2016年5月31日火曜日

「現勢神経症」スペクトラム

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 ーー「ある臨界線以上の強度のトラウマ」)

…………

以下は、「現勢神経症と原抑圧・サントーム」から引き続く内容である。まずそこで掲げたフロイトのいくつかの文から次のふたつを再掲しよう。

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)

これらのフロイトの叙述を元にして、ヴェルハーゲが次のように言っているのも見た。

フロイトの論拠では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(PDF)

要するに、現実神経症スペクトラムである。DSMには、自閉症スペクトラムという概念があるのは知っていたが、最近のDSM-5では、さらに分裂病スペクトラム(Schizophrenia Spectrum 統合失調症スペクトラム)という概念もあるらしい。

いまやなんでもスペクトラムであるがーーそもそも現代ラカン派というのは、言ってしまえば、妄想スペクトラムだ(参照:Miller, J.-A. (2009)ーー、上にフロイト自身が現勢神経症/精神神経症を心気症 Hypochondrie /パラフレニア Paraphrenie としつつ、なおかつその区分が「単一の連続体」なら、スペクトラムはフロイトにすでにある。

そしてフロイトの上に掲げた叙述に則って、パラフレニアは分裂病とパラノイア等々を包含するのなら(もっともフロイトのパラフレニアの定義には異論があるのを知らないではないがここでは割愛する)、心気症(実際には神経衰弱・不安神経症・心気症)を基盤とする現実神経症のほうがより「根源的」スペクトラムである。

割愛すると記したが、次のような図を少し前に拾ったので、ここに参考のため(つまりこれ自体異論がある)掲げておこう(Reading… Seminar III)。


そして、次のような指摘もある。

Lacan のいう「パラノイア(paranoia)」は、E.Kraepelin のパラフレニーとパラノイアを一括して捉える概念であり、つまるところ症例 Schreber のような、急激に痴呆化に至ることのない妄想優位の精神病を指している。(要素現象の概念――統合失調症診断学への寄与――松本卓也,加藤 敏 ,2012)
ラカンの精神病理論において、症状安定化のための三つの異なった理論が分節化されている。想像的同一化、妄想形成、補充(穴埋め suppléance)である。(Fabien Grasser (1998). Stabilizations in psychosis )

ここにある穴埋めに焦点を絞れば、ラカン理論は父の名スペクトラムである。いや場合によっては倒錯スペクトラムでもよい。

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

さて、冗談?ーーつまり「スペクトラム冗談」だが、これはほんとうにジョークなのだろうか? だとしたら DSM 自体がジョークなのではないか?ーーはこの程度にしてここでの話題に入ろう。

フロイト理論における「現勢神経症 Aktualneurose」とは、欲動から来る興奮を象徴的な仕方でーー言語に代表されるツールでーー加工することの不可能性にかかわる。

とすれば言語を使用しない、つまり象徴界の住人ではなく、想像界・現実界の住人である動物(参照:犬と人間(記号とシニフィアン))に「神経症」があるとしたら、現実神経症だろう。

すなわち、下にやや長くかかげる引用文で、中井久夫が動物の「神経症」と言っている内容が、おそらくほぼ人間の「現勢神経症」のことであるのではないか。≪一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である≫。阪神淡路大震災において≪多くのペットの受けたダメージはその飼い主であるヒトをはるかに凌ぐものであった≫。

世界を減圧し、貧困化する言語をもたない動物が、ヒトよりも外傷的出来事を強く刻んでもなんの不思議でもない。

なおかつ、中井久夫の下の文には、次のような記述がみられる。

私が挙げた動物症例では、ペットに比して飼い主の地震に対する反応は非常に軽い。それはどうしてであろうか。さまざまな付随的事情が飼い主に有利なこともあろうが、ヒトが開発した言語の存在が大きいと思われる。

この言語によって欲動興奮を処理した後のなんらかの障害ーーフロイト用語を使えば、代表的には、後期抑圧、あるいは防衛による障害ーーが、「精神神経症 psychoneurose」の領野にあたるはずだ。

