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2017年9月28日木曜日

二つの根源的な愛の対象

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

もっともフロイトは数頁あと、次のように記している。

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

この時期のフロイトらしくアタッチメント型の(b) に《 保護してくれる男性 schützenden Mann》がつけ加えられている。だが核心はやはり《世話をしてくれる女性 pflegende Weib》、《養育してくれる女性nährende Frau》である。

かつまたナルシシズム型の(d)に《自己自身の一部であった人物 die Person, die ein Teil des eigenen Selbst war》とある。究極の自己自身の一部であった人物とは母にきまっている。

母胎内の時期に触れないまでも、出生後の最初期、乳幼児は、《母の乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない》。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)

…………

以下、ラカン派による上に記したフロイトの考え方の代表的な注釈をかかげる(ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』Jacques-Alain Miller、pdfより)

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(Miller、1992)

根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental の「置き換え」は、最近の論では「昇華sublimation」という表現で注釈されている。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)

フロイトにとっては、学問も芸術も昇華の一種であり、《この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』)

故にミレールは次のように言うことになる。

科学があるのは女性というもの la femme が存在しないからです。知はそれ自体「他の性Autre sexs」についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

もちろん他の性とは、男女ともに「女性の性」である、《「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である》(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)。

ここで次の文をも引用しておこう。

定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
 
女が男を愛するのは「倒錯」なのである・・・本能が狂った動物であるヒト族(参照)のなかの雌は、発達段階において、さらにもうひとつ「狂った」のである。最初の愛の対象は、女児にとっても、母=女であるのは瞭然としているのに、父=男への愛に転回するなどとはいかにも奇妙である・・・

そもそも古来からの格言があるではないか、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》と。

幼児は、性関係 sexuellen Beziehungen において父母が演じる役割の相違を知るようになり、「父性は常に不確実 pater semper incertus est」で「母性は確実 Mutter certissima ist」だと悟る…。(フロイト『ファミリーロマンス』1909)

もちろんこの雌族の有様は「狂った」の二重否定でありーー「否定の否定」とは逸脱の逸脱であるーー、至高の存在、つまり(場合によっては)神でありうる・・・、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976)

以下、ふたたびミレール1992年を続ける。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらないしかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴的秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出した、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む(主体を保護してくれる者への対象選択)。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992、pdf)

フロイト文からミレールのいう第二の愛の相である「鼻のつや」箇所を引用しておこう。

ある青年の例…彼はある種の「鼻のつや」をフェティッシュ的条件 fetischistischen Bedingung にしていた。…患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語をほとんど完全に忘れていた。この小児期に由来しているフェティッシュ Fetisch は、ドイツ語でなく、英語で読まれるべきもので、「鼻のつや Glanz auf der Nase」は、本来「鼻への一瞥 Blick auf die Nase」 (glance = Blick)なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュ Fetisch となっていた。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

ミレールは2010年のインタヴューにおいて次のように語っている。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)

このウェルテルをめぐっては、ロラン・バルトが《われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ》と美しく書いている。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充溢性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。タブローは、やがてわたしが愛することになる対象を聖別 consacre しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』1977年「魂を奪われるRAVISSEMENT」の項)

…………

女性の場合の愛は、男性にくらべて一見、原初の「母との結びつき・母拘束 Mutterbindung」から逃れているようにみえる。

男性の場合には、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、彼女に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)

だがフロイトはこうも記していることを、ここではラカン派による注釈抜きで、強調しておこう。

………前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。

われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父をモデルにして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。

これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父との結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
非常に多くの女性の場合に、ちょうどその青春時代が母との闘い Kampf mit der Mutterで明け暮れしたように、その成熟期が夫との闘争でみたされているという印象をわれわれがうけるときに、(……)彼女たちの母に対する敵意ある態度 feindselige Einstellung zur Mutter はエディプスコンプレックスという競争意識の帰結ではなくて、それ以前の時期に由来するものであり、エディプス的状況におかれることによってそれが強化され、利用されたにすぎない、ということになる。(同上、『女性の性愛』1931年、私訳)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわい、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。

どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における結びつき(拘束 Bindung)が女性の未来にとって決定的である。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年、私訳)

ーー上の文に出現する母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)と父との結びつき(父拘束 Vaterbindung)とは、フロイトが別の論文で使っている「マザコン/ファザコン(マザーコンプレックス Mutterkomplex/ファザーコンプレックス Vaterkomplexe )」とどう違うのか? ま、似たようなもんじゃないか?

コンプレックスとは、フロイトの朋友ブロイアーに起源があり、《観念複合体 Ideen Complex》という意味である。われわれは何らかの形で母への観念複合、父への観念複合をもって生きてゆくのである。

たとえば後者のファザコンは、ラカン派的に、「父の名」観念複合としてもよい。

言語、それは父の名であり、超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ミレール、séminaire  96/97)

ファザコンが言語コンプレックスであれば、マザコンは、ララングコンプレックスである。

ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langage が、母の言葉 la dire maternelle と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、以後の愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレール、2011, Colette Soler, Les affects lacaniensーー「中井久夫のララング論」)

…………

※付記

「父なき時代」以降、男性における《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン)、女性における《男性への推進力 pousse-à-l'homme》(ミレール)の現象がみられるのは事実であるが、ここではそれに触れないまま記した(参照)。

(かつてから超自我なき社会であった日本では、男性における《女性への推進力》、つまり《母との結びつき・母拘束 Mutterbindung》や《母との同一化 Mutteridentifizierung》が欧米にくらべ際立っている。ゆえにフロイト・ラカン理論は、日本においては本来、この観点から調整して読まねばならない)。