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2015年6月20日土曜日

この日は不幸な日であつた

この日は不幸な日であつた
パウル クレー パウル クレー
最終のインク
最終の形
最終の色
最終の欲情
ホテルのランチでたべたやせた鶏も
砂漠にのさばるスフィンクスにしかみえない
藪の中にするオレーアディス ペディートゥース!
あいみてののちにくらべれば
セザンヌのこともピカソのことも思わなかつた
エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点
魚の瞑想
小鳥の鯱立ち
藪の中の眼
藪の中に落ちた手紙
存在のさびしみをしる男の寝酒の
コップはクコの花のように紫である

ーー西脇順三郎「失われた時」より

 「わたしの詩の世界は
藪の中の鶯のように
少年が撃つ空気銃の一発で破滅するかも知れない」

ーー吉岡実「夏の宴  西脇順三郎先生に」より)

 詩の世界がそうであるなら、
ラカンやらの世界はいっそう一発で破滅する

なにに?

一陣の風に。
神々しいトカゲの舌に。
あの無の彫刻に。
とつぜん遠くからやってくるものに。


死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲(第十七曲の間違いのようにも思われるが詳しいことは不明:※引用者))あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、
人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかだ。
留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。
逃れ去る女。光が死に絶えてもなおあとに残る不定形のうごめき。