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2018年3月24日土曜日

「愛の賛歌」への冷笑


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

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安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ゴダールの『愛の賛歌 Éloge de l'amour』(2001)は、彼が71才のとき。
バディウの『愛の賛歌 Éloge de l'amour』(2016)は、彼が79才のとき。

死に近づいて「愛」(エロス)を語り始めるようになるのは、ごく一般的なあり方である。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

なぜか? ーー「究極のエロス・究極の享楽とは死のこと」だから(参照)。


エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー究極の融合とは、母なる大地との融合であり、死である。
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

中井久夫=安永浩の図式にもどれば、標準的な30代や40代の連中は、《土台を問題にすることを忘れて》いる。「詩人」という稀有の例外はある。

死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)
死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ビシャーー、フーコー『臨床医学の誕生』より)

一般的にいえば、人がエロスとタナトスのどちらに傾くのかは、社会環境によるとともに、人の生の環境による。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性(タナトス)は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯(エロス)ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境である。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014)

「ファントム空間」の図式が示すように、老年期や幼年期は、エロスの時である。中年期はタナトスの時である。だが中年の人間にもエロス感情が強く生まれる「環境」がある。

たとえば大きな天災や戦争、あるいは個人的な強い不運に遭遇して「寄る辺なき状況」に陥ったとき。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

フロイトにとっての「むかしに経験した外傷的状況」とは、原初の母子関係における《寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeit》にかかわる(参照)。

災害発生時(地震や津波など)にエロス的心情(「絆」等)が生れるのは、この原トラウマに関する《愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden》(参照)のせいである(表層的に先ず現れるのは愛することかもしれない。だが《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

他方、満たされている人間、すくなくとも自分でそう感じている人間には、(一般的には)タナトスに占有される傾向がある。フロイトの定義におけるエロスとタナトスとは、融合と分離であり、分離とは、いいかえれば「独立」(独りで立つ・自立)である。

さらにいっそう基本的に言えば、母なる大地との融合(死=究極の享楽)に対する「引力/斥力」がエロスとタナトスの関係である。

人には二つのみの根本欲動 Grundtriebe がある。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstriebである。…これは究極的には引力と斥力 Anziehung und Abstossung にかかわる。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
両者(エロスとタナトス)は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

このフロイトとドゥルーズの「引力と斥力」をいっそう鮮明に言えば、

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自立と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳ーー「愛の起源は腹が減ったである」)

したがって、「平和の国日本」における中年期の人間が、「愛の賛歌」を憎んだり、冷笑的であるのは、ある意味で当然といえば当然である、たとえば多くの「あなたがた」のように。

結局、「満たされていると錯覚」している人間、「死の恐怖」を経験したことのない人間には、エロス感覚はない。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ジャック=アラン・ミレール,2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

ラカン的にはフロイトの「去勢」とは、象徴的去勢であり、言語を使用する人間は必ず去勢される(参照:資本の言説と〈私〉支配の言説)。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

他方、ラカンによれば、市場原理主義の時代・新自由主義の時代ーーラカン的には資本の言説の時代ーーとは、去勢の排除の時代である(現代ラカン派では、おおむね「去勢の否認」の時代と言い直されているが)。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)