「隠蔽記憶」とはトラウマ的出来事を覆い隠す幻想的スクリーンとしての記憶であり、英訳ではscreen memory(仏訳 souvenir-écran)である。
このトラウマ(的出来事)は、すべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。
問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児型健忘期 Periode der infantilen Amnesieの範囲内にある。その経験は、「隠蔽記憶 Deckerinnerungen」として知られる、いくつかの分割された記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939、私訳)
ところで「隠蔽記憶 Deckerinnerung」を独語でネット検索してみると、コソボ生れのファッション・デザイナーFlaka Jahaj の次の画像に行き当たった。
(flaka jahaj, Deckerinnerung 隠蔽記憶) |
幻想を以て我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に凍りつかせて還元する fige, réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。
映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化されているもの、そこには全てのエロス的機能valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれるている…(ラカン、S4、16 Janvier 1957)
我々はいかにこの濃密な(上掲の)一節を解釈すべきだろう。実際のところ《還元された réduit 》幻想的なスナップショットから何を得るのか。ラカンの説明のなかでは暗示的なままになっている二つの直接的な核心をはっきりさせなければならない。
第一に、問題の映画は、我々すべてにとって、必ず恐怖映画だということだ。
第二に、我々はみな恐怖映画を観賞したい。最初は誰もがその映画が好きでなくてさえ。ずばり言えば、子供が、トラウマ的内容に気づかないままで、偶然に観ている映画の衝撃シーンに凍りつくとき、ーーそして彼が最初に、不安を引き起こす「母の欲望」(母なる大他者の欲望 the desire-of-the- (m)Other )の現実界との耐がたい遭遇を織り上げたときーー、子供はどちらの場合も、トラウマから保護してくれる静止画像を得る(場面のイマジネールな対象化を通して)。そして自身も部分的にトラウマ化される(イマジネールな対象化の底に横たわるリアルな場面を通して)。
言い換えれば、ラカンが「フルシーン」と呼ぶものを固着する「スクリーン/ヴェール」という緩和のおかげで、子供は、彼が観たものを「享楽する」ことになる。そして、何度もくり返し観たくなる。親がフィルムを没収したら、子どもは類似の場面をほかのフィルムに再発見しようとする…(ラカンが言っていることを把握するために、怖がっている子どもが両手で目を覆い、同時に、指のあいだの隙間を通して覗き見しているやり方を思い起こそう)。
ここで強調されるべき最も重要な点は、トラウマ的シーンは、静止画像の想像的固着によってのみ、遡及的(事後的)に構成されうるということだ。「記憶の流れ」は、「スクリーンメモリー」によって提供された静止画像のおかげでのみ記憶化されうる。
最初は、「母の欲望」(母なる大他者の欲望)との純粋なカオス的遭遇があるだけである。それは、幼児には、主体的に経験されていない。厳密に言って、恐怖映画のリアルなシーンが、純粋なカオス的出来事以上の何かになるのは、想像的に凍りついた後のみだ。
これにつけ加え、リアルなシーン(の遡及的出現)は、次の両方だと見なされるべきだ。すなわち、一方で、欠如、つまり子供がそれ自体として欲望する、喪われたカオス的出来事の残余a として。他方で、厳密な意味での欠如(空虚)、つまり出来事の目撃、その《居残った支え support restant》として。(ロレンゾ・チーサ 2007、 Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる》(同ロレンゾ・チーサ 2007)
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定義上、フェティッシューースクリーンとしての対象aーーも、隠蔽記憶の一種である。
最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)
ーー《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」
これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ーーと同時に、《対象aは穴である l'objet(a), c'est le trou》 (ラカン、S18, 1968)
我々はみな知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めの)ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
大他者とは身体でもあり、身体の穴埋めをするのも倒錯者である。 《大他者は身体である! L'Autre、c'est le corps ! 》(ラカン、S14, 1967)
精神分析は、抑圧のために失われてしまった糞尿に関する臭快感 koprophilen Riechlust が、フェティッシュの選択にたいしてもつ意味を指摘して、フェティシズムを理解するうえでの間隙を埋めた。
足や毛髪はひどく臭う対象であって、嗅覚が不快になり廃棄された後、フェティッシュへと高められる。Fetischen erhoben werden.
したがって足フェティシズムFußfetischismus に相当する倒錯において、性対象となるのはただ汚れた、悪臭をはなつ足だけである。(フロイト『性欲論三篇』1910年注)
とはいえ現代日本の「文明化された」男性諸君にとっては、ひどく臭い足ではなく、おそらくほどよい悪臭が肝腎であろう。それは我がベルトルッチと同様である。
足が好んでフェティッシュとされることを説明するのに役立つ別の要因が、幼児性愛論に見出される。
足は、不当にも欠けている女性のペニスの代表象である。
足フェティシズムの多くの事例において、本来は性器に向けられていた視姦欲動 Schautriebは、その対象に下から近づこうとするのだが、禁止と抑圧によって、道半ばで押しとどめられる。この理由で、足や靴の形態のなかにフェティッシュが付着し、女性器は、幼児の期待に応じて、男のようなものとして表象されるのである。Das weibliche Genitale wurde dabei, der infantilen Erwartung entsprechend, als ein männliches vorgestellt.. (フロイト『性欲論三篇』1910年注)
我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的なunheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される。
こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景 Anblick der Genitalbehaarungの固着 fixierenである。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。
とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間を結晶させているhalten。すなわち女性がファルスをもっている phallisch といまだ見なしうるあの最後の瞬間を捉えている。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)
フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)
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以上は、スタンダリアン、あるいは荷風かつまた吉岡ミノル庵「蚊居肢」としての記述である。
スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
たしかに母は陽を浴びつつ
大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)
ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)
ただしわたくしの母が死んだのは、わたくしが7才のときではなく24才のときであり、完全な美のまま死んだというわけではないのが遺憾である。
美しい女の死は、疑問の余地なく、世界でもっとも詩的な主題である。
──そして、そのような主題を語るのにもっともふさわしい唇が、後に残された恋人の唇であることもまた、同様に疑いを容れない事実である。(エドガー・アラン・ポー「構成の哲学」)