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2018年3月23日金曜日

愛の賛歌

◆ゴダールの『愛の世紀』(原題:愛の賛歌 Éloge de l'amour、2001)より(一部編集有り)



思うに、映画と愛のあいだには密接な結びつきがある。その理由はまず、愛は、映画と同じように、実存のさなかでの奇跡の現れであるからだ。問題の一切は、この奇跡が持続的であるかどうかを知ることにある。「持続的ではない」と言ったとたん、シニカルで相対的な愛のとらえ方に落ち込んでしまうが、ポジティブな愛のとらえ方をしたいなら、永続する奇跡が存在すると主張しなければならない。愛の出会いは生における不連続性の象徴である。一方、結婚は連続性の象徴である。このことは哲学的かつ映画的な問いをつきつける。つまり、「分裂のなかにひとつの綜合を構築することは可能であろうか」という問いである。愛はつねに、<革命>と同じように、そしておそらく映画と同じように、この問題の特徴的な一事例なのだ……。映画が愛と似ている第二の理由は、映画が言葉の芸術ではないことである。

(⋯⋯)映画では言葉はきわめて重要ではあるが、本質的な要素ではない。映画は言葉の芸術であると同時に沈黙の芸術でもあり、感覚的なものの芸術なのだ。愛もまた黙している。愛のひとつの定義を提示してみるならば、「愛とは告白のあとに来る沈黙である」ということになろうか。「愛している」と言ったら、あとは黙るしかない。というのは、いずれにしても、愛の告白が[愛という]状況を創り出したからだ。沈黙へのこうした関係、身体の現前へのこうした関係は、映画で表現するのにうってつけである。映画はまた性的身体の芸術でもある。映画は裸体芸術だ。このことが映画と愛とのある親密な関係を創り出す。(アラン・バディウ『愛の賛歌 Eloge de l'amour』2016年)




人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)
愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛だけである、享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したもうのは(愛だけが、享楽が欲望に身を落とす(腰をかがめる condescendre )ことを可能にする)。  Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan,S10, l3 Mars l963)
愛は欲望の昇華である l'amour est la sublimation du désir(Lacan,S10, l3 Mars l963)
身体の享楽(=女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


ーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

ここでの記述における究極の「愛の対象」とは、もちろん「愛」である。

2016年8月11日木曜日

結果は原因に先立つ

抑圧は禁圧に先立つ」にて、次の文を引用した。

抑圧されたものの回帰は、過去からではなく未来から来る le retour du refoulé …… ça ne vient pas du passé, mais de l'avenir(ラカン、セミネールⅠ)

以下、もう少し詳しくみてみよう。

…………

まず序奏。

現象に立ちどまって、「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うだろう。いや、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ、と。われわれは、いかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理だろう。(ニーチェ『力への意志』)
真理は、判断や主張としての思考ではなく、現実界のなかの過程としての思考に従属されなければならない。(バディウ、On the Truth-Process by Alain Badiou,2002)
真理は哲学によって生み出されるものではなく、芸術とは、それ自体が「真理の過程[procédure de vérité]」 を体現するものである(Petit manuel d’inesthétique, « Lʼordre philosophique », 1998).

バディウの言っている《真理は、判断や主張としての思考ではなく、現実界のなかの過程としての思考に従属》するとは、フロイトの「夢の仕事」とほとんど同じ意味である、とわたくしは思う。

構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

さらにバディウの文に「現実界」 という用語が出てきたので、その起源のひとつのラカンの文、そしてジジェクの解釈ーーわたくしにとってはいまのところ決定版の定義ーーを掲げておこう。

《現実界は、形式化の行き詰りにおいてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation]》(ラカン、セミネール20)

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

※ラカン派内部でも異なった解釈があるのは、「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」を見よ。

…………

さて、冒頭の《抑圧されたものの回帰は、過去からではなく未来から来る》にて、ラカンは何を言いたいのか。

次のことを忘れないで下さい。フロイトは抑圧をまずは固着として説明します。しかし固着の時期、抑圧のようなものはなにもありません。狼男の抑圧は固着のはるか後に産出されます。

Verdrängung (抑圧) はつねに Nachdrängung (後抑圧) です。 さてこのとき、抑圧されたものの回帰 le retour du refoulé をどのように説明できるでしょう。たとえパラドクサルであっても、これを説明する方法はひとつだけです。それは過去ではなく未来から来ます。 ça ne vient pas du passé, mais de l'avenir

症状における抑圧されたものの回帰がなんであるかについて正しい考えをもつためには、私がサイバネティックス研究者たちから拾ってきたメタファーをもう一度取り上げなくてはなりません。これによって私は自分で発明することを避けることができます。なぜならあまりに多くの事柄を発明すべきではありません。

ウィーナー Wiener は、時間次元が互いに逆方向に向かう二人の人物を想定します。もちろん、これはなにも意味しません。かくして、なにも意味しないことが、突然なにかを、しかし別の領域で、意味します。一人が他者にメッセージ、例えば正方形を送ると、逆方向に向かう人物は、 正方形を見る前に、 まずは消えつつある正方形を見ることになります。

これをわれわれ (分析家も) もまた見ています。 症状はまずわれわれ分析家に痕跡 trace として提示され、これはあくまでも痕跡にすぎません。精神分析が十分進展し、われわれが その意味を実現するまで、つねに理解されないままでしょう。こう言うこともできるでしょう。Verdrängung は Nachdrängung(後抑圧)にほかならないのと同様、われわれが抑圧されたものの回帰のもとに見るものはなにものかの消されたシーニュle signal effacé であり、このなにものかは未来において象徴的実現 réalisation symbolique、その主体の歴史への統合によってのみその価値をとります。文字通り、それは成就のある時点で、aura été ものです。(ラカン、セミネール1巻「フロイトの『技法論』1954 年 4 月 7 日 より、保科正章試訳ーー、ただし一部変更)

ここでの鍵言葉は、象徴的実現 réalisation symbolique と aura été だろう(aura été は何と訳したらいいのか判然としないが、保科訳では仏文だけになっており、岩波書店版訳では「存在しているだろう」となっている)。

…………

次に、ラカンによる「抑圧されたものの回帰は過去ではなく未来から来る」の初期ジジェクによる解釈の一部(マイケル・ダメットの「結果はその原因に先立ちうるか 」(Can an Effect Precede its Cause?,Michael Dummett,1954)等に触れつつの)を掲げる。

ーーここでは仮に aura été ーージジェク英文では‟will have been”となっているーーの箇所を「そうなるであろう 」と訳した。


◆「イデオロギーの崇高な対象」1989 より

もし症状においてーーラカンが指摘するように--、抑圧された内容が過去からではなく未来からやって来るのなら、そのとき転移--無意識の現実の現勢化--は、我々を過去ではなく未来の中に移し向ける。

そして「過去のなかへの旅」とは何なのだろう、もしシニフィアン自体のこの遡及的な徹底操作・エラヴォレーション(練り上げ elaboration )でないなら?過去の幻覚的「演出 mise-en-scène」の一種、シニフィアンの領野、この領野においてのみ、我々は過去を変容させ過去をもたらしうるという事実の演出でないなら?

過去は存在する、過去はシニフィアンの同時的網目のなかに含まれ入り込んだものとして。すなわち、過去は歴史的記憶の織物のなかに象徴化されている。そしてこの理由で、我々は常に「歴史を書き替える」。諸要素を象徴的重要性に遡及的に付与し、新しい織物のなかに織り上げる。このエラヴォレーション、それが遡及的に「そうなるであろう aura été」ことを決定する。

オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットはとても興味深い二つの論を書いている。 (…)「Can an Effect Precede its Cause? (結果はその原因に先立ちうるか)」と「Bringing About the Past(過去を変える)」である。この二つの謎へのラカン派の答えは、〈可能だ yes〉である。というのは「抑圧されたものの回帰」としての症状は、まさにその原因(その隠された核、その意味)に先立つ効果だから。そして症状の徹底操作において、我々はまさに「過去を変える」。我々は過去の、長いあいだ忘れられていた心的外傷性出来事の象徴的現実 symbolic reality を生み出しうる…。(ジジェク、イデオロギーの崇高な対象、1989、私訳ーー手元に邦訳はないため)

※「徹底操作」概念については、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見よ

…………

柄谷行人にも、《原因は結果によって遡及的に構成されている》という記述がある。

カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考えーーすべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだーーに帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって」)

柄谷行人のこの文は、セミネール17のラカンの次の文と「ともに」読むことができる。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそう存在欠如としてあるものを顕す。

L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(S.17)

存在欠如という原原因ーー原動因とさえいえるーーは、言語の遡及的結果である、と。

もちろん、柄谷行人やラカンのむこうには、スピノザやニーチェの「遠近法的倒錯」概念があるだろう。マルクスもしかり→「括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク)

精神分析における状況に限っていえば、分析家と分析主体(被分析者)とのあいだの関係は、症状の意味は遡及的に解釈されるということであり、それが症状の真理は論理的には未来に発生するということの意味合いであるはずだ。

もっと一般的に次のようにも言えるだろう。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

あるいは、 《記憶とは、新しい事件に出会うたびに総体が大きく組み変えられる一つの生きものである。》(中井久夫『「昭和」を送る』)

上の文からもうかがいえるように、この現象は臨床的環境においてだけ起こるのではない。

たとえば文芸の領域で次のように言われる。

《おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。》(ボルヘス「カフカの先駆者」)

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)

もちろん、ここでドゥルーズ=プルーストの「純粋過去」を引用することもできるが、湯浅博雄の簡潔な叙述ですませておこう。

たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である〈私〉は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)

フロイトとマルクスにおける「形式」」で引用した柄谷行人の発言も、上に掲げた諸解釈の文脈のなかにある。

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

ジジェク、1989に、《転移--無意識の現実の現勢化--は、我々を過去ではなく未来の中に移し向ける》とあったことを思い出しておこう。それは柄谷行人の《ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように》に(ほぼ)相当する。

こういった観点に立てば、フロイトが生み出した概念の核心は「遡及性 Nachträglichkeit」(事後性)である(参照:静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成)。

フロイトが稀有の「哲学者」であったとの評価は、ラカンのフロイト絶賛期(50代まではおおむねそうだろう)の言葉を引用すれば次の通り。

人はフロイトは哲学者ではないと言う。私は気にしない。しかし私は、科学的エラヴォレーションに関するテキストで、フロイトのもの以上に哲学的に深遠なものを知らない。

On dit que FREUD n'est pas un philosophe. Moi je veux bien. Mais je ne connais pas de texte sur l'élaboration scientifique qui soit plus profondément philosophique.(S.2)

RICHARD BOOTHBYはやや過剰とさえ言える叙述でフロイトの哲学者側面を強調している(Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN、PDFーー序章だけのPDFだが読む価値はある。わたくしはジジェクの紹介によって知った。すぐれたラカン読みでもある(参照))。

