝぐ  春とともに  瀧口修造

いまだ 還らず・・・
いまだ 還らず・・・
巨いなる空の涯て
雲は燃え
星はかがやけれど
君はつひに還らず

されど
故里に春はかへりぬ
水温るみ 餅草萌ゆる
あゝ その春のごとくに
ちちははの胸にかへらむ
さとびとの胸にかへりて
はげしくも炎と燃えむ
美まし國の護りとならむ

君は還りぬ


いやネット上から下記の文を拾うことができたので、いま掲げておこう、飯島耕一『冬の幻』(連作短篇集1982)からである(高橋新太郎「文学者の戦争責任論ノート風」からの孫引き)

主人公は50歳過ぎの詩人・大学教員の藤堂宗宏。

藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。

Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……

十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。

多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……

藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。

それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。

Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)

飯島耕一は、《「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った》としている。ところで、今、瀧口修造のような状況になったとき、《この上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで》あのような詩を、あるいはあのような考えを書き綴ってしまわない「知識人」あるいは「芸術家」がどれだけいるというのだろう?




……さて、それからランボオはこういうんだ。<仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。>

<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。(大江健三郎『取り替え子』

古義人は大江健三郎がモデル、話しかけているのは伊丹十三がモデルの人物である。篁さんとは武満徹であり、武満は瀧口修造に師事していた。






              武満徹に  

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「夜中に台所のぼくはきみに話しかけたかった」より






何処へ   飯島耕一

陽気にはしゃいでいる人たちがいる
だけどぼくは騒げない
ぼくの心はねじくれてしまったのか
グラスをまえにして
ぼくはたった一人だ
昔の女たち 昔の友だち
みんなどこへ 行ってしまったのか
どこかへ出掛けてしまったのか

(……)

(右から岡田隆彦、飯島耕一、吉岡実、大岡信)


          飯島耕一に 

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ーー同 谷川俊太郎「台所…」より