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2017年9月27日水曜日

性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel

男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。

Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年)

ーーラカンの「性関係はない」とは、上のようなフロイトの考え方を大胆に表現したものとしてよい。

「〜のようなものはない il n'y a pas」という表現は、性関係を基礎づけることが不可能だということである。…l'énoncé qu'il n'y a pas, qu'il est impossible de poser le rapport sexuel (ラカン、S20、21 Novembre 1972)

すなわち "il n'y a pas de rapport sexuel " ーー邦訳では〈性関係はない〉、ときには〈性関係は存在しない〉とさえ訳されるーーは、「性関係の不在」に言及しているのではない。むしろ《性関係を基礎づけるものはない》という意味である。

ーー〈性関係は存在しない〉とは誤訳の範疇に入るとわたくしは思う(もっとも「性関係はない」という邦訳も「正しい」とは言えない。あくまで《性関係を基礎づけるものはない》というほぼ厳密な説明的訳を簡潔に訳した、次善のものである)。

たとえばジジェクは厳密な表現の仕方で、《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク、2012)としているが、 "il n'y a pas de rapport sexuel "を「性関係は存在しない」と訳してしまったら、この《女というものは存在しない la Femme n'existe pas》の「存在しない n'existe pas」と区別されえない。

ラカン用法において、「存在しない n'existe pas」とは象徴界には存在しないことであり、現実界における存否は問うていない。他方、 "il y a"あるいは "il n'y a pas"は現実界のレベル(象徴界の裂目(穴)に外立 ex-sistence にするものというレベル)での有無である(これも基本的にそうだろう、ということであり、ラカンが口頭のセミネールで、常に厳密にそのように使っているとは言い難い)。

ーー仏語の"il y a"とは、独語の"es gibt"のような表現であり、"es gibt"は、ハイデガー邦訳では「存在がある」とされるようだ。(不詳だが)おそらく「存在を基礎づけるものがある」という意味だろう。すなわちハイデガー用語「外に立つ Ex-sistenz」とは、ラカンの外立ex-sistenceである。《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(S22)


ジジェクは次の文で、 "il n'y a pas de rapport sexuel " を《性関係を普遍的に保証するものはない》としているが、これはラカンの《性関係を基礎づけるものはない》とほぼ等価である。

ラカンが「性関係はない there is no sexual relationship」という逆説的な表現であらわしたものとは、パートナーとの調和的な性関係を普遍的に保証するものはない、ということである。個々の主体が自分なりの幻想、つまり性関係の「私的な」公式を作り上げなくてはならない。女性との関係が可能なのは、唯一、パートナーがこの公式にフィットしたときだけである。(ジジェク『ラカンはこう読め』私訳)

あるいは、《「性関係はない」……性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。》(同上ジジェク)

…………

以下はやや難解版だが、これも付け加えておこう。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン (Vorstellungs-Repräsentanz 表象代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

《表象代理は二項シニフィアンである Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire.》《表象代理(Vorstellungsrepräsentanz)は、カップル couple の徴示的S2(le signifiant S2)である。》(ラカン、S11)

ーーこの S2 は実質上は S(Ⱥ)、すなわち原抑圧のシニフィアンのことである、だがはっきりと、"S(Ⱥ) est le signifiant de l'Urverdrängung"といっているラカン派の注釈者は(わたくしの知るかぎり今のところ)いない。ジジェクの上の文は、 すくなくとも S2 =S(Ⱥ)が、半ば口から出かかっている、とわたくしは思う。

フロイト概念の核心、Vorstellungs-Reprasentanze(表象代理)は、不可能な・排除された表象の象徴的代理(あるいはむしろ代役 stand-in)である。(ジジェク、『幻想の感染 THE PLAGUE OF FANTASIES』1997 )

表象代理 Vorstellungrepräsentanzは、欲動代理 Triebrepräsentanzen と等価である(参照)。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drang の相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

ーーRICHARD BOOTHBYは、《つねに残余・回収不能の残り物がある》で記しているが、これは、フロイト用語においては《残存現象 Resterscheinungen》のことである(参照)。

…………

さて話を戻せば、結局、セミネール20(アンコール)に現れている性別化の式が《性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel 》の把握のための核心である(同時期のL'ÉTOURDIT(14 juillet 72、オートルエクリ所収)に現れる表現、pourtout 全体化(全てに対して)/pastout 非全体(全てではない)がその最も簡潔版)。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ジジェクは、ラカン理論の二つの華である「四つの言説」と「性別化の式」の統合を2012年の書で試みているが、ここではその図を掲げるだけにしておく(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。



(さらには、後期ラカンにおいて "il n'y a pas de rapport sexuel" から "il y a du non‐rapport (sexuel)"ーー後者は「性的非関係 non-rapport sexuel がある」とでも訳せるかーーへの移行があり、これはカントの否定判断の無限判断との間の相違にぴったりフィットするとも言っている。ここでのジジェクは、反ミレールの Guy Le Gaufey の議論に大きく依拠している)。


ところで前期ラカンは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)としているが、ジジェクの次の文は、この男性のフェティッシュ(ファルス化された対象a)的愛/女性の被愛妄想の対比としても読め、《性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel》の注釈として、すこぶる秀逸だとわたくしは思う。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。

しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は物欲しそうな眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファルス的存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因(対象a)に還元してしまう。

この非対称ゆえに、「性関係はない」のである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。

われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同じ空間内で、同時に両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、じつは瓶ビールである少女について幻想すればいい。(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳 P.99~、一部訳語変更)

すなわち《性関係を基礎づけるものはない》とは、《ビール瓶を抱いたカエル》という関係なのである。このイメージは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 と女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》とピッタリではなかろうか? これがわれわれの日常の性関係の姿であることをしっかりと悟らねばならぬ・・・

最後に「伝説の女性コラージュニスト」と呼ばれることもある岡上淑子さん(1928年生れ)の2013年の作品「招待」を掲げておこう。