私は議論したい、フロイトのメタ心理学の拒否は、その基礎概念の誤解を基盤にしていると。結果はフロイトの仕事における真の意味のとんでもない曲解であり、その真の根源性の把握失敗である。フロイトはメタ心理学への希望を叙述しつつ、こう言っている、《若いときに私が強く望んだ唯一のものは哲学的知だった。そして今、医学を経由して心理学に向かおうとしている。私は心理学を獲得する過程にある。》(1896,4月2日、フィリス宛て書簡)

メタ心理学は哲学へのフロイトの答えである。フロイトのメタ心理学拒絶の最も不幸な帰結は、メタ心理学が開いた概念的地平を切り詰めて、彼の思考の哲学的豊かさを喪失してしまうことにある。メタ心理学的視野の幅広い大鉈なくては、精神分析はたんなるエディプスと去勢のテーマで識別される対話による治療の一種にすぎない。(RICHARD BOOTHBY,Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)


たしかにたとえば「抑圧されたものの回帰」という言葉がいわゆる「インテリ」たちや研究者たちの口から漏れることがしばしばあるにしろ、なにも理解しているようには思えない。抑圧されたものの回帰とは、「抑圧されたもの」の真のメカニズムがわかっていなければ、ただの寝言である。

さて、一般的な「遡及性」の最もわかりやすい説明の一つとは、エクリにある次の文ではないだろうか。

このクッションの綴じ目(留め金)の通時的機能は、文のなかに見出すことができる。文はその最終のタームを待ってはじめてその意味形成に留め金をかける。それぞれのタームは、他のタームからなる構築物の中で先取りされているが、また反対に、その遡及的効果によってこれらのタームの意味を確定する。(ラカン、E.805)

Ce point de capiton, trouvez-en la fonction diachronique dans la phrase, pour autant qu'elle ne boucle sa signification qu'avec son dernier terme, chaque terme étant anticipé dans la construction des autres, et inversement scellant leur sens par son effet rétroactif. (LACAN,Subversion du sujet,1960,E.805)

この文を上に掲げたセミネール1 の réalisation symbolique と aura été の箇所とともに読めば、ラカンの言いたいことが判然とするはずだ。

われわれが抑圧されたものの回帰のもとに見るものはなにものかの消されたシーニュle signal effacé であり、このなにものかは未来において、象徴的実現 réalisation symbolique、その主体の歴史への統合によってのみその価値をとります。文字通り、それは成就のある時点で、aura été ものです。(S.1)

ジジェクの解釈を再掲すれば、次の通り。

過去は存在する、過去はシニフィアンの同時的網目のなかに含まれ入り込んだものとして。すなわち、過去は歴史的記憶の織物のなかに象徴化されている。そしてこの理由で、我々は常に「歴史を書き替える」。諸要素を象徴的重要性に遡及的に付与し、新しい織物のなかに織り上げる。このエラヴォレーション、それが遡及的に「そうなるであろう  aura été」ことを決定する。(ジジェク、1989)

《人は常に把握しなければならない、すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的に再構成する remanie rétroactivement ということを。》(ラカン、セミネールⅣ)



2016年7月17日日曜日

カレ見てると「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ

ふたたび、ゲーテのファウストの引用から始める(参照:「もし、美しいお嬢さん」)。

グレエトヘン(マルガレエテ)

今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う

ーーゲーテ「ファウスト」森鴎外訳


古典的な心理的メカニズムとはいえ、グレエトヘンの口からきけるとは、思いの外だった(若いころ、ファウストに一度目を通したことがないではないが、完全な飛ばし読みであり、なんの印象も残っていない)。

さて、ここでフロイトとプルーストを並べて、マルガレエテの言葉と「ともに」読んでみよう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」)

さらにニーチェをつけ加えてもよい。

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽であり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

さらに、権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

この論理をいっそう展開させれば、民主主義のもとではーーその首長選択の選挙形態や国民性などにもよるがーー、我々は最下級の権力者を見出して自ら安堵するという傾向をもつ(場合がある)という見解さえも納得的に読むことができる。

アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている。(コプチェク、Joan Copjec, Read My Desire. Lacan against the Historicists.1994)

これは主にロナルド・レーガンの事例を分析した叙述であり、コプチェクがここで言いたいのは、レーガンはまさに無能であるからこそ愛された〈王〉だったということだ。

ジジェクもレーガンやベルススコーニなどの例を挙げて、次のように記している。

(我々の時代において)直接的な野蛮性から「人間の顔をした」野蛮性への移行。ここで、「人間的、あまりに人間的な」指導者、ベルルスコーニという形象は決定的である。というのは、現在のイタリアは、我々の未来の実験工場だから。我々の政治的風景が、悲観的リベラルテクノクラシーと原理主義的ポピュリズムのあいだで分断されるなら、ベルルスコーニの「偉大な」成果は、この二つを統合したことである。彼は両方とも同時に捕えたのだ。

(…)古典的政治の尊厳は、市民社会における個別の利害の戯れを超えた「昇華」を基盤としている。すなわち、政治は、市民社会から「隔離されている」。政治は、中産階級を特徴づける私利私欲の相克とは対照的に「市民」の理想的地位として、自らを提示した。

ベルルスコーニは、この「隔離」を事実上廃棄した。現代イタリアにおいては、国家権力は、底に横たわる中産階級によって直接的に行使される。彼は、己れの経済的利益を保護するために、破廉恥で開けっぴろげに国家権力を食い物にする。そして、TV画面を眺める何百万の観衆の前で、下品な暴露ショーのスタイルにて、私的な結婚問題の汚れた下着を洗う。(……)

ロナルド・レーガン(そしてアルゼンチンのカルロス・メナム)は…「テフロン加工」の大統領であり、ポスト・エディプス的として特徴づけうる。すなわち、「ポストモダン」大統領は、もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない。したがって、批判に損なわれることはない(思い出そう、レーガンの人気は、ジャーナリストたちが彼の失策を列挙したことを受けて、公衆の前に現れるたびに、うなぎ上りになったことを)。

この新しい種類の大統領は、ナイーヴな高揚とほとんど無慈悲な不正操作を混淆させているように見える。

ベルルスコーニの下品な俗物性の賭金は、もちろん、彼が標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演する限りで、人びとが彼に同一化するだろうということだ。「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」。(…)

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている。ベルルスコーニの笑いはもっと不快で狂気じみた、バットマンやスーパーマン映画の敵役の笑いである。彼の支配の本質についての考察を得るには、『バットマン』に出てくるジョーカーが権力を持った場合を想像するべきだ。(ジジェク、ポストモダンの共産主義、2009、私訳ーー、一部、ネット上から拾えた箇所は、既存の訳を使用)

ーー《人びとが彼(ベルルスコーニ)に同一化する》とある。これは投影(投射)の考え方を主に言っている。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

もっともより精緻にーーラカン理論に依拠してーー言えば、次のような説明がなされる。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ( (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

ーーとはいえ、今はこの解釈に深入りすることはしない。 同一化には、取り込みと投影が混淆しているということをここでは示しておくだけにする。

さて、象徴的同一化の場合、その同一化の対象(人物)は、必ずしもすぐれた対象である必要はない。《そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような》対象であることが肝腎な場合が多い。

グレエトヘン(マルガレエテ)は、《余所の娘が間違でもすると、わたしもどんなにか元気好くけなしただろう》と言っていた。そして、《人のした事が黒く見える。その黒さが足りないので、一層黒く塗ろうとする。そして自分を祝福して、えらい人のように思う》ともあった。

ここにも《余所の娘》との象徴的同一化と類似したものがある、とわたくしは思う。それは一般に語られる同一化とはやや異なるが、いわば「憎むことを愛する」のと似たような機制が働いているはずだ。

フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

フロイト起源の一般的な同一化のメカニズムは次の通り。

ーーここで先にフロイトは《同情は同一化から生まれる》(『集団心理学と自我の分析』)と瞠目することを言っているのを思い出しておこう。すなわち同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する。とすれば、「憎むことを愛する」のは、同一化から生まれるとさえいいうる。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字“r”を発音する風変わりな仕方があり、そしてわれわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の密かな恋の危機の瞬間に現われた特徴に同一化する形である。(ジュパンチッチ、WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)PDFーー享楽とシニフィアン

いずれにせよ、人は、ベルルスコーニやレーガンが醜悪さを曝すとき、一介の市民に過ぎない自分が彼らよりも《えらい人のように思》えて、心地よく感じたり安堵したりする場合があるのではないだろうか。そうして(ときに)親近感が生まれる。さらに俗物ーー「人間的、あまりに人間的な」ーーであるからこそ愛される指導者になる場合があるのではないだろうか。

そこからニーチェの言っていることへは半歩しかない、《権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」》と。

さらにはベルススコーニの「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」という状況に遭遇すれば、一般市民たちは自らの否認された悪を彼に投影してスッキリし、残余の誠実な自分を《祝福して》、いっそう《えらい人のように思う》ことがあるのではないか。

これは次の心理的メカニズムの変奏である。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

マスコミに集中砲火を浴び、苦境に立つ「被害者」ーーそれは脳軟化症的であったり、破廉恥な道化師であったりするだろうーーの厚顔無恥な弁明に同一化することにより、自らのはしたなさを束の間にしろ忘れることができる「幸せ」に浸りうるということはないだろうか。

あるいは自らのかかえる首長が、我々の仲間のうちのひとりにすぎないのなら、ある種の権力欲が満たされることはないだろうか。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。(中井久夫「いじめの政治学」)

ところでベルルスコーニは、《標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演》した人物とされているが、標準的な日本人の神話的イメージとはなんであろうか。

曖昧模糊とした春のようなイメージ、空気を読みつつ、「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)の、「おみこしの熱狂と無責任」な人物像(中井久夫)、「事を荒立てるかわりに、『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」共感の共同体の「土人」(浅田彰)等々か? それとも単純に「反知性主義者」と言ってしまえばよいのか。

安倍晋三さんはバカだ。しかもただのバカではなく病気である。…しかし、彼が首相の座にいるのは、私たち自身が病気だからである。(小出裕章 2014.0202)

 ーーカレ見てると、「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ・・・

レーガンの場合と同じように、ポストエディプス的な首相は、《もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない》。これも我々は最近、消費増税の約束をあっさり反故にするさまを見た。

我が国の首相のあり方は、もちろん米国やイタリアとは異なる。こうやって単純に精神分析的観点を導入することをきらう人もいるだろう。だが、精神分析などとはいわず、古典的なーーマルガリエテ的なーー心理学のメカニズムと類似した現象はその多寡はあれ到るところで働いているには相違ない(そうでなかったら、なぜ内閣支持率が50%を超えたままであり続けるのか)。

(※もちろんシルバーデモクラシーのせい(彼らにとって当面の日常的安定を一見約束してくれそうな政権支持)とか、《こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。/ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。/もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです》(「これほど異常な民主政国家は見たことがない。」ーーニューヨーク・タイムズ東京支局長)等の議論を知らないわけではないが、ここでは、それを除外しての「心理学的な」記述である。)

しかも現在は、ゲーテの時代とは異なり、ポストエディプスの時代である。その時代にさらにつけ加わる政治的指導者の「標準的」特質とはなにか?

