このブログを検索

2015年1月11日日曜日

美は<女>である

もしも小鳥に、彼が歌っていることを、なぜ彼が歌うのかを、また何が彼の中で歌うかを、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだ。(ヴァレリー)

もし「美」とは何かを、われわれが正確に知ることができるとしたら、「美」に魅了されることはないだろう。

ところで<女>は美であろうか。いや、美は<女>であろうか。




女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです(ミレール“El Piropo”)

ひとは<男>など探し求めはいない。<男>というシニフィアンがあるからだ(ーーどの男も似たり寄ったりだわね……)。女たちでさえ、探し求めるのは<男>ではなく、<女>である。

プラトンは……、かくも美しい青年たちがアテナイにいないなら、プラトン哲学などまるでありえないだろう、彼らを眺めることこそ、哲学者の魂をエロス的な酩酊へとおとしいれ、その魂があらゆる崇高な事物の種子をかくも美しい地上界へと振り落してしまうまで、その魂に安息をあたえないものであると。これまた奇妙な聖者であることよ! --人は、プラトンを信用するとしてさえ、おのれの耳を信用しはしない。(……)何が結局プラトンのこの哲学的なエロスの術から生じたのであろうか? ギリシア的競闘の一つで新しい芸術形式、弁証法である。ーー私は、ショーペンハウアーに反抗し、プラトンの名誉のために、古典的フランスの全高級文化と文学もまた性的関心という地盤のうえに生い立ったということに注意をうながしておく。そこではいたるところで、色事、官能、性的競争、「女」を探しもとめてさしつかえなかった、--探しもとめてけっして徒労にはおわらないだろう・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳)

…………

目の前を美しいカップルが通り過ぎてゆくとする、そう、たとえば路上カフェで珈琲啜っている折に。すると男の観客の視線は女に釘付けになる。だが女の観客は、その男に惹きつけられる以上に、あのいい男をモノにした女を追う。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996フロイト派の英国精神分析医:引用者)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe 私訳)

ところで男の去勢不安、女のペニス羨望というフロイトのテーゼは正しいのだろうか。

フロイトの「男根至上主義」の標準的なフェミニストの批評に対して、Boothbyは、「ペニス羨望」という悪名高い概念のラカンのラディカルな再解釈を示している。「ラカンは、ペニス羨望は、最終的に、まさにペニスをもっている人びとによってもっとも深刻に感じられるのだということを理解させてくれる」との見解もあるだ。

Against the standard feminist critiques of Freud’s “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan’s radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis”(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

 ここで引用されているBoothbyの文は、Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001からである。


Paul Verhaegheも同様に、ラカンから《男は十分に(想像的)ファルスをもっていないことを怖れ、女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる》と読み取り、男性のペニス羨望、女性の去勢不安ーー欲望の対象でないことを怖れる、すなわち上に引用した文から抜き出せば《男の欲望のシニフィアンになる》のが女の欲望なのであり、、シニフィアンにならないことを怖れる=去勢不安という理解をしている。

(ラカンにとって)想像的去勢不安とは、〈大他者〉のファリックな欲望を満足させえないという不安を意味する。この不能により、この〈他者〉に無視されたり、さらには拒絶されたりする不安である。後者は二種類のジェンダーのヴァージョンに関係してくる。すなわち男は十分に(想像的)ファルスをもっていないことを怖れ、女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる(ラカン 1956-57)。これは次の結果をもたらす。特徴ある男性的な“ギネスブック記録”ヒステリーへ、――より性的な意味に限定すれば、バイアグラへと。女性においては、われわれは“ミスワールド”ヒステリーに遭遇する、やがては形成外科手術の過剰を伴う。(私訳)

Imaginary castration anxiety involves an anxiety about being unable to satisfy the phallic desire of the Other and hence, being left or even rejected by this Other because of this inability. The latter receives two gender related versions : the man is afraid that he doesn't sufficiently have the (imaginary) phallus; the woman is afraid that she insufficiently is the imaginary phallus (Lacan, 1956-57). This leads to the characteristic masculine “ Guinness book of Records ” -hysteria, and –in a more restricted, sexual sense, to Viagra . In women , we encounter the “ Miss World ” -hysteria, eventually accompanied with excesses in plastic surgery. (“Sexuality in the Formation of the Subject”Paul Verhaeghe)

とすればここでもまたニーチェに戻ることになる、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳ーー「写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界」より)。我は十分に欲することができていないのではないか(他の男に比較して)ーーこれが、男のペニス羨望であり、彼に十分欲せられないていないのではないか(男の欲望の対象に十分になっていないのではないか)のが、女の去勢不安である。

女性のペニス羨望と男性の去勢不安の典型的なジェンダーの特異的分布に注意を払ってみよう。私の見解では、それはまったく逆なのだ。ペニス羨望は、典型的な男性の心配事であり、他方、不安は女性の側に見出される。(参照:男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」

このあたりは女流精神分析家の第一人者コレット・ソレールも似たような見方をしており、フロイトの女のペニス羨望は、彼のヴィクトリア朝のモラルに囚われた「幻想」だったのではないかというものだ。




世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

真理が女であるならば、美はもちろん女であるだろう。

ここでラカンのパクリを示しておこう。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。(ラカン『同一化セミネール』)




シーレと荒木はともに"不在"による"存在"を可能にしている。ならば荒木の写真にもシーレと同じように、モデルと作者との間には「のっぴきならない」"関係"が存在するのではないか。(……)

荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣


◆"Ich liebe dich" E. Grieg (Bibiana Nwobilo)



ああ、なんていい女なんだろ、--ところがこんな画像もあるのだな

Vorreiterin: Kärntens afro-österreichische Opernsängerin


人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」)

《忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である》さ


◆"Gretchen am Spinnrade" Franz Schubert





《その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりする》……