このブログを検索

2017年9月26日火曜日

リーベの迷宮

私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。(「安吾の新日本地理 01 安吾・伊勢神宮にゆく」) 
木暮村へ到着忽々、まづ下婢の美貌にたぢろいだのが皮切りで、その後村を歩いてゐると、藁屋根の下に釣瓶の水を汲む娘や、柴を負ふて山を降る女達、また往還の日当たりに乾瓢をほす女などに、出会ひがしらに思はず振向きかけるやうな美人を見出すことが多い。勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)

ーーこうやって女に「あこがれ」るのは、愛なのだろうか、欲望なのだろうか?

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)

私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-(……)

知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に 
地上のどんな道でも、やわらかな稲の香り-藻草の匂い
家鴨の羽、葦、池の水、淡水魚たちの
微かな匂い、若い女の米をとぐ濡れた手-冷たいその手

ーー『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之訳)

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)

《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)

…………

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

…………

わたくしは自らを「愛の人」と思い込んで生きてきたが、最近になって(ようやく)実は「欲望の人」ではなかったか、と疑い始めている、ーーと書けば大袈裟になる。実は、愛についても欲望についてマトモに考えていなかったというのが正しい。

リーベ Liebe は、愛 amour と欲望 désir の両方をカバーする用語である。もっとも人は愛の条件と性的欲望の条件の分離を観察する場合がある。ゆえにフロイトは、欲望する場では愛することができず、愛する場では欲望することができない男のタイプを抽出した。(ミレール、1992、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、pdf)

フロイトは、女性的「対象選択 Objektwahl」を愛と欲望の収束、男性的「対象選択」を愛と欲望の分離としている。そして男性のある種のタイプは、《愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.》(フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて Uber die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens」1912)

《欲望する場では愛することができず、愛する場では欲望することができない男のタイプ》とあるが、そうでない男のタイプがあるのが、わたくしにはいささか信じがたい。

結婚生活を例にとってみても、わたくしは二度しているが、妻を愛しているかどうはは別にして(いや愛していた(いる)、と思う)、欲望することが少なくなっていったのは確かである。

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)

ーーラカンがいうように愛とは性とは関係がないとして、では愛の結婚生活を送っても、そのとき性的欲望はどう処理したらよいのか? 「もう我慢できない、あなたフケツよ! 」と言われて、妻に出て行かれないようにするためには。

今の妻も一度出て行ったことがある。すると強い欲望の対象へと再豹変した。今思い返せば、最も激しい官能的な性交をしたのは、逃げさる妻をふたたび捉えたときである。

出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト「逃げ去る女」)

獣めく夜もあった
にんげんもまた獣なのねと
しみじみわかる夜もあった

シーツ新しくピンと張ったって
寝室は 落葉かきよせ籠り居る
狸の巣穴とことならず
なじみの穴ぐら
寝乱れの抜け毛
二匹の獣の匂いぞ立ちぬ

ーー茨木のり子「獣めく」『歳月』所収

だがその後やはりふたたび友だちになってしまった、それは安吾の云う通り。

浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

そもそも男はクンデラの名言から逃れうるのだろうか?

三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

三回を越えた女と短い期間の逢瀬、三週間の間をおかない女との長年のつきあい、そこでは対象aがほとんど間違いなく消え失せてゆく。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

仮にジジェクのいうように結婚相手を愛の対象として「崇高化」しても、そのとき性的欲望はどう処理せよ、というのか。情熱なしの退屈な義務だって? そんなものは御免被るね・・・変態プレーを導入しても長続きはしなかった・・・

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非理想化する。だがかならずしも非崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)
誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)