ジャック=アラン・ミレールが、ジャック・ラカンのエラスムス的調子、『痴愚神礼讃』の調子をもって言った「みな狂人だ、みな妄想的だ」(参照)。これは、みな精神病的であることを意味しない。そうではなく、このすべては、21世紀における我々の現代的調査、すなわち、精神病とは、我々にとって何を意味するのかの問いである。

それはちょうど、精神病のふつうの地位が、普遍的な拡がりを持っていることを意味しないのと同様に、我々は精神病的主体から引き出した教訓は、「父の機能」が消滅したわけではないことだ。父の機能は残っている。変形されてはいるが。

父はいる。よりふつうの位置の父が。ラカンはこの父を次のように呼んだ。まだ「ウケる(épater)」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父と。彼は「例外」を構成する者だ。我々を驚かす能力がある者だ。ジャック=アラン・ミレールは、これを示す例を取り上げている。現代の政治家は、それが道化師の機能のようであってさえ、印象づけようと奮闘している、メディアやコミュニケーション産業に囚われつつ、印象づけようと努めている、と。もちろん、これは正しい仕方でなされなければならない。(エリック・ロラン,2012(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM ーー「ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代」)


もちろん、民主主義において、つねに「不能な他者」や「道化親父」ばかりを選ぶわけではないだろう。

たとえばマイノリティー出身(黒人、女性、移民等々)の首長を選べば、庶民的な正義感は満足させられるということがある。これも選択肢のうちのひとつである。

すなわち、その首長から見れば、〈私〉は《愛するに値するように見えるような》存在となることができる。反差別主義者としての誠実な〈私〉にうっとりしてしまう・・・

その〈私〉が、見せかけだけの反差別主義者だったらなおさらだ。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面“pro-feminist” PC surfaceをちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

ここで唐突にーー飛躍するが長くなりすぎるのでーー、もう一度こう強調しておこう。

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている

この数年反安倍で奮闘してきたはずのリベラルインテリ諸氏たちは、現在、なにかにハメられてしまった気はしていないのだろうか・・・

…………

さて、だが現在の民主主義において、さらにいっそう「根源的な」問いかけがある。

マルクスは、ヨーロッパの議会制民主主義の黎明期に、所見を述べた。この制度によって選ばれた政府は、たんにーー彼曰く--「資本の力に基づく」ものだ、と。しかしこれは、現在のほうがかつてより、はるかにいっそう真実だ! 民主主義が代表象 representationであるなら、何よりも先ず、全体的システムからの来る形式の代表象である。言い換えれば、選挙による民主主義は、資本主義ーー今日では「市場経済」と改名されている--の合意の上の代表象より以上の多くのものを代表象しない。これが底に横たわる腐敗である。(バディウ、Democracy and corruption: a philosophy of equality, by Alain Badiou、2014)

このバディウの文は、2014年に記されたもののようだが、彼は以前から似たようなことを言っているのだろう、ジジェクの『ポストモダンの共産主義』2009にもほぼ同じ内容のバディウの引用があり、 次のようなコメントを付している。

バディウは、民主主義における腐敗の二つのタイプ(むしろ、二つのレヴェル)のあいだの区別を提案している。すなわち、事実上の経験的腐敗、そして民主主義のまさに形式に付属する腐敗。後者は、政治を私的利益の交渉に格下げすることを伴っている。

このギャップは次の「稀な」事例において明瞭になる。すなわち、誠実な「民主主義的」政治家が、経験的腐敗に対して闘っていながら、それにもかかわらず、腐敗の形式的空間を支えているという事例だ。(ジジェク、2009)

ここで言っているのは、《要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く》(Levi R. Bryant PDF)ということだ(参照:きみたちの「燻製ニシンの虚偽」)

こうして、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)という「挑発」につながってゆく(参照:民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)。

現在の民主主義とは、バディウ=マルクス的にいえば、《政治を私的利益の交渉に格下げする》(ジジェク)という資本の論理の母胎の上で成り立っている。これはややわかりにくいかもしれない形で、「現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」で記したことでもある。

不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。マルクスが大昔に指摘した通り、秘密は形式自体にある。(ジジェク、2009ーー人間の顔をした世界資本主義者たち


2016年2月23日火曜日

固有名とマナ(柄谷行人とラカン派)

以下、主にメモ。

【固有名とEinheit(差異の統一)】

言語において、固有名と「この」のような特権化された指標は、Einheit (差異の統一性、単一性:カント)の予定調和的 pre-established 形式である。それらは主体を「一」として数えcount as one、残りの叙述 proposition にふさわしい両一義的 bi-univocal な関係にとっての蝶番(旋回軸 pivot) を提供する。 (Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF)


固有名と単独性】


……私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性this-nessを単独性singularityと呼び、それを特殊性particularityから区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。(柄谷行人『探究Ⅱ』


 【固有名と一の徴】

ラカンのセミネールⅨ(同一化)における「A は A ではない」が意味するのは、A はそれ自身と同じではない、ということだ。あるいは、よく知られたラカンの言い方なら、A は棒線が引かれている(Ⱥ)、ということである。間違えてはならないのは、A は実際には B だとラカンは言っているのでは決してないことだ。もっと正確に言えば、「一の徴 unary trait」としての文字は、「一」として counts as one 数えるが、それは一つの「一」ではない not a one、ということである。
ラカンの固有名の理論とエクリチュールの理論は、固有名の真の性質は、いかに「一の徴」としての「文字」であるかを示すことを目指している。それは、書かれた徴から分離できない。固有名は、バートランド・ラッセルによって提案された定義‘word for particulars'(個別なものを描写なしでそのもの自体として示す言葉)としては理解できない。(Lorenzo Chiesa,ount-as-one, Forming-into-one, unary trait, s1,2006,PDF

ーーと三人の論者の文を並べたが、ここでまず、Guillaume Collettの文章をもう少し続けよう。


【「一の徴」 trait unaire と「一として数えること」compte-pour-un】

……「一の徴」は、いまだシニフィアンとなってはいない独特の印 mark である。というのは、他の諸シニフィアンとの統語的 syntactical 関係に入っていないから。「一の徴」はそれ自体、フレーゲ的な意味で、プレ数的なものである。

興味深いのは、ラカンが「一の徴」とカントのEinheit を明示的に比較していることだ(Lacan, Seminar IX. L'identification , lesson of 7/3/1962)
対象Xは、…カントが、起源の統覚、あるいは Einheit (単一性 unicity)と呼んだ超越論的主体の機能である。バディウはこれを、多様性 manifold を「一として数えること counting-as-one」と定義した。(Guillaume Collett、2014)

※フレーゲ=Guillaume Collett、2014のいくらかは、「ゼロと縫合 Suture」を参照。

ここで、Guillaume Collettは、ラカンの 「一の徴」trait unaire (つまりは、フロイトの「ein einziger Zug」)、 バディウの「一として数えること」compte-pour-un 、カントのEinheit、あるいは超越論的統覚Xなどを殆ど同じものとしていることになる。

バディウの概念である “count-as-one [compte-pour-un]” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 一の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 ,Lorenzo Chiesa)

ーーcompte-pour-un( 「一」として数えること)については、「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の末尾近くにいくらかの引用がある(仏原文のままだが)。

たとえば、

compte-pour-un

«…… que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement,)

mise-en-un

« la mise-en-un du nom du vide »

l'Un n'est pas(opération)

« Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. »


それ以外に、ジュパンチッチのバディウ論が、あまりにも明晰ですばらしい(同じリンク先にある)。それは、次のような文で始まる。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口 major breakthrough だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「非-関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、 表象のまさに裂け目である。

ーーわたくしが今こうやってメモしているのも、この文に巡りあったからだ。

…………

さて、Guillaume Collettの文に、《対象Xは、…カントが、起源の統覚、あるいは Einheit (単一性 unicity)と呼んだ超越論的主体の機能である。バディウはこれを、多様性 manifold を「一として数えること counting-as-one」と定義した》とあったが、柄谷行人の解釈するカントの超越論的統覚Xとはなんだったか。以下、『トランスクリティーク』2001からである。


【自己・貨幣・アソシエーションと超越論的統覚X】

カントは……、自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(P.24)
デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(p132)
アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(P.283)
貨幣は、たんに価値を標示するものではなく、それを通した交換を通して、すべての生産物の価値関係を調整するものだ。したがって、貨幣は全商品の関係体系の体系性として、すなわち、超越論的統覚 Xとしてある。貨幣は仮象であるとしても、いわば超越論的仮象である。それをたんに否定しても、別の形で必ず残るのだ。市場経済においては、貨幣が実体化されてしまう。すなわち、貨幣のフェティシズム、そして、貨幣の自己増殖としての資本の運動が生じる。というより、ブルジョア経済学者は、それが資本の運動の所産であることを隠蔽した上で、市場経済の優越性を論じているのだ。にもかかわらず、資本に転化するからといって、こうした貨幣による市場経済を廃止してしまえば、元も子もなくなってしまう。かといって、市場経済を認めつつそれを国家によって制御していこうという社会民主主義には、資本と国家を揚棄するという展望などまったく存在しない。彼らは貨幣を「中立化」するが、けっしてそれを揚棄することを考えないのだ。(P.435)

カントの[差異の統一性・単一性」(Einheit)、ラカンの「一の徴」trait unaire、主人のシニフィアンS1、バディウの「一として数えること」compte-pour-un などがすべて、全く同じものとするほどにはわたくしは充分に理解できていない。おそらくそれぞれ微妙な差異があるのだろう。

だが、すべて、ラカンの「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)、あるいはミレールによって形式化されたラカンの「縫合 Suture」にかかわることはたしかだ。


【「主体の関係」と縫合】


縫合 Suture とは、主体の「言説の鎖」に対する「主体の関係」の名である。…それは、替え玉(代役 [tenant-lieu])の形式にて、欠けている要素として形象される。欠けているとはいえ、純粋に・単純に不在ではない。拡張して言えばーー「構造」に対する「欠如」の一般的な関係について言えばーー、縫合は要素の性質を持っている。それが、代役 [tenant-lieu]の場を意味する限りにおいて。(ミレール『縫合』ーーゼロと縫合 Suture

かつまた、「バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)」や「クッションの綴じ目と社会的縫合」などで見たように、レヴィ=ストロースのマナ=浮遊するシニフィアンにもかかわることもたしかだ。


 【ゼロと浮遊するシニフィアン】

われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 
……すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性(必要性)を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(レヴィ=ストロース)。

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(レヴィ=ストロース)。ーー(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳

マナ、すなわちゼロ記号である。


【マナとゼロ記号】

「ゼロ記号」は数学におけるXのように意味の不定値を表す働きをする。(……)

その独自の機能は、シニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めること、あるいはより正確にいえば、(……)シニフィアンとシニフィエの間の相補関係が損なわれて、両者のあいだに不整合な関係が生じていることを徴づけることである。(浅利 誠「レヴィ・ストロースとブルトンの記号理論」ーー「マークつきの空虚=マナ」との同一化