さて、中井久夫の動物の神経症をめぐるエッセイから、である。

一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。私は獣医学にうといので、私自身の観察を挙げる。

1995年1月17日未明の阪神淡路大震災の直後から、私は折にふれてペットを観察した。多くのペットの受けたダメージはその飼い主であるヒトをはるかに凌ぐものであった。この地域は六甲山の北側であって地盤がよく、家屋損傷に留まり、震度は5程度であったかと思われる。
〔症例1〕 ある裕福な家庭のゴールデン・リトリーヴァーは、せっかくの訓練が全部抜けてただの甘え犬になった。初対面の私にもすりよってきた。(……)

〔症例2〕 一軒屋の家屋に接した犬小屋にいた雑種犬は、通りかかる人にいつも垣根の端から端まで吠えていた犬であった。震災の朝も彼は繋がれていなかったと思われる(……)が、道に面した凸レンズ形の庭石の上に「忠犬ハチ公」の姿勢で不動であり、前に立つ私を眼にもとめなかった。8カ月後にようやく私を認めて一声弱々しくワンと吠えた。彼が石を離れた時1年を越えていた。2、3年後には多少は吠えるようになっていたが、かつての元気が戻ることはなかった。(……)

〔症例3〕 震度6―7の地域のマンションの2匹の飼い猫である。若い1匹は本に押しつぶされたが、8歳のもう1匹は機敏に安全な場所に逃れた。大学英文科教授の夫人は、猫がおかしい行動をすると私に語った。その後まもなく、彼は、夫婦を起こすようになり、起きるまで髪の毛を前肢で掻くのであった。(……)起こすのは、朝の5時台で、必ず震災の起こった5時46分より前であった。(……)ちなみに、朝寝坊であった私も、震災以後、強力な睡眠薬を使用した数度を除いて、必ず、5時46分以前に目覚めて今に至っている。ちょうど、その時刻に目覚めることがある。このことを意識したのは、この猫をみて以来であった。最近、時刻の生物時計の全身細胞への分布が明らかとなっている。……

〔症例4〕 垣根の中で放し飼いだった2匹の犬は、震災直後も前同様、通りかかる私に吠えてやまなかった。この犬の飼い主にたまたま会った。犬は2匹とも2年以内に亡くなっていた。
(……)私が挙げた動物症例では、ペットに比して飼い主の地震に対する反応は非常に軽い。それはどうしてであろうか。さまざまな付随的事情が飼い主に有利なこともあろうが、ヒトが開発した言語の存在が大きいと思われる。言語は伝承と教育によって「地震」という説明を与えた。家族、近隣との会話を与えた。そして、ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衝拍が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象REPRESENTしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼児記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられている。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって、心的外傷は、言語によって知られる他の精神障害の多くより伝達性に乏しい。言語化しにくいだけではない。痛みというものは訴えても甲斐がない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006『日時計の影』所収)

このエッセイには、現実神経症、すなわち現勢神経症という言葉も出てくる。

現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(同「トラウマについての断想」)

中井久夫は、2000年にもすでに次のように記している。

動物は端的に苦痛を表出し、強迫とヒステリー行動を示し、生命にかかわる拒食や変形を残す自傷を行い、時に死ぬが、また適切な精神療法に反応し、臨床心理士の実習に取り入れてよいとさえ思われる。ただ、擬人化した思い込みは、ある程度は人間の本性に根ざしたもので避け難い。しかし、その自覚は必要だろう。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』P.95)

…………

※付記

ACTUAL NEUROSIS AND PTSD(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule,2005、PDF)より

精神分析のまさに始まりから、フロイトは異なった診断上の区別を導入した。彼はその区別を生涯の全著作を通して保持した。一方で、彼が、Abwehr-Neuropsychosen、すなわち防衛の精神神経症と呼ぶものを叙述した (Freud, 1894,1896)。この障害の起源は、精神的 psychical 領域に位置づけられる。すなわち幼児性愛の表象的・防衛的エラボレーションに位置する。精神神経症に結びついた症状は、この文脈にて、解釈・理解されうる意味を持っている。ここでの中心的考え方は、性的欲望にかかわる相剋とこの相剋に対する防衛である。

