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2018年3月23日金曜日

愛の賛歌

◆ゴダールの『愛の世紀』(原題:愛の賛歌 Éloge de l'amour、2001)より(一部編集有り)



思うに、映画と愛のあいだには密接な結びつきがある。その理由はまず、愛は、映画と同じように、実存のさなかでの奇跡の現れであるからだ。問題の一切は、この奇跡が持続的であるかどうかを知ることにある。「持続的ではない」と言ったとたん、シニカルで相対的な愛のとらえ方に落ち込んでしまうが、ポジティブな愛のとらえ方をしたいなら、永続する奇跡が存在すると主張しなければならない。愛の出会いは生における不連続性の象徴である。一方、結婚は連続性の象徴である。このことは哲学的かつ映画的な問いをつきつける。つまり、「分裂のなかにひとつの綜合を構築することは可能であろうか」という問いである。愛はつねに、<革命>と同じように、そしておそらく映画と同じように、この問題の特徴的な一事例なのだ……。映画が愛と似ている第二の理由は、映画が言葉の芸術ではないことである。

(⋯⋯)映画では言葉はきわめて重要ではあるが、本質的な要素ではない。映画は言葉の芸術であると同時に沈黙の芸術でもあり、感覚的なものの芸術なのだ。愛もまた黙している。愛のひとつの定義を提示してみるならば、「愛とは告白のあとに来る沈黙である」ということになろうか。「愛している」と言ったら、あとは黙るしかない。というのは、いずれにしても、愛の告白が[愛という]状況を創り出したからだ。沈黙へのこうした関係、身体の現前へのこうした関係は、映画で表現するのにうってつけである。映画はまた性的身体の芸術でもある。映画は裸体芸術だ。このことが映画と愛とのある親密な関係を創り出す。(アラン・バディウ『愛の賛歌 Eloge de l'amour』2016年)




人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)
愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛だけである、享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したもうのは(愛だけが、享楽が欲望に身を落とす(腰をかがめる condescendre )ことを可能にする)。  Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan,S10, l3 Mars l963)
愛は欲望の昇華である l'amour est la sublimation du désir(Lacan,S10, l3 Mars l963)
身体の享楽(=女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


ーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

ここでの記述における究極の「愛の対象」とは、もちろん「愛」である。