柄谷行人のゼロ記号の捉え方は次ぎの通り。


【超越論主観とゼロ記号】

……「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。

《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、……1971)。

このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。

《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。

レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。

だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.119-121ーー「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」)

これらのマナ、浮遊するシニフィアン(ゼロシニフィアン)、超越論的統覚X、主人のシニフィアンなどを、けっして超越的シニフィアンとして捉えてはならない。そうではなく、超越論的シニフィアンなのであり、それは決してシニフィアンを統括する超越神審級にあるのではなく、超越論的な場(横にずれる場、アンチノミー)にある。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

さて、ここで少し目先を変えて、プルーストと固有名をみてみよう。

《固有名詞は、いわば無意識的記憶の言語のかたちである。したがって、『失われた時を求めて』の執筆を「始動」させた(詩的な)事件とは、まさに『名前』を発見したことなのである。》(ロラン・バルト『新 = 批評的エッセー』所収)

恋人同士がニックネームで呼び合うカップルを思い起してもよい。それは場合によって愛のマナとして機能する。

実際、作家が固有名詞を案出するときは、プラトンの言う立法者が普通名詞を創出しようとするときと同じ動機づけの規則にしばられる。(ロラン・バルト『プルーストと名前』)

ーーバルトは、「立法者」という言葉を出すことによって、ラカンの主人のシニフィアンや父の名概念を想起していたに違いない。


【固有名と縫合】ーープルーストの「象形文字 hiéroglyphes」より

プルーストにおける「名前」は、あらゆる場合に、ただそれだけで辞書のある項目全体の等価物である。ゲルマントという名前は、思い出や慣用や文化がそこに含ませうるものをすべて、ただちにつつみこむ。(ロラン・バルト「プルーストと名前」P.81)
たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.8-9)


【主人のシニフィアンと縫合】

S1はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)ーーラカンの言葉遊び、エスアム→ S1ーーがある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility 、2006,私訳)


【超越論的マナ】

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))

…………

【原抑圧と一の徴】

ーーーラカンセミネールⅨ『同一化』より

さて、現実の機能が知覚の機能に結び付けられているこの世界においてはやはり思考の同一性という道によってしか知における進歩を望むことはできない。このことはわれわれにとって逆説ではないが、逆説的なのはフロイトのテクストにおいて、無意識が探し求めるもの、無意識が欲するもの、無意識の活動の根底にあるものは知覚の同一性であるということを見出すことである。このことは次のことを意味しないならば文字通り何の意味もないであろう。つまり、無意識と自らの固有の回帰様式において無意識が探し求めるものとの関係は、まさに一度知覚されたものがまったく同一なものとしてあるということ、その時の知覚、たとえば一度指輪を通したときの最初のあの感覚を取り戻すということなのである。そしてそれはまさに永遠に失われたものなのである。というのは原初のシニフィアンに答えるすべてのものの再出現には、このシニフィアンを代理表象するものが何であれ、 原初のシニフィアンの最初の出現の唯一の印trait unaireが欠けているであろうからである。
原初のシニフィアンは、問題になっている原抑圧のなにかが無意識的存在、無意識である内的秩序における反復的主張に移行する瞬間に一度現れるのである。主体は外世界から何かを受容し、そしてそれを拘束しなければならず、それを拘束するにおいてシニフィアン的形態で拘束するゆえにその差異しか受容できないのである。それゆえに、無意識の主体を特徴づけるのは知覚の同一性の追求であるが、主体は知覚の同一性の探求に満足を得ることができないのである。 (ラカン、同一化、向井雅明試訳)

《固有名は、本来の象徴的なものというよりは、文字にいっそう近い。固有名は、「一つの徴」に接近する。その操作 operation を繰り返すことにより。そのカウントの内-差異を繰り返すことにより。そして、このようにして、言語構造、シニフィアンの差分的音素の鎖の一貫性を支える。》(Lorenzo Chiesa、2006)

ーーここにある操作 operationという言葉に注意をしておこう。

バディウ、Badiou, L'être et l'événementより。

« Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. »

« un pur ‘il y a' opératoire »


…………

※附記

【サントームと縫合】

ラカンの晩年のサントーム概念も主体の縫合にかかわる。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。かつまた、ラカン流のエディプス理論であり(参照:エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論)、敢えていえば、紆余曲折した上での最晩年のラカン理論のマナである。

精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

《サントームsinthomeとは、最近、症状symptômeと綴られるようになったものの古い書記です。》(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)


かつまた、サントームは、音の上では saint homme : 聖なる人間,つまり聖人と同音である。そして、さらには、聖トマスSaint Thomas をも想起させる(ポール・ヴェルハーゲ)。聖トマスとは、〈大他者〉――キリストーーを信ぜず、独自の道を歩んだ者だ。

これだけではなく、たとえばsin-homme(罪の人)、synth-homme,(模造人間、人工的に自己-創造した人間)などを提示する論者もいる。

ーーどうして、これらの語彙群から、サントームをマナ(ラディカル化されたマナ)としていけないわけがあろう(参照)。しかも、サントームという語自体が、浮遊するシニフィアンである(バディウ曰くの、多様性 manifold を「一として数えること counting-as-one」だ)。

…………

※参考

「この私」における「この」は、何も指示しない。それにしても、「この」は何かを指示するといわねばならない。それはたんに私と他者の差異(非対称性)を指示するのだ。というより、この差異が他者を他者として、私を私としてあらしめるのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』「第一部 固有名をめぐって」P.18)
象徴秩序(「他」)、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、「一」One を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。

システムと しての象徴秩序(「他」)は、差異をもとにしている(ソシュール参照 )。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。それは、一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に「一」と「非一」である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。……(ポール・ヴェルハーゲ、2001,私訳)


柄谷行人は、固有名が、何も指示しないが、「私と他者の差異(非対称性)」を指示する、としている。

ヴェルハーゲは、ファルスのシニフィアンは空虚であるが、「一」と「非一」を作る、としている。

ーーラカンの象徴的ファルスや父の名、主人のシニフィアンS1は、少なくともある時期から(セミネールⅥ以降から)、同じものである(参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって)。

象徴秩序という「他」 l'Autre」を「一」l'Un の介入によって、私と非私を作るのが、(まずは)固有名、あるいは「私」という主人のシニフィアンの機能であるといってよいだろう。

……「私」といい「世界」といっても、真実は「私/世界」という、不可分のものを指しているのである。それは、ウォーコップ/安永浩のいう意味における「パターン」である。不可分なだけでなく、「私」があって「世界」があるのであり、「私」という概念が「世界」に優先する。「非-私」として「世界」を定義することは可能だが、「非-世界」として私を定義できない。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収 p.26)

ラカンはセミネールⅩⅦの冒頭近くで、主体が発生する以前に存在する S2 を語っている。

Nous considérons désignée par le signe S2 la batterie des signifiants, de ceux qui sont déjà là.Car au point d'origine où nous nous plaçons pour fixer ce qu'il en est du discours… du discours conçu comme statut de l'énoncé …S1 est celui qui est à voir comme intervenant, intervenant sur ce qu'il en est d'une batterie de signifiants que nous n'avons aucun droit, jamais, de tenir pour dispersée, pour ne formant pas – déjà - le réseau de ce qui s'appelle un savoir.

一見、中井久夫の叙述と違和があるようにみえる、--《「私」があって「世界」があるのであり、「私」という概念が「世界」に優先する》。だが、中井久夫の表現は、鉤括弧による「私」であり、主体のことだ。誕生後の乳幼児は、いまだ「私」ではない。

これをポール・ヴェルハーゲは、英訳のセミネールⅩⅦの解説文(2006)において、ほぼ次ぎのように解説している。以下、摘要であり、仏語をつけ加えたり要約したりしている。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。(ポール・ヴェルハーゲ、 Enjoyment and Impossibility、2006).


2016年2月18日木曜日

ゼロと縫合 Suture

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《横棒barreの機能はファルスと関係ないわけではない》“la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus.” (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)

ここでの横棒とはソシュール図式の横棒である(参照)。



かつまた、ファルスΦとは、主人のシニフィアン S1、かつまた S(Ⱥ)などでもありうる(参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

そしてファルスとは、「ファルス化された」対象aのことでもある。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]ーー「享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)」)

…………

さてここからが本題である。

フレーゲはゼロを「それ自身と同じでないもの」と定義した。ジャック=アラン・ミレールはそれを「ゼロ概念」と呼ぶ(『Suture(縫合)』)。世界にはそれ自身と同じようでない対象はない。しかしながら、集合論においては自明の考え方ーーそこでは空集合があるとする(空集合、すなわち要素をひとつも含まない集合Φ)ーーとは異なって、フレーゲの数学的論理においては、「それ自身と同じでないもの」という概念は、ひとつの対象を包含する。それはゼロ数字自身である(いま我々は考えることができる、ミレールが言うところの「ゼロ概念」を)。このようにして、ゼロ数字はこの概念に割り当てられる。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

フレーゲは同一性の定義として、以下のライプニッツの定義を採用している。

《Eadem sunt, quorum unum potest substitui alteri salva veritate.》[真理をそこねることなく一方が他方に代入可能であるものは同一である ]

…………

以下、「“The first great Lacanian text not to be written by Lacan himself” – Reading Miller’s ‘Suture’」より(上の文同様、ほとんど初山踏みなので、原文を必ず参照のこと)。

縫合 Suture とは、主体の「言説の鎖」に対する「主体の関係」の名である。…それは、替え玉(代役 [tenant-lieu])の形式にて、欠けている要素として形象される。欠けているとはいえ、純粋に・単純に不在ではない。拡張して言えばーー「構造」に対する「欠如」の一般的な関係について言えばーー、縫合は要素の性質を持っている。それが、代役 [tenant-lieu]の場を意味する限りにおいて。(ミレール『縫合』)

《「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。(……)ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって(……)構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー要素と構造


もし、シニフィアンのアイデンティティが、その一連の構成的差異以外の何ものでもないならーー例えば、「昼 day から夜 night」 、ここにおいて、一つのシニフィアンは、「それがそうではないもの what it is not」の対立においてのみ定義されるーー、全てのシニフィアンの連鎖 series は、一つの再帰的-反射的シニフィアン a reflexive signifier によって補わなければならない supplemented ーー「縫合 suture」されなければならない--。この再帰的シニフィアン自体は、いかなる確定した意味もない(シニフィエされることはない)。というのは、それは、意味の現前自体、その不在に対立したものとしての意味の現前の代わり「のみ」を表すからだ…。したがって、どのシニフィアンの領野も、補充的な supplementary ゼロシニフィアンによって「縫合 suture」されなければならない…。このゼロシニフィアン(再帰的シニフィアン)は「純粋状態のシンボル」である。すなわち、どんな確定した意味も欠けており、その意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。(Zizek in Hallward, p.150-151).

