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2017年9月25日月曜日

三人目の女

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。 

ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)

「あこがれ」とは何だろう、究極的な「あこがれ」とは。 おそらく「三人目の女」へのあこがれである。三人目の女の選択とは、《われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし》(シェイクスピア)である。

…………

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。 (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体がひとつになりっこない qu'en aucun cas deux corps ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 le sens de l'élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー「三人目の女 La troisième」とは、通常、三回目のローマ講演とまず言われるらしいが、フロイトも三人目の女について語っている(上にラカンが言及しているフロイトの神話とは、プラトンの『饗宴』におけるアリストファネスの神話(『快原理の彼岸』で言及)だと思うが、ここではその話ではない)。

ボーシャ:……さあ、お選びください。

モロッコ大公:最初のは金の箱、銘が刻んであるな、「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。次は銀、これは約言か、「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。三番目は鈍い鉛だ、その警告もぶっきら棒だ、「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」。(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)

フロイトの『小箱選びのモティーフ』1913年は、『ヴェニスの商人』と『リア王』をめぐって書かれている。上の文は金の女、銀の女、鉛の女と解釈される。三人目の女とは鉛の女である。

ここでは『リア王』をめぐる箇所は割愛するが、このフロイトの論の最後にはこうある。

ここに描かれている三人の女たちは、男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。すなわち、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女 Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin である。

あるいはまた、人生航路のうちに母の形象が変遷していく三つの形態であることもできよう。すなわち、母それ自身 Die Mutter selbst、男が母の像を標準として選ぶ愛人 die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 die Mutter Erde, die ihn wieder aufnimmt である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、女の愛 Liebe des Weibes をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者 die dritte der Schicksalsfrauen、沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』、1913)

ラカンの《ひとつになることがあるとしたら、……死に属するものの意味に繋がるときだけである S'il y a quelque chose qui fait l'Un,…… le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort》とは、まさにフロイトのいう三人目の女、《沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin》にかかわるだろう。

…………

(Lacan, S19, 03 Février 1972)


仮象(見せかけsemblant)の存在であるわれわれ人間は、享楽(大他者の享楽 jouissance de l'Autre )と融合したい(究極のエロス)。だがそんなことは不可能である。

ミレールは見せかけsemblantの下部にある隠された真理 vérité について次のように注釈している。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的つながりの現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。

tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant(ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

性関係の不在(《性的非関係 non-rapport sexuel》)ゆえに大他者との融合は不可能である。そして剰余享楽が生じる。剰余享楽 plus-de-jouir とは《享楽の欠片 les lichettes de la jouissance》(LACAN, S17)である。



もうひとつ、ミレールの云う《話す身体 le corps parlant》とは、身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)のことである。そして欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(S20)である。究極のエロス(大他者の享楽)は不可能=死であるがゆえに、人は漂流する。すなわち喪われた享楽 jouissance perdue =究極のエロス(死)の周囲を永遠に循環運動(漂流 dérive)する。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance(ラカン、S17)

これこそわれわれの生の反復強迫である。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

それは萩原朔太郎が言っている通りである。

燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。(萩原朔太郎「青猫」序)

燈火とは《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant 》である。燈火に融合したら死が訪れる。ここにも三人目の女がいる。

ラカンの対象aとはフェティシュ(幻想的囮)であるとともに、循環運動自体のことを言う。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク2016, Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , pdf)
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

…………

ところで「エロ道」の反復強迫とは何だろう。これも循環運動だろうか?

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

エロ道とは三人目の女ではなく二人目の女ーー性的対象としての女ーーにあこがれているようにみえるが、わたくしは今のところまだ考え込めていない(そもそもひとは三人目の女は不可能なのだから、実のところ皆二人目の女にあこがれるのではなかろうか?)

問題は二人目の女であったはずの女が、通常、別の女になってしまうことである(女のゼロ度?)

浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

21世紀日本ではこういうことをいっても許してもらえそうもない。おそらくよっぱどいい男以外は。 実に難問である。

……よい結婚というものがあるとすれば、それは恋愛の同伴と条件をこばみ、友愛の性質を真似ようとする。結婚は人生における甘美な結合であり、恒常と、信頼と、無数の有益で堅実な相互の奉仕と義務に満ちた結合である。

結婚は有益と正義と名誉と恒常を本文とする。平坦ではあるが斉一な快楽である。恋愛はただ一つの快楽の上にもとづいている。しかもこの快楽は、実際に、いっそう甘美で強烈で鋭敏である。困難によって掻き立てられる快楽である。これには刺激と焼灼が要る。恋愛に矢と火がなくなれば、もはや恋愛ではない。ご婦人方が惜しみなく与える愛情は、結婚においては、過剰となり、愛情と欲望の鋒先を鈍らせる。(モンテーニュ『エセー』)

モンテーニュを参照したって解決できない難問である・・・熟考せねばならぬ・・・

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう二』)

いやいやプルーストでも解決しがたい・・・

いまはエロ道、これも《快の獲得 Lustgewinn》には相違ない、とだけしておく。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud『Abriss der Psychoanalyse 精神分析学概説』草稿、死後出版1940年)

…………

最後に女性の方向けに、シェイクスピアを引用しておくことにする。

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)