2016年4月27日水曜日

精神の貴族としての倒錯者

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーーという神経症(ヒステリー・強迫神経症)、精神病(パラノイア)、倒錯(フェティスト)の区別をそれなりに信用してきたのだが、さて、ミレールが次ぎのように言うとき、これをどう処理したらいいのだろう。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。「父の名」は、太陽の下に、その場がある。太陽とは「父の名」の表象だ。

精神病においては、我々が古典的ラカン派の仕方でそれを構成するなら、代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ。(…)

「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。
(…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

このように神経症/精神病/倒錯の三区分を曖昧にされてしまうのは、いささか抵抗がある。

わたくしは御覧のとおり、《切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いている》タイプであり、すなわちフェティスト、倒錯者であることを自認してきた身としては。

どうも世間には、そうでないタイプ、パラノイアやら、ヒステリー、強迫神経症者がうようよしているように感じられる。

あれらの連中も「ふつうの精神病」の変種としてしまうのはーーそうであるのかもしれないがーー、人間観察上は、あまりおもしろくない。

むしろ、ミレールが以前言っていたような古典的区分けのほうが(人間観察上は)役に立つ。

ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール松本卓也訳)

仮に、前回記したように(参照)、「父の名」の下っ端の「父の諸名 les Noms-du-père」が、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方を表し、後者が神経症者におけるような「父の名」(父の法)が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョンpère-version であるとしても、そうであるなら、神経症とはpère-version のヴァージョンが取り払われたれた究極の「倒錯」ーーかたまっちまった倒錯ーーとするわけにはいかないはずだ。

倒錯者と神経症者が、結局は、同じ構造であるなどといわれたら、倒錯者である〈わたくし〉は、あの神経症者のアホウどもといっしょにされたくない心持でーーひどい苛立ちを伴ったーー、さむいぼが立ってしまう。

しかも、ミレール曰く、タトゥーも「父の名」であり、仕事も「父の名」だって?

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。(同 ミレール、2009)

だが、どうもこの両者(タトゥー者と仕事者)には根本的な相違があるという思いから逃れることはできない。(もっともユダヤ人たちなどのタトゥーのヴァリエーション、「割礼」が、父の名の変種であるだろうことは、十分ありうるだろうが(参照))。

そうはいっても、「仕事」などを奉じたてまつるのは、「三井人」のようになって何も恥じることのない究極の家鴨の群の種族ではないか。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

これは、たとえば「芸術家」という 「職業」に従事して、毎回かわりばえのないことをやっているーーなんのパッションもなく、ただひたすら芸の質を落とさないように精進しているらしき種族も同様である。

ところで、神経症者と倒錯者との境目は、大他者に帰して、自らの享楽を誤魔化すヤツと、自らの身体などで処理する「賢明さ」を備えた高貴な種族との差にあるのではないだろうか・・・

神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。(Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS、2004


もちろん、わたくしが、神経症者とは異なって、「精神の貴族」に属しているのは、御覧の通り、切り取られたテクスト、引用や慣用語や活字の細分化、単語の快楽に耽溺していることから歴然としている・・・

人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」井上究一郎訳)
人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則……(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」同上訳) 

とはいえ、ここでジジェクの神経症、・精神病・倒錯の三区分の定義には、敬意を払っておこう。

神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012

ようするに神経症者は「盲目」なのである。 精神病者や倒錯者のほうがずっとましだ・・・

最後に、ネット上には、とんでもない不感症の神経症者たちが跳梁跋扈しているので、ここであらためて断わっておくが、わたくしの三点リーダー(・・・)とは、(笑)と同義である・・・