※「それがそうではないもの what it is not」とは、おそらく、バディウの l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにかかわる(参照)。

徴示する鎖 signifying chain の一つの連結 link から別の連結に於いて、ひとつのシニフィアンは、他のシニフィアンに対して、「自己アイデンティティ」あるいは「場」の本質的な欠如ーーすべて主体としての主体の表象にかかわるーーを表象し、設置し、あるいは縫合する。(Hallward, p.50).

《「ゼロ」に対して「一」を代替する「原隠喩」は、「継起的進展の換喩の連鎖」にとってのモーターである。同様に、ゼロは、不在(ゼロ概念)と数(計算可能な数としてのゼロ、ゼロの「固有名」としてある「一」)とのあいだを縫合するものとして働く。これが、ラカンが「一の徴」trait unaire と呼んだものであり、フロイトが「ein einziger Zug」にて示したものだ。この「一の徴」は、「他(者)」の領域の外部にあるもの(主体)と、「他」の領域の内部にあるもの(徴示する鎖 signifying chain)とのあいだを縫合する。 》

…………

ーーこの最後の無署名の文を信用すれば(素直に読めば)、ゼロは「一の徴」のことであり、「縫合」にかかわる。他方、ジジェクの文には、ゼロシニフィアンが「縫合」作用をもつ、とある。

とすれば、ゼロシニフィアン=「一の徴」なのだろうか。このあたりを正確に理解するためには、フレーゲを読まなければならないようだが、解説書のたぐいでも数頁でメゲルーー。

・フレーゲ曰く、《唯一概念のみである、限定的な仕方でその概念に該当するものを孤立する概念、そしてその概念を部分へと恣意的な分割を許さない概念のみが、有限な数にかかわるひとつのユニットでありうる》。これはマイケル・ダメットの解説によれば、フレーゲにおいて、概念による対象の「包み込み subsumption」(包含、包摂)は、いまだ対象ではないもの(‘this is darker/bigger/smoother than that')のあいだの proto-relations (原関係性)を比較することによって、そして相似-差異の集合を対象の数あるいはアイデンティティへと分化することによって生じる。

・概念と対象は、概念と対象の多量均等性 equi-numerousness を基盤として、両一義的な bi-univocal 関係に入る。

・ペアノの公理に従って、フレーゲは三つの基本的な数を定義した。ゼロ、一、後者(successor)である。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

そして、Guillaume Collettによれば、上に記したフレーゲのゼロの定義に引き続く「一」と「N+一」の定義が肝要らしいが、この文は訳す気にさえいまだならない。いつかなるかも疑わしい。

1—The passage from 0 to 1 is a counting-as-one of the zero. From the number one we automatically have the concept of the number one. To the concept of the number one is assigned the number two, since the concept of the number one subsumes two objects: the zero-object and the number one (which we have seen is the number zero considered as one object, the zero-object).

To the concept of the number two is assigned the number three, and so on. All numbers are thus com-posed solely of zeros, of single counts of the zero-object, and the number one is the conceptual operator of all bi-univocal relations (it presides over the one-to-one mapping of elements found in contiguous sets).

counting-as-oneとバディウ概念のcompte-pour-unとはおそらく同じであろう。

«…… que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement)


N + 1—We thus always have object (n-1), concept (n), number (n+1), in this ascending numerical sequence. The number three (+1) is assigned to the concept of the number two (here n=2) which subsumes three objects: the concept of the number one (1 object), the concept of the number zero (1 object), and the zero-object itself (which is not an object, -1). The number three is an excess (+1) of a number because it counts the zero-object as an object when it really is a number (making the zero-object a lack (-1) of what it was counted as). Therefore, if all objects are nested collections of collections (of zeros) there is no such thing as an object, only the counting-as-one of the zero-object.


こられの文から、アンコールのラカンのハチの巣l'essaim(エスアム→ S1)の記述を思い出さないわけではない。

…ce S1 que je peux écrire d'abord de sa relation avec S2, eh bien c'est ça qui est l'essaim.

S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )ーーー("Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

…………

以上は、(近い将来のための?)資料として置いておき、ここではごく「標準的な話」を記しておこう。

シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」とは、いわゆる主人のシニフィアンS1でもあり、ラカンの「一の徴」unary traitの一種でもある。

《C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître》 (ラカン、セミネールⅩⅦ、p.323ーー「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)

「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳)


《S1はどんなシニフィアンでもいい》(セミネールⅩⅦ、原文

S1はシニフィアン「一」から来る、その格言「「一」のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの巣)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (ポール・ヴェルハーゲ、 Enjoyment and Impossibility、2006).

「一」のシニフィアンとは、たとえばシニフィアン「私」のことである。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
「私」を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

もちろん、我々の名前(固有名)も、「一」のシニフィアンだ。


ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを記している。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。


象徴秩序(「他」)、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、「一」One を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。

システムと しての象徴秩序(「他」)は、差異をもとにしている(ソシュール参照 )。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。それは、一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に「一」と「非一」である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。……(ポール・ヴェルハーゲ、2001,私訳)


たとえば、ラカンは次ぎの文で、「一」・「他」・「a」と三種類あるものを、実際は、二つ+「a」だとしている。そして、この二つ+「a」は、「a」の観点からは「一」+「a」と。つまり、ここでは「一」 l'Un と「他」 l'Autre を同じものとして扱っているように、わたくしには読める。

En d'autres termes ils sont trois, mais en réalité ils sont 2 + (a), et c'est bien en ceci que ce 2 + (a), au point du (a), se réduit non pas aux deux autres mais à un « Un +(a) ».

Vous savez que là-dessus j'ai déjà usé de ces fonctions pour essayer de vous représenter l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre, ce que j'ai déjà fait en donnant à ce (a) pour support le nombre irrationnel qu'est le nombre dit « nombre d'or ».

C'est en tant que du (a) les deux autres sont pris comme « Un +(a) » que fonctionne ce quelque chose qui peut aboutir à une sortie dans la hâte.

Cette fonction d'identification, qui se produit dans une articulation ternaire, est celle qui se fonde de ceci que en aucun cas ne peuvent se tenir pour support deux comme tels, que entre deux, quels qu'ils soient, il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un » (ラカン、アンコール)

とすれば、ある観点からすれば、「一」 l'Un と「他」 l'Autre とは同じものなんだろうか? (わたくしは今、 l'Autre を「他」としているが、いわゆる「大他者」、「大文字の他者」のことである。)

わたくしの単細胞な頭は、「一」S1とは「他」に(あるいはこの「世界S2」に)横棒するものだという、ひどく単純な理解を今のところしている?(そしてそこから逃れるものが、ファルス化されていない対象aだ、と)、とはいえ、まさかそんなシンプルなものではないだろう、と疑う心持は捨てていない・・・(わたくしは(笑)と記すのはあまり好きではないので、三点リーダーで代用する癖がある)。

いずれにせよ、漢字の「一」という横棒の形象はなんと奥深いのだろうと感嘆することしきりである・ ・ ・(こちらの三点リーダーは、上の(笑)の三点リーダーとは形象がことなる。ファルス化されていない三点リーダーでありうる、あのニーチェが使用した・ ・ ・)

そして世界に横棒をするものとしての「一」をなんとか次ぎの文につなげたい、という心持でいっぱいなのだが、どうも最近脳軟化症気味で、単細胞の頭はいっそう運びが悪い・・・

…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。

発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。

注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。

快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。(ポール・ヴェルハーゲ 、Sexuality in the Formation of the Subject、2005、原文

ーーーたぶん、容易にはつながらないだろう・ ・ ・

ところで、ジジェクもラカンの「波打ち際littorale」という言葉を取り出して、次ぎのような横棒の話をしている。

二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ジジェク、2012)


さて、話を元に戻せばーーつまり、「一」 l'Un と「他」 l'Autre の話だが、ジジェクは同じ著書の別の章で、類似した内容を語りつつ、「一」といったり「他」といったりしている。

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

ラカンの ISR の三幅対に従い、(存在する)「他」は、想像界的「他」(自我の鏡像イメージ)、象徴界的「他」(無名の象徴的秩序、真理の場所)、そして現実界的な「他」 (「他」-〈モノ〉の深淵、〈隣人〉としての 主体の深淵)の三通りありうる。

“「他」はない” は次のように読み得る。「他」には欠如あるいは穴がある(喪われているシニフィアン、「他」は例外を基盤としている)。「他」の非一貫性(非全体としての「他」、相反しそれ自体として全体化され得ない「他」)。あるいはシンプル に「他」のヴァーチャルな特徴の主張(象徴的秩序は現実の部分としては存在しない。 それは、社会の現実における我々の行動を規制する観念的な構造である)。

この「アンチノミー」の解決法は、二重化された式によって提供される。すなわち、“「他」 の「他」はない”。「他」は、それ自身に関して「他」である。これが意味するのは、「他」の内にいる主体それ自身の脱中心化である。実際、主体は脱中心化されて いる。その真理はそれ自身の深みにはない。主体が囚われている象徴秩序の網、主体が 究極的にその効果である象徴的秩序内の「そこから外にある」。

しかしながら、象徴的「他」ーー主体が、その内部に構成的に疎外されている(同一 化している)ーーは、十全には実体的領域でない。そうではなく、それ自身から分離されているのだ。すなわち、不可能性の固有の点の周り、ラカンが指摘した外-親密 ex‐timate の核の周りに構成されている。この外-親密 ex‐timate のラカンの名は、もちろん対象 a、 剰余享楽、欲望の対象ー原因である。

このパラドキシカルな対象は、「他」の内部で、一種のバグや欠陥として機能する。その十全な現勢化への内在的な障害物として機能するのだ。そして主体はこの欠陥のただの相関物である。すなわち、欠陥なしには、主体はないだろうし、「他」は、完成され滑らかに動き回る秩序となるだろう。ここにあるパラドックスは、「他」を不完全にし、非一貫的にし、欠如を与える等の、その欠陥自体が、まさに「他」を「他」にするの であり、別の「一」に帰し得ないのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)


いずれにしても、シニフィアンなるものは、「他」から来る。「私」という「一」のシニフィアン l'Un-signifiant さえも、「他」l'Autre である。世界は「他」で出来上がっており、「私」も「他」だ。

我々は、ランボーの文法上の意図的誤りをもった《「私」とは他である ''JE est un autre.''》の字面を真剣に眺めてみる必要がある。ラカン的観点からは、l'Autreではなく、un autre であるのが残念だ、などと言ってはならぬ。ひょっとして l'Un = l'Autre の略号ではないか。「私」とは「他」の「一」なのではないか。

もし、あなたがーーわたくしと違ってーー脳軟化症でないなら、ネルヴァルの《Je suis l'autre》 を睨んでみる手打てもある。しかし、ランボーの文、その est だけでなく、JE のなんと神秘的なことか。わたくしは頭の具合とは異なり、鼻は効くほうなので、このランボーの金言に、「ゼロ」と「縫合」の匂いをたちまち嗅ぎつけてしまう。

