愛の重要な起源は「腹が減った」である。だが空腹を満たしてくれるあのオッパイは「行ったり来たり」する。人の生の厄介さの起源はここにある。
《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)
人間には動物とは異なる生物学的要因がある。
すべては母なる〈女〉にかかわる。女性が男性を愛するのは「変態」である。
人は愛する Man liebt:
1)ナルシシズム型では、
a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物
2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、
a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性
ーーつまり《保護してくれる男性》と。だが基本はこの文の前段にある次の記述である。
⋯⋯⋯⋯
冒頭に「オッパイ」と口に出したからと言って、「口唇欲動」が我々の生の根源だと勘違いしてはならない。生誕とともに喪われた対象の周りを「循環すること」、それが生の根源である。
ーーそもそも後年のラカン(1975年, Strasbourg le 26 janvier 1975)は、臍の緒 cordon ombilical と切れることが穴 trou (原抑圧 Urverdrängt )の起源だと言ってさえいるわけで、冒頭に記したオッパイとはあくまで隠喩である。
行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
人間には動物とは異なる生物学的要因がある。
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
すべては母なる〈女〉にかかわる。女性が男性を愛するのは「変態」である。
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
フロイト1914は次のようには言っている。
1)ナルシシズム型では、
a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物
2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、
a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性
ーーつまり《保護してくれる男性》と。だが基本はこの文の前段にある次の記述である。
人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
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冒頭に「オッパイ」と口に出したからと言って、「口唇欲動」が我々の生の根源だと勘違いしてはならない。生誕とともに喪われた対象の周りを「循環すること」、それが生の根源である。
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
ーーそもそも後年のラカン(1975年, Strasbourg le 26 janvier 1975)は、臍の緒 cordon ombilical と切れることが穴 trou (原抑圧 Urverdrängt )の起源だと言ってさえいるわけで、冒頭に記したオッパイとはあくまで隠喩である。
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《人には二つのみの根本欲動 Grundtriebe がある。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstriebである。…これは究極的には引力と斥力 Anziehung und Abstossung にかかわる》(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
《エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。
…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
こうして次の図に収斂する。
日本語版は次の通り
※詳細(ラカンの発言等)は、「分離タナトス」と「循環タナトス」)を見よ。
ここでは最も簡潔に書かれているラカン派臨床家ポール・バーハウの次の文のみを引用する。
※より具体的な参照のひとつとしては、「二つの根源的な愛の対象」を見よ。
日本語版は次の通り
※詳細(ラカンの発言等)は、「分離タナトス」と「循環タナトス」)を見よ。
ここでは最も簡潔に書かれているラカン派臨床家ポール・バーハウの次の文のみを引用する。
エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。
ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳)
※より具体的な参照のひとつとしては、「二つの根源的な愛の対象」を見よ。