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2016年2月16日火曜日

反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ここでは、ドゥルーズの《反復されることになる最初の項などは、ありはしない》を、《反復されることになる最初の「真理」ーー主体の裂け目等々ーーは、ありはしない》と言い換えて、ラカン派の観点から、それが成り立つかどうかを、試しにみてみよう。

…………

全て現実界的ものは、常に必ずその場にあるさ…現実界のなかで何かの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

Tout ce qui est réel est toujours et obligatoirement à sa place…L'absence de quelque chose dans le réel est une chose purement symbolique (Lacan,Le séminaire livre IVーーréel/réalitéの混淆)

そもそも現実界には、欠如はない。欠如があるのは、象徴界の法、その転倒された梯子が、設置されてからだ。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir.(Ecrits, Seuil, p. 827)

あるいはセミネールⅩⅩⅢにおける、「法のない現実界」《Réel sans loi》。





話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

この「四つの言説」の形式的構造の簡潔な説明にあるように、論理的には、「真理」が先にあるのではない。上部構造(象徴界)における矢印1の袋小路が、真理と生産物(現実界)を生む。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素 nonsignifying elements である。すなわち主体と対象aである。

シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 surplus enjoyment と呼んだものである。剰余享楽 surplus enjoyment のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(ジュパンチッチ、『剰余享楽が剰余価値に出会う時』 ーー「快原理の彼岸とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性にしかない」)

ここで、ジュパンチッチは「主体とはシニフィアンの内的な裂け目」、あるいは「対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓」と言うことによって、四つの言説の形式的構造と重なる主人の言説を説明している。

(四つの言説は)主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDF

Lesourdの記述と重ねて言えば、話し手 S1 は他者 S2に話しかける。そのS1とS2という二つのシニフィアンの「内的な裂け目」として分裂した主体 $ があり、かつまた残滓としての対象aが生じる。









これが、後年のラカンがくり返しいっていることの核心のひとつである。「遡及性」の考え方、たとえば、《原初とは最初を意味しない》(セミネール、「アンコール」)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩ)とはこの意味で捉えなければならない。

ジジェクの次ぎの文も、「原初とは最初を意味しない」とともに読むことができる。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

さて、ほんとうに「反復されることになる最初の項などは、ありはしない」のだろうか。

反復されることになる最初の「内容」はありはしない。ただし最初の「形式」はある、と言ってみよう。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002 年 『徴候・記憶・外傷』所収)

ここで中井久夫は、幼児型記憶ということによって「原トラウマ」、あるいは原光景に近似したことを語っている。それは、象徴界における「外傷的体験の際」に、形式として顕在化する。つまり、象徴秩序の非一貫性との遭遇において、現実界(原トラウマ)という「形式」が現われる。

これと類似した考え方は、ジジェクやヴェルハーゲに頻出する。たとえば、

形式と内容とのあいだの裂け目は、ここでは正しく弁証法的である。それは超越論的裂け目とは対照的で、後者の要点とは次の通り。すなわち、どの内容も、ア・プリオリな形式的枠組内部に現れ、したがって我々が知覚する内容を「構成している」目に見えない超越論的枠組に常に気づいていなければならない、というものだ。構造的用語で言えば、要素とその要素が占める形式的場とのあいだの識別をしなけれならない、ということである。

反対に、唯一正当な形式の弁証法的分析を獲得しうるのは、我々がある形式的な手続きを、(発話の)内容の一定の側面の表現として捉えるのではなく、内容の一部分の徴づけあるいはシグナルとして捉えるときである。その内容の一部分とは、明示的 explicit な発話の流れからは排除されているものだ。こうして、ここには正当な理論的要点があるのだが、我々が発話内容の「すべて」を再構成したいなら、明示的発話内容自体を超えて行き、内容の「抑圧された」側面に対する代役として振舞う形式的な特徴を包含しなければならない。ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より、私訳)
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。ヴェルハーゲ、“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.、.2009)


おそらくドゥルーズ読みなら、ここでの「形式」から、「純粋差異」や「最小の差異」概念、あるいはrépétition d'un minimumなどを思い起すのだろうが、わたくしはそれらに詳しくない。