もちろんラカンのパクリの悪臭はいうまでもなく。少なくとも、ランボーのサフラン色の香液の匂いは、ラカンの娑腐乱の臭いよりは、ずっと健康によい。

…ce quelque chose est la division du sujet, laquelle division tient à ce que l'Autre soit ce qui fait le signifiant, par quoi il ne saurait représenter un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre. (セミネールⅩⅦ、P.207)

《un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre》をしばらく眺めていれば、《Sujet être Un Autre 》→《JE est un autre》とならざるをえない・ ・ ・

《JE est un autre》のラカンによる反転ヴァージョンは次の通り。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu. L'univers… à partir de certaines petites - comme ça - lumières, un peu… que j'ai essayé de vous donner …l'univers, l'univers c'est une fleur de rhétorique. (セミネールⅩⅩ,p.63)

ラカンは、世界にはcon-vaincuばかりだと言っているのかもしれない。「私」が自分の家の主人だと思いこんだマヌケばかりだ、と。真実は、私とは他者なのに・ ・ ・

とくに「哲学者たち」が重症の病であるらしい、それをレトリック家ラカンは、je-cratie と命名する、→「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち

バディウ、ジュパチッチなどが何か言っていたが、あれはなんだったか?→ 「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

バディウからラカンを理解するには、l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un の三つの概念が重要らしいが、わたくしは数学・論理学が弱いからーーいや脳軟化症だから、諦めるべきだろう・ ・ ・

二年ほどまえ浅田彰がなんか書いてたが、この文のせいでバディウを読む気になれない・・・

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。

このような「ブーム」の問題のひとつは、それが必要以上に強いバックラッシュを招くということだ。メイヤスーについてはさすがにまだそこまで行かないが、バディウについていえば、『Critical Inquiry』(Summer 2011)でニーレンバーグ父子(数学者と歴史家)が「サイエンス・ウォーズ」的観点からバディウの数学理解の不正確さを突いた批判は、部分的なものであるにせよ、それなりに正確ではあり、バディウが他の哲学者たち以上に数学を重視しているだけに、ボディ・ブローのように効いてくるのではないかと思われる。自分で反論せず、「弟子」たちの反論に序文を寄せて事足れりとするバディウの姿勢(同誌 January 2012)も、賢明とは言えまい。

ついでに言うと、バディウの弟子だったのが『Anti-Badiou(反バディウ)』で決裂したメディ・ベラ・カセム(Mehdi Belhaj Kacem)は、小説を書いたり、フィリップ・ガレルの映画に俳優として出たり、なかなか賑やかな存在なのだが、『Anti-Badiou』以来ひどく叩かれた恨みをぶちまけた『La conjuration des Tartuffes』で、バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だと言っている、それは結局のところかなり正しいのだろうと私は思う。(メイヤスーによるマラルメ

今後、できうるかぎり、ヘテローマッチョに専念したい思いでいっぱいだ・ ・ ・


2016年2月16日火曜日

反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ここでは、ドゥルーズの《反復されることになる最初の項などは、ありはしない》を、《反復されることになる最初の「真理」ーー主体の裂け目等々ーーは、ありはしない》と言い換えて、ラカン派の観点から、それが成り立つかどうかを、試しにみてみよう。

…………

全て現実界的ものは、常に必ずその場にあるさ…現実界のなかで何かの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

Tout ce qui est réel est toujours et obligatoirement à sa place…L'absence de quelque chose dans le réel est une chose purement symbolique (Lacan,Le séminaire livre IVーーréel/réalitéの混淆)

そもそも現実界には、欠如はない。欠如があるのは、象徴界の法、その転倒された梯子が、設置されてからだ。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir.(Ecrits, Seuil, p. 827)

あるいはセミネールⅩⅩⅢにおける、「法のない現実界」《Réel sans loi》。





話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

この「四つの言説」の形式的構造の簡潔な説明にあるように、論理的には、「真理」が先にあるのではない。上部構造(象徴界)における矢印1の袋小路が、真理と生産物(現実界)を生む。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素 nonsignifying elements である。すなわち主体と対象aである。

シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 surplus enjoyment と呼んだものである。剰余享楽 surplus enjoyment のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(ジュパンチッチ、『剰余享楽が剰余価値に出会う時』 ーー「快原理の彼岸とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性にしかない」)

ここで、ジュパンチッチは「主体とはシニフィアンの内的な裂け目」、あるいは「対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓」と言うことによって、四つの言説の形式的構造と重なる主人の言説を説明している。

(四つの言説は)主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDF

Lesourdの記述と重ねて言えば、話し手 S1 は他者 S2に話しかける。そのS1とS2という二つのシニフィアンの「内的な裂け目」として分裂した主体 $ があり、かつまた残滓としての対象aが生じる。









これが、後年のラカンがくり返しいっていることの核心のひとつである。「遡及性」の考え方、たとえば、《原初とは最初を意味しない》(セミネール、「アンコール」)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩ)とはこの意味で捉えなければならない。

ジジェクの次ぎの文も、「原初とは最初を意味しない」とともに読むことができる。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

さて、ほんとうに「反復されることになる最初の項などは、ありはしない」のだろうか。

反復されることになる最初の「内容」はありはしない。ただし最初の「形式」はある、と言ってみよう。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002 年 『徴候・記憶・外傷』所収)

ここで中井久夫は、幼児型記憶ということによって「原トラウマ」、あるいは原光景に近似したことを語っている。それは、象徴界における「外傷的体験の際」に、形式として顕在化する。つまり、象徴秩序の非一貫性との遭遇において、現実界(原トラウマ)という「形式」が現われる。

これと類似した考え方は、ジジェクやヴェルハーゲに頻出する。たとえば、

形式と内容とのあいだの裂け目は、ここでは正しく弁証法的である。それは超越論的裂け目とは対照的で、後者の要点とは次の通り。すなわち、どの内容も、ア・プリオリな形式的枠組内部に現れ、したがって我々が知覚する内容を「構成している」目に見えない超越論的枠組に常に気づいていなければならない、というものだ。構造的用語で言えば、要素とその要素が占める形式的場とのあいだの識別をしなけれならない、ということである。

反対に、唯一正当な形式の弁証法的分析を獲得しうるのは、我々がある形式的な手続きを、(発話の)内容の一定の側面の表現として捉えるのではなく、内容の一部分の徴づけあるいはシグナルとして捉えるときである。その内容の一部分とは、明示的 explicit な発話の流れからは排除されているものだ。こうして、ここには正当な理論的要点があるのだが、我々が発話内容の「すべて」を再構成したいなら、明示的発話内容自体を超えて行き、内容の「抑圧された」側面に対する代役として振舞う形式的な特徴を包含しなければならない。ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より、私訳)
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。ヴェルハーゲ、“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.、.2009)


おそらくドゥルーズ読みなら、ここでの「形式」から、「純粋差異」や「最小の差異」概念、あるいはrépétition d'un minimumなどを思い起すのだろうが、わたくしはそれらに詳しくない。

……ドゥルーズ用語の「最小の差異」(物の、それ自体からの距離を示す純粋に潜在的差異、どんな現実の特性に依拠することもない差異)にて言えば、現勢的アイデンティティactual identity はつねに潜在(潜勢)的な最小の差異に支えられている。(ZIZEK,LES THAN NOTHING、私訳)
四つの言説のラカンの図式……その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。(「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004、私訳)

ラカンが晩年 Y a d'l'Un(「一」のようなものがある)としたとき、それは「純粋差異「に(も)かかわることは以前みた(参照:「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」)

Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(ラカン、セミネールⅩⅨ)

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、2012,私訳)


…………


以下、参考として、以前に掲げた(参照)アレンカ・ジュパンチッチの表象(再現前)論を一部訳語を変えて掲げる。

これはジジェクの四つの言説をめぐる、やや異なった側面からのーーいささか難解なーー議論にかかわる。

S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉 (One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である。トポロジー的には、二つの表面にお いて同じ用語を得る。

言い換えれば、元々のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシ ニフィアンとその二重化 reduplicatio、シニフィアン とその記銘 inscription の場、〈一〉とゼ ロのあいだの最も微小な差異である。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDFーー「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」)


ジュパンチッチの論は、バディウの存在論の中心的な考え方 l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにも大いに関係する。

バディウの概念である “count-as-one” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 一の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa

ジュパンチッチの説明のなかに、ラカンの公式、《un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant〔シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する〕》(参照)とあるが、バディウの議論は、ラカンの同一化セミネール(セミネールⅨ)の次の文などにも「おそらく」かかわる。ーーわたくしはバディウをほとんど読んだことがないので、あまりエラソウなことは言えない、という意味での「おそらく」である。

c'est dans le statut même de A qu'il y a inscrit que A ne peut pas être A.

A の地位そのものに「A は A ではありえない」と書き込まれている。(ラカン、セミネールⅨ)
あるは、セミネールⅩⅣの、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないこと》。

il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )

さらにはセミネールⅩⅩ(アンコール)の次の文、

・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー《「一」と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性l'inadéquat 》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということだ。


◆アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”(2004)より


【表象の裂け目としての現実界】

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口 major breakthrough だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「非-関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、 表象のまさに裂け目である。


【メタ構造としての表象】

メタ構造としての表象の問題、そして結果として起こる要請ーー表象からそれ自身を引き離す、あるいは「状態 state」からそれ自身を引き離す要請の問題は、純粋な多数性の存在論、無限の、偶然性の存在論とは異なった存在論に属した何ものかである。

メタ構造としての表象は、一つの世界にかかわるのみだ。そこでは、たとえどんな理由であ れ、「神は死んだ」という出来事的表明は、なんの真理もない。


【メタ構造ではないものとしての表象】

対照的に、無限の偶然的な世界(あるいは「状況」)では、メタレベルに位置している「それ自身を数えることの勘定 counting of the count itself」は何の必要性もない。

それは、「一」に対して数えること counting-for-one 自身と同じレヴェルに位置しており、 ある還元不能の間隔 irreducible interval によって、それから切り離されているだけだ(そして、この間隔を、ラカンは現実界と呼んだ)。

さらに、これがまさにある状況を「無限」にする。無限にするのは、表象のどんな操作の除外 exclusion でもない(表象の操作とは、「一」に対してそれを数え、そしてそれ自身の上に それを閉じることを「欲する」)。そうではなく、表象の操作の包含 inclusion である。

どんな個別の「現前 presentation」をも無限にするのは、まさにそれがすでに再現前(表象 representation )を含んでいるということによる。この着想はまた、結合(あるいは固定) unification (or fixation) をもたらす。バディウが「状態」と呼んでいるものとは別のものだが。


【主人のシニフィアンはメタシニフィアンではない】

ラカンはそれを「クッションの結び目 」(point de capiton)の概念と繫げる。(潜在的に potentially)無限のセットの結合は、メタ構造の場合とは同じではない。「クッションの結び目」としての S1 は、S2 に対して、メタシニフィアン meta-signifier ではない(S2、すなわち 潜在的に virtually 無限のシンフィアンの鎖とその組み合せであり、ラカンはまた「知」とも 呼んだが、その S2 に対しての S1[主人のシニフィアン]はメタシニフィアンではない)。