他方、フロイトは Aktualneurosen(現勢神経症)を区別した。この起源はまた性的なものである。が、全く異なった仕方のものだ。現勢神経症の典型的な特徴は、症状の上部構造の不在、そしてそれに関連したセクシャリティに関する表象的発達の不在である。症状はソマティック(流動する身体)の現象に限定されている。その症状はどんな付加的意味もない。中心的臨床現象は、自動的な不安と不安のソマティック等価物である(Freud, 1895,1896)。

フロイトはその後の彼の経歴の道程にて、精神神経症という最初のグループに主に携わった。彼は現勢神経症のグループのエラボレーションをしなかった。それは、フロイトがその仕事の最後まで現勢神経症の存在を確信していたにもかかわらず、である。この注視欠如の理由は、大部分は実践的なものだ。すなわち、現勢神経症のグループは、その当時の彼の精神分析的治療に適していなかった。結局、現勢神経症の場合、症状の上部構造と表象的発達が不在であるため、分析するものは単純に何もない。

(…)それにもかかわらず、フロイトはこの現勢神経症のグループを詳述することを辞めない。その病因学にかんして数多くの仮説を形式化した。

現勢神経症の領野内で、フロイトは神経衰弱と不安神経症とのあいだの区別をした。後に、心気症を付け加えた(Freud, 1914)。これらの例すべてにおいて、決定的原因は、欲動から来る内的緊張あるいは圧迫感、この欲動を精神的にエラボレーションすることの不可能性と繋がっている。これは、原不安と/あるいは不安等価物をもたらす。(ヴェルハーゲ他、2005、私訳)

そして、次のような文が続く。

人が、現勢神経症についてのフロイトの叙述と DSM–IV における PTSD の叙述を比較するとき、すぐさま数多くの類似性が現れる。まず、現勢神経症と PTSD の両方とって、中心的な臨床現象は不安である。この理由で、DSM–IVにおいて、PTSD は不安障害の見出しのもとに分類されている。この不安の特性はまったく典型的なものだ。すなわち、この不安の精神的加工がない。PTSD の DSM–IV 評価基準に叙述されている恐怖・無力・戦慄は、フロイトにおける不安神経症とパニックアタックの不安とそっくりである。……

とはいえ、10年前の論文であり、なおかつ現在はすでに新しく DSM–Vがでて、たとえば「不安障害」という用語が「不安症」に変わったりしているそうだから、ーーそしてわたくしはその内容をまったく知らないのでーー私訳はこのあたりでとどめておく。

いずれにせよ、いまだほとんど誰もが注目していない現勢神経症/精神神経症という視点からわれわれの症状を眺めると、いささか「風景」が変わってみえるのではないか。

解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに 蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまって おり、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収ーー無垢の視線という神話
T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

◆「精神医学」と「精神看護」の出会い  中井久夫氏を囲んで(2001)より

中井久夫)看護大学で講義をしていて,最も講義しにくいのが神経症です。

 僕は看護大学では,《発達》にしたがって現れる神経症を教える時は,まず黒板に線を引きます。そして,例えば「“チック”というのは,治る能力が備わらないと出てこない」とか,「離人症は,“自分を見つめる自分”とかがないと出てこない」というように講義していました。

 しかしそうすると,昔でいう「ヒステリー」などはそこに収まらないわけです。そこで,それは一応《退行》,つまり“赤ちゃんがえり”として説明してみて,それに外傷神経症などを加えて解説しています。

 その助けになったのは,ヤングという人で──今度『PTSDの医療人類学』(みすず書房)という本を翻訳しましたが──,彼はDSM体系ではフロイトの精神神経症を否定しただけだと言っています。

 「フロイトは現実神経症と外傷神経症もあげているけれども,それには目が及んでいない,この2つは浮いているんだ」と書いているので,私もチョッピリ味方を得たような気になりました。