……ドゥルーズ用語の「最小の差異」(物の、それ自体からの距離を示す純粋に潜在的差異、どんな現実の特性に依拠することもない差異)にて言えば、現勢的アイデンティティactual identity はつねに潜在(潜勢)的な最小の差異に支えられている。(ZIZEK,LES THAN NOTHING、私訳)
四つの言説のラカンの図式……その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。(「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004、私訳)

ラカンが晩年 Y a d'l'Un(「一」のようなものがある)としたとき、それは「純粋差異「に(も)かかわることは以前みた(参照:「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」)

Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(ラカン、セミネールⅩⅨ)

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、2012,私訳)


…………


以下、参考として、以前に掲げた(参照)アレンカ・ジュパンチッチの表象(再現前)論を一部訳語を変えて掲げる。

これはジジェクの四つの言説をめぐる、やや異なった側面からのーーいささか難解なーー議論にかかわる。

S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉 (One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である。トポロジー的には、二つの表面にお いて同じ用語を得る。

言い換えれば、元々のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシ ニフィアンとその二重化 reduplicatio、シニフィアン とその記銘 inscription の場、〈一〉とゼ ロのあいだの最も微小な差異である。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDFーー「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」)


ジュパンチッチの論は、バディウの存在論の中心的な考え方 l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにも大いに関係する。

バディウの概念である “count-as-one” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 一の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa

ジュパンチッチの説明のなかに、ラカンの公式、《un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant〔シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する〕》(参照)とあるが、バディウの議論は、ラカンの同一化セミネール(セミネールⅨ)の次の文などにも「おそらく」かかわる。ーーわたくしはバディウをほとんど読んだことがないので、あまりエラソウなことは言えない、という意味での「おそらく」である。

c'est dans le statut même de A qu'il y a inscrit que A ne peut pas être A.

A の地位そのものに「A は A ではありえない」と書き込まれている。(ラカン、セミネールⅨ)
あるは、セミネールⅩⅣの、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないこと》。

il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )

さらにはセミネールⅩⅩ(アンコール)の次の文、

・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー《「一」と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性l'inadéquat 》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということだ。


◆アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”(2004)より


【表象の裂け目としての現実界】

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口 major breakthrough だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「非-関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、 表象のまさに裂け目である。


【メタ構造としての表象】

メタ構造としての表象の問題、そして結果として起こる要請ーー表象からそれ自身を引き離す、あるいは「状態 state」からそれ自身を引き離す要請の問題は、純粋な多数性の存在論、無限の、偶然性の存在論とは異なった存在論に属した何ものかである。

メタ構造としての表象は、一つの世界にかかわるのみだ。そこでは、たとえどんな理由であ れ、「神は死んだ」という出来事的表明は、なんの真理もない。


【メタ構造ではないものとしての表象】

対照的に、無限の偶然的な世界(あるいは「状況」)では、メタレベルに位置している「それ自身を数えることの勘定 counting of the count itself」は何の必要性もない。

それは、「一」に対して数えること counting-for-one 自身と同じレヴェルに位置しており、 ある還元不能の間隔 irreducible interval によって、それから切り離されているだけだ(そして、この間隔を、ラカンは現実界と呼んだ)。

さらに、これがまさにある状況を「無限」にする。無限にするのは、表象のどんな操作の除外 exclusion でもない(表象の操作とは、「一」に対してそれを数え、そしてそれ自身の上に それを閉じることを「欲する」)。そうではなく、表象の操作の包含 inclusion である。

どんな個別の「現前 presentation」をも無限にするのは、まさにそれがすでに再現前(表象 representation )を含んでいるということによる。この着想はまた、結合(あるいは固定) unification (or fixation) をもたらす。バディウが「状態」と呼んでいるものとは別のものだが。


【主人のシニフィアンはメタシニフィアンではない】

ラカンはそれを「クッションの結び目 」(point de capiton)の概念と繫げる。(潜在的に potentially)無限のセットの結合は、メタ構造の場合とは同じではない。「クッションの結び目」としての S1 は、S2 に対して、メタシニフィアン meta-signifier ではない(S2、すなわち 潜在的に virtually 無限のシンフィアンの鎖とその組み合せであり、ラカンはまた「知」とも 呼んだが、その S2 に対しての S1[主人のシニフィアン]はメタシニフィアンではない)。