S1 がこのセットを結びつけるのは、「数えること自体を数えること 」counting the count itself によってはなく、二つのカウント two counts の直接的一致のまさに不可能性を「現前する presenting」ことによってである。すなわち、二つのあいだのまさに隙間を現前する ことによってである。


【隙間、 あるいは間隔のシニフィアン】

言い換えれば、S1 は二つ(「数えること」counting と「数えること自体を数えること 」 counting the count itself )が「一」になることの不可能性のシニフィアンである。まさに隙間、 あるいは間隔、あるいは空虚のシニフィアンであり、表象のどんな過程のなかでもそれらを分離するシニフィアンなのである。空虚とはまさに表象の無限のレイヤー化 layering の原因である。

ラカンにとって、「あること=存在」being の現実界とは、この空虚、あるいは間隔、隙間で あり、このまさに非一致 non-coincidence なのだ。そこでは逸脱する過剰はすでにその結果である。S1 がこの空虚を現前させるのは、それを名付けることによってであり、それを表 象しはしない。

ラカンの S1 、(悪)評判高い「主人のシニフィアン」、あるいはファルスのシニフィアンは、 逆説的に、ただ「一」は(そうでは)ない the One is not と書く仕方しかない。そして「 is 」は、 すべての「一」に対してのカウント count-for-one の最中にある原初の乖離を構成する空虚である。

「一」に対してのカウント count-for-one は、つねに-すでに「二」である。S1 は、人が、「一」は(そうでは)ない the One is not として描きうるもののマテームである。それは、まさに、それが「一」であることを邪魔するものを現前することによって、「一」は(そうでは)ない the One is not と書かれる。これが 、S1 が言っていることだ。すなわち、「一」は(そうでは)ないと。しかし、純粋な多数ではなく、「二」なのだ。

これがおそらくラカンの決定的な洞察である。もし、人が「一」の存在論を置いてきぼりにし て先に進むための用意を持ちうる何かがあるのなら、この何かは単純に〈多数〉ではない。 そうではなく、「二」である。


…………

※附記


以下、“Badiou, L'être et l'événement”よりいくらかの文を抽出。


◆compte-pour-un

« que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement, 123)


◆mise-en-un

« la mise-en-un du nom du vide »


◆in-existe

« Seul le vide est, parce que seul il in-existe au multiple, et que les Idées du multiple ne sont vivantes que de ce qui s'y soustrait, ils touchaient à quelque région sacrée »


◆suture

« A l'ensemble{φ} , ce n'est pas ‘le vide' qui appartient (…). Ce qui lui appartient est le nom propre qui fait suture-à-l'être de la présentation axiomatique du multiple pur, donc de la présentation de la présentation. »


◆l'Un n'est pas(opération)

« Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. »

« un pur ‘il y a' opératoire »

« L'un est seulement au principe de toute Idée, saisie du côté de son opération –de la participation– et non du côté de son être. »

« Il y a le nom de l'événement, résultat de l'intervention, il y a l'opérateur de connexion fidèle, qui règle la procédure et institue la vérité. »

« Le nom propre désigne ici que le sujet, en tant que configuration située et locale, n'est ni l'intervention, ni l'opérateur de fidélité, mais l'avènement de leur Deux, soit l'incorporation de l'événement à la situation »


※メモ

ミレール(1966):S(Ⱥ)=Suture(縫合)、あるいはゼロ概念
ミレール(2000?):S(Ⱥ)=Σ(サントーム)--Σは父の名、S1の変種

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”,2008)

フィンク(1995):S(Ⱥ)=S(a) ーー原初の喪失Ⱥのシニフィアン

Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点、2007】

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの


バディウ存在論 l'Un n'est pas (パルメニデス→ ハイデガー→ラカン→バディウ)
ジジェク組の見解: l'Un n'est pas(バディウ)= il y a de l'Un(ラカン)=対象a



【ラカン】

 ・Y a d'l'Un(S.19・20)→ 「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る

 ・l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste (S.20) (全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒 l'essaim(S1) =縫合)

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー上にも記したが、くりかえせば、「〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性」とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということ。

→《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)





2015年5月14日木曜日

「神の二度めの死」=「マルクスの死」

人間の顔をした世界資本主義者」から引き続く。


ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaegheは、『THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998にて、ほぼ次ぎのようなことを書いている。

…………

原父の息子たちーーモーセ、イエス、ムハンマド--はそれぞれの仕方で父として現れた。

モーセは多神教の神に対してヤホバを設置し、イエスは母なる神に対して神聖な父を設置し、ムハンマドは同様にアラーを立てた。このように、息子たちは父を導入してきた。「父は息子たちの症状」なのである。

大抵の場合、原父は他の者によって代替された。モーセはキリストによって、キリストはムハンマドによって、両者はマルクス等によって。

この原則が、20世紀後半に崩壊した。

権威としての父の消滅が意味するのは、息子たちは同一化のモデルを失ったということだ。結果は、息子たちは息子たちのままであることを余儀なくされる。大人になれない息子たちの時代というのが、父なき時代、あるいは象徴的権威の崩壊の意味である。

…………

マルクスが死んだ後は、だれも象徴的権威の座にすわるものはいない。するとどうなるのか。

「父の名」の機能は消滅し、猥雑な享楽の父、貪り食う母なる超自我として回帰している。
ほかの神々はどうか? それぞれ猥褻かつ苛酷な形象として回帰している。

ムハンマドは回帰する、テロリストとして! 
モーセも回帰した、世界資本主義として! 
キリストももちろん回帰している、レイシズムとナショナリズムとして!


「享楽の父」は、ラカン派の文脈では、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我である。これはラカンが超自我を「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan ,1955)と形容したことに基づく。

この享楽の父は、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。それゆえ、ミレール=ジジェクによって、「母なる超自我」とも命名される(参照:[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org)。

それはラカン派的に言えば、資本主義の言説の時代でもある。

資本主義のディスクールを特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。(ラカン、セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ラカンは注釈している、《満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである》(Miller, “Phallus and Perversion)

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるほど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。《ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。》(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure”)

この享楽の父、あるいは母なる超自我は、「享楽せよ、常にいよいよ、ますます享楽せよ!」[ jouis toujours encore plus ! ]と命令する審級である。これを「死の欲動」とも呼ぶ、《わたしは…欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール)

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になった瞬間である」(マルクス)。(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

すべての欲動は潜在的には死の欲動〔…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.〕(Lacan Ecrit 848)であり、後期資本主義の時代とは、死の欲動が席捲する時代である。マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのはよく知られている。

資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。

資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。
「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。

剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽との、相同関係である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

このジジェクの議論は、柄谷行人によって次のように言い換えられる。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)

…………

父という権威が死んで、自由と平等の世界が訪れたわけではないのは誰もが気づいているだろう。権威の死の後には、前エディプス的・母性的、すなわち「母なるオルギア」(距離のない狂宴)のなすがままになる「母なる超自我」の時代が訪れたわけだ。それは「権威」ではなく「権力」の形をとる。

ヴェルハーゲは冒頭に引用された論が上梓された一年後に、次ぎのようなレクチャアをしている(the fifth annual conference of the APCS, NY, Columbia University, Oct.99”)。

もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威はどぶに嵌っているということである。われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。

重要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

もちろん、ここでヴェルハーゲは「二者関係」という表現を使い、精神病的な想像界の世界の厄介さを言っている。

セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。(ミレール『ラカンの臨床パースペクティヴへの導入』

このミレールの言い方であれば、精神病的でどうしてわるいのだ、ということになる。大文字の他者を信じ込んでいるほうが(神経症的なほうが)、狂っていると。

だがヴェルハーゲの語るように、社会における鏡像的な状況が権力の猖獗、社会的絆の崩壊を生んでいる。鏡像的、すなわち「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちの世界である。たとえば彼は昨年次のような表題をもった短い記事をガーディアンに書いている。 「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎したNeoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29)。

この論文は、勝ち組、負け組を生みだすだけの現在の新自由主義≒世界資本主義のことを指摘しており、柄谷行人なら次のように言う。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱

※ここでの文脈に関連するものとして、ジジェクによる恩師ミレール批判2012があるが、それは最後に附記する。

…………

ところで、マルクスはいつ死んだのか? 相場は1989年ということになっている。

では、1989 年の陰鬱な災禍を経て、わたしたちは今日どのような場所にいるのだろうか。 1922 年のように、悪意のこもった歓声が下から鳴り響いてくる――「ざまあみろ、社会に全 体主義を押しつけたがる変人どもめ!」。あるいは、そうした悪意ある喜びを押し隠そうと する者もいるだろう。彼らは嘆息し、天を見上げて、こう言わんばかりだ――「われわれの 懸念した通りになってしまうとは、なんと悲しいことだろう。公正な社会を建設したいという あなた方のヴィジョンは、まことに高貴なものであった。われらの心はあなた方の側にある。 しかし、あなた方の計画が悲惨なものに終わり、新たな束縛をもたらすものでしかないと、 理性が教えてくれたのだ」。わたしたちは、こうした誘惑の声に屈することなく、いまいちど 初心にもどって始めなければならない――それは、1917 年から 1989 年まで、いや正確 には 1968 年まで続いた、20 世紀の革命的時代の基盤をさらに積み上げるというのでは ない――そうではなくて、出発点にまで下降して、そこからべつの道のりを選びなおすとい うことなのだ。(ジジェク「初心からいかに始めるか」2009)

学園闘争(参照:三つの「父の死」)だけではなく、プラハの春や、文化大革命などを想起すれば、マルクスは1968年に死んだということになるのだろう。

すなわち曲りなりにも、公正な社会を建設したいというビジョン、父の名は、1968年まではあったとしておこう。大文字の他者の存在を信じていた前期ラカンの言葉を掲げるならば、そのあり方は次ぎの通り。

私が父の名と呼ぶもの、すなわち象徴的な父とはまさにこれです。それはシニフィアンの水準にある一つの項であり、法の座としての大文字の他者において、大文字の他者を代表象している項です。 それは法を支え、 法を公布するシニフィアンです。それは大文字の他者における大文字の他者なのです。(セミネールⅤ)

(ここでやや文脈から外れるが、「思想家」でさえ、1960年代にその基本的な仕事をしてしまっており、そのあと、「大文字の他者」といいうる思想家はでていない)。

とすれば、1968年から1989年のあいだはどうだったのか。ここでもラカン、中期ラカンを持ち出せば次の通り(参照:簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン))。

もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証されえずにどこにもないなら、それはどこにあるのでしょうか。あるとすれば、小文字の他者[対象a]のこの機能がそれを請け合うのです。(セミネールⅩⅥ)

1968年から1989年のあいだにマルクスの真理を信じていたわけではない。だが対象aとしての「眼差し」がそれを支えていたのだ。

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly(,邦題『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、邦訳が手元にないので、私訳 を附す)