S1 がこのセットを結びつけるのは、「数えること自体を数えること 」counting the count itself によってはなく、二つのカウント two counts の直接的一致のまさに不可能性を「現前する presenting」ことによってである。すなわち、二つのあいだのまさに隙間を現前する ことによってである。


【隙間、 あるいは間隔のシニフィアン】

言い換えれば、S1 は二つ(「数えること」counting と「数えること自体を数えること 」 counting the count itself )が「一」になることの不可能性のシニフィアンである。まさに隙間、 あるいは間隔、あるいは空虚のシニフィアンであり、表象のどんな過程のなかでもそれらを分離するシニフィアンなのである。空虚とはまさに表象の無限のレイヤー化 layering の原因である。

ラカンにとって、「あること=存在」being の現実界とは、この空虚、あるいは間隔、隙間で あり、このまさに非一致 non-coincidence なのだ。そこでは逸脱する過剰はすでにその結果である。S1 がこの空虚を現前させるのは、それを名付けることによってであり、それを表 象しはしない。

ラカンの S1 、(悪)評判高い「主人のシニフィアン」、あるいはファルスのシニフィアンは、 逆説的に、ただ「一」は(そうでは)ない the One is not と書く仕方しかない。そして「 is 」は、 すべての「一」に対してのカウント count-for-one の最中にある原初の乖離を構成する空虚である。

「一」に対してのカウント count-for-one は、つねに-すでに「二」である。S1 は、人が、「一」は(そうでは)ない the One is not として描きうるもののマテームである。それは、まさに、それが「一」であることを邪魔するものを現前することによって、「一」は(そうでは)ない the One is not と書かれる。これが 、S1 が言っていることだ。すなわち、「一」は(そうでは)ないと。しかし、純粋な多数ではなく、「二」なのだ。

これがおそらくラカンの決定的な洞察である。もし、人が「一」の存在論を置いてきぼりにし て先に進むための用意を持ちうる何かがあるのなら、この何かは単純に〈多数〉ではない。 そうではなく、「二」である。


…………

※附記


以下、“Badiou, L'être et l'événement”よりいくらかの文を抽出。


◆compte-pour-un

« que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement, 123)


◆mise-en-un

« la mise-en-un du nom du vide »


◆in-existe

« Seul le vide est, parce que seul il in-existe au multiple, et que les Idées du multiple ne sont vivantes que de ce qui s'y soustrait, ils touchaient à quelque région sacrée »


◆suture

« A l'ensemble{φ} , ce n'est pas ‘le vide' qui appartient (…). Ce qui lui appartient est le nom propre qui fait suture-à-l'être de la présentation axiomatique du multiple pur, donc de la présentation de la présentation. »


◆l'Un n'est pas(opération)

« Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. »

« un pur ‘il y a' opératoire »

« L'un est seulement au principe de toute Idée, saisie du côté de son opération –de la participation– et non du côté de son être. »

« Il y a le nom de l'événement, résultat de l'intervention, il y a l'opérateur de connexion fidèle, qui règle la procédure et institue la vérité. »

« Le nom propre désigne ici que le sujet, en tant que configuration située et locale, n'est ni l'intervention, ni l'opérateur de fidélité, mais l'avènement de leur Deux, soit l'incorporation de l'événement à la situation »


※メモ

ミレール(1966):S(Ⱥ)=Suture(縫合)、あるいはゼロ概念
ミレール(2000?):S(Ⱥ)=Σ(サントーム)--Σは父の名、S1の変種

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”,2008)

フィンク(1995):S(Ⱥ)=S(a) ーー原初の喪失Ⱥのシニフィアン

Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点、2007】

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの


バディウ存在論 l'Un n'est pas (パルメニデス→ ハイデガー→ラカン→バディウ)
ジジェク組の見解: l'Un n'est pas(バディウ)= il y a de l'Un(ラカン)=対象a



【ラカン】

 ・Y a d'l'Un(S.19・20)→ 「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る

 ・l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste (S.20) (全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒 l'essaim(S1) =縫合)

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー上にも記したが、くりかえせば、「〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性」とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということ。

→《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)