資本主義諸国は、ベルリンの壁が崩壊する以前にも、己れの制度を信じていなかったにもかかわらず、社会主義諸国からの「まなざし」があり、その「まなざし」に同一化することによって、「人間の顔をした社会主義」を目指す努力、つまり福祉国家への努力があった。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。
(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

このように、世界は、前期ラカン(大文字の他者は存在する)から中期ラカン(大文字の他者の不在を対象aで補完する)をを経て、いまはジジェクのいう意味では対象aさえ機能しない後期ラカン的な(大文字の他者の消滅)時代である(この言い方はいささか無理があるかもしれないが、いまは敢えてそのままにしておく)。浅田彰の言い方なら、資本の欲動をオブラートで包むことさえない「えげつない」市場原理剥き出しの時代なのである。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)


実際、ラカンが「主人の言説」から「資本家の言説」へ、と言い出したのは、1968年学園紛争直後の1969年のセミネールⅩⅦ(精神分析の裏面)からである。

主人の言説は、概ね消滅してしまった(ラカン セミネールⅩⅦ)
もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)
資本主義のディスクールを特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。(ラカン、セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

とはいえ、上に記したように、1968年から1989年の端境期を経て、実際に「資本主義のディスクール」の特徴が席捲するようになったのは、やはり1989年以降だろう。

後期ラカンの「サントームの臨床」に近似した「去勢を拒絶した」世界への対抗策は、新しいシニフィアンを発明することである(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

サントームとは、全能の貪り食う母の開いた口を支える「父の名」の代替物なのである。そしてここでの文脈では、「全能の貪り食う母」とは「資本の欲動」である。

とはいえサントームとは個々の個人の症状の核にもとづくものであり、社会的絆帯としては機能しない。あくまでいま書いているのは比喩的であり、ここでは新しい主人のシニフィアンと言い換えるべきかもしれない。

とはいえーーすなわち主人のシニフィアンと言い換えてさえーー、新しい主人のシニフィアン、新しい父の名(あるいはそれの代替物)の導入など可能であるのか。

「父の名」の隠喩の欠如は、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれる[見せかけsemblant]の、数々の「小さな〈大文字の他者たち〉little big Others」(”numerous little others or partial big Others”(Zizek=Tony Myers - 2004) としての「倫理委員会」,「小委員会」などを求めるようになる、というジジェクの指摘がある。

松本卓也氏は、M.-H.ブルースに依拠しつつつ「〈父の名〉の後に誰が来るか?」という論文にて、次のように記しているようだ(守中高明氏ツイートからのまた聞きではある)。これはジジェクの「小さな〈大文字の他者たち〉」の変奏であるだろう。

「象徴的な法の単一性のシニフィアンであるところの〈父の名〉の権力の終焉」→「〈父-の-諸名〉」という「複数的なもの」への移行→〈父の名〉に「症状としての資格」を付与すること→「普通精神病においては、患者は象徴的組織化に欠如している例外の機能を自らに受肉しようとはしない」。

それでは「今日の〈父の名〉」とは何か:それは「正規分布の中央」「ポリティカル・コレクトネス」「コンセンサス」「エヴィデンスの保証」等であり、それが形成する「社会秩序」においては、「統計学的超自我」が支配し「曲線の中央値によって定義されるような凡庸さへの従属」が問題となる→そこから同氏(松本氏)の批判:しばしば「法の支配」を言う「本邦の恥ずべき首相」は「〈父の名〉の補足的なつくりものの一種」に過ぎず、しかも「つくりものとしても不十分」なことを自覚していない、と。

やはり〈父の諸名〉では機能しない。とすればどうしたらいいのか? たとえば、柄谷行人(=カント)の「世界共和国」は、マルクスの死以降の時代に、新しい主人のシニフィアンを求める試みだとしてよいだろう。

……神と宗教のもっともシンプルな定義は、真実と意味は同一のものだという考えにある。神の死とは、この真実と意味とを同じものとする考えの終りであ る。そしてコミュニズムの死もまた、歴史に関しての真実と意味の分離を告げていると、私ならつけ加える。「歴史の意味」にはふたつ意味がある。ひとつは、 歴史がどこへ向かうか、といった「方向性」。もうひとつは、プロレタリアートの手になる人間の解放史などといった歴史の目的である。実際コミュニズムの時代には、正しい政治判断を下すことは可能だとの確信があった。そのとき、私たちは歴史の意味に動かされていたのだ。……そしてコミュニズムの死は、歴史の領域でのみ、神の二度めの死となるのである。(アラン・バディウ ”A conversation with Alain Badiou, lacanian ink 23 (2004) )

コミュニズムの死は、歴史の領域でのみ、神の二度めの死とあるが、もちろんこれはマルクスの死は神の二度めの死と言いかえられる。とはいえ、マルクスはほんとうに死んだのか。

わたしはここでコミュニズムの〈大文字の概念〉が存続するのだと言いたい。実現しそこねながら、亡霊のように何度も何度も現われ、いつまでも生き延びるのだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』2009)

これはかつてのような「父の名」の復活を言っているのか、ーーいやそうではない(後述)。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012)

バディウさえときには「コミュニズム」というシニフィアンを言い出しかねて「正義」と言っているのだろうか。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
ーーより詳しくは「主人のシニフィアンと統整的理念」を見よ。

もちろんバディウは本当は「正義」などという曖昧な主人のシニフィアンではなく、コミュニズムというシニフィアンを復活させたいのだ。だがそのシニフィアンの扱い方がかつてとは異ならなければならない。

アラン・バディウは、いまいちどコミュニストという仮説を主張すべきだと提案している――

《もしわたしたちがこの仮説を放棄するならば、集団行動という領域で、やるべき価値のあることは何もなくなってしまう。コミュニズムという地平なくして、この大文字の概念なくして、哲学者の興味をかきたてるような歴史的・政治的生成は存在しない。》

しかし、バディウは続けて言う――

《この大文字の概念を、この仮説の存在を手放さないからといって、それが第一に主張してきた私有財産や国家に関するテーゼを、そのままのかたちで保持する必要などない。実際、哲学者が引き受けるべき責務、あるいは義務とは、この仮説が新たな様態をまとって出現すべく手助けをすることである。》

ここで注意すべきは、これをカント的に読んではならないということだ。つまり、コミュニズムをなんらかの統整理念regulative Ideaとして、したがって「倫理的社会主義」の亡霊を蘇生させるものとみなし、その先見的規範もしくは公理として、「平等」を考えるといった姿勢をとってはならないのだ。そうではなく、わたしたちが保持すべきなのは、コミュニズムの必要性を生み出すような、一連の社会的敵対性を正確に参照することなのである。コミュニズムという古き良きマルクス主義概念を、理念としてではなく、現実の矛盾に立ち向かう運動として考えなければならない。コミュニズムを永遠の大文字の理念に祀りあげてしまうと、それを生み出した状況も同じく永続的なものであり、コミュニズムが立ち向かう敵対性はいつまでたってもなくならないということになってしまう。そこからコミュニズムの脱構築的読解までは、ほんの一歩にすぎない。すなわち、コミュニズムとは、現前を夢見ること、代表制がもたらすあらゆる疎外状況を一挙に廃絶しようという夢想、つまり、みずからの不可能性を養分にして育つ夢うつつの理想ということになってしまうのである。(スラヴォイ・ジジェク「初心からいかに始めるか」 )

※ここでジジェクは、カントの「統整理念regulative Idea」さえ否定している。この用語にたいする柄谷行人の捉え方とは異なるのかもしれないが、柄谷行人にとってはコミュニズムとは統整的理念である(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。だがいまはそれについては追求しない。

さて、バディウやジジェク、あるいは柄谷行人はユートピアンなのだろうか。いや、ジジェクの言い方では、〈あなたがた〉がユートピアンなのである。

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。

 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェク 「今や領野は開かれた」ーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

たとえば、ジジェクに従えば、レイシズムやナショナリズムとは資本主義の構造的な現象であるという認識をもたないようにみえる「左翼」の活動家たちはユートピアンである(参照:「グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する」)。


あるいは、次ぎの応答はユートピアンのものである。野間易通によるものであり、2011年以降の彼の目覚しい「仕事」をわずかなりとも知るものとしては、彼を批判するつもりは毛頭ないが(参照:括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク))。

レイシズムは一部の過激派がやっているものでしょうか、それとも民衆に普遍的に根ざすものでしょうか。

一部の過激派ではなく、広く薄く根づくものだと思いますが、同時に思想的流行でもあります。つまり、どの民族や国民も本質的にレイシストである(=普遍的)ということは考えにくく、その傾向をいくらでも改善可能だということです。(C.R.A.C. @cracjp

前投稿「人間の顔をした世界資本主義者」から再掲しておこう。

ホルクハイマーが1930年代にファシズムと資本主義について言ったこと--資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである--は今日の原理主義にも当てはまる。リベラルデモクラシーについて批判的に語りたくない者は原理主義についても沈黙すべきである。(ジジェク)

いや、われわれは、われわれ自身の当面できることをするほかない、という立場もあるだろう。だが、その態度は、多くの場合、既存のシステムーーすなわち現在なら世界資本主義ーーを強化する役目を果たしかねない、というのがジジェクの論理でもある。この論理は、Levi R. Bryant の『Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist』の冒頭数ページに、ヘーゲルやラカン、ドゥルーズを引用をしつつ、巧みにまとめられているが、今はそれを掲げることはやめておこう。かわりに途中で言及したジジェクによるミレール批判を掲げる。

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※附記:ジジェクによるミレール批判(2012)

ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけsemblances(理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、「自ら享楽し、他者が享楽するに任せる」という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す。

我々は見てきたように、ミレールはもちろん商品市場に要求される享楽の標準化に批判的ではある。とはいえ彼の異議表明は、標準的な文化批評の域を出ない。さらに、ミレールが無視しているのは、あのような特異性が繁茂する特殊な社会-象徴的状況だ。(……)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被のあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違えるles non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界のあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤illusionとは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルな棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

ラカンは、『Séminaire Les non-dupes errent 』1973-74において、「父の名」との関連において nomination 概念の提示している。Les non‐dupes errent(騙されない者は間違える)とは、そもそもle‐Nom‐du‐Père(父の名)と同じ発音であることに注意。

1、nomination は「命名」かつ「任命」。

2、nomination は destitution 「解任」(主体の解任)の逆。

3、主体の解任destitution subjective=究極の分離の後、新たなシニフィアンを発明すること。すなわち無からの創造creatio ex nihiloとしてのサントーム sinthome の発明。

後期ラカンにとって、父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのであり、ここでの「騙されない者は間違える」は「父の名」の代替物「サントーム」に騙されない者は間違えると意味しているとも捉えうる。

なおジジェク解釈による「騙されない者は間違える」のわかりやすい説明については、「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」を見よ。


さて、ジジェク2012には、強いミレール批判がもう二ヶ所ほどあるのだが、そのうちの一箇所のいくらかを抜き出しておこう。

ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。

このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる…我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。

…バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。(同上)