ファルス期 phallischen Phase の受動的な心の動きのなかでも際立っているのは、少女はいつでもきっと母に誘惑者 Verführerin の罪をきせることであり、その理由は身体を洗ったり世話をしてもらったりしたときに母(または母の代理人、養育者など)によって最初のしかも最も強い性器の刺激を感じざるをえないようにさせられた、ということである。(フロイト『女性の性愛について』1931年、私訳)
我々は、少女の前エディプスの先史時代 präödipalen Vorgeschichte における誘惑ファンタジー Verführungsphantasie を見出す。しかし誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚 Lustempfindungen を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年、私訳)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源があるdie Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
人は侵入されたら侵入し返す傾向がある。
治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)
性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil、Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 、2010、PDF)
ラカンにとって、《享楽の侵入 une irruption de la jouissance》の最初の《刻印 inscription》をするのは母である(参照:「侵入・刻印・異物」)。
そしてこうも言っている。
ーー《すべての女性に母の影は落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。》(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
フロイトにとっては、《娼婦愛 Dirnenliebe》でさえ母のコンプレックスーーここではブロイアー起源の《観念複合体 Ideen Complex》として「コンプレックス」という語を捉えなければならないーーに起源がある。
上の文は次のような文脈のもとに書かれている。
ある型の男性は、《愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben. 》(フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて」1912年)
場合によっては、《誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。》(『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年)
ーーここには古来からの名高い格言「一盗二婢三妾四妓五妻」がある。
もっともこれらはすべての男性のタイプではないことを、当たり前だが、強調しておこう。たとえば神経症的に「父の名」が十分に機能していればーーファルス秩序の囚人であればーー、こうでなくなりうる。
ーーわれわれは原初の「母なる性的ハラスメント者」に対抗するために「父の名」が必要なのである・・・
ところで「父の名」を課すとは、ファザーコンプレクスを課すこととどう異なるのだろう。「父」を「父の機能」という風に捉えれば、ファザコンはマザコンの上に課されなければならない、と言いうるのではないだろうか。
「ファザコンはマザコンの上に課されなければならない」とするときのファザコンとは、後期ラカンの概念「サントーム sinthome」も含めて考えている、《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2009)。
…………
※「誘惑者」という用語を使っていない、おそらくより一般に受け入れやすいフロイトにとっての原初の母子関係についての考え方は 「われわれの出発点」を見よ。とくに《母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter》(『制止、症状、不安』)という形でトラウマという用語を使っている等。
トラウマという語もコンプレックスと同様に、フロイト・ラカン派においては巷間で一般に使用されているのとは大きく異なる意味合いをもっている。
ほかにも、たとえばwikiのマザーコンプレックスとファザーコンプレックスの項には次の記述がある。
日本語版wikiには、しばしば驚くべき初歩的な誤謬が書かれているので、この項についてもことさら文句をいうつもりはないが、上にフロイト文を引用したように、フロイトは「マザーコンプレックス Mutterkomplex」「ファザーコンプレックス Vaterkomplexe」という用語を使っている。
《女 la femme》は、性関係において、quoad matrem、すなわち《母 la mère》としてのみ機能する。
…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
ーー《すべての女性に母の影は落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。》(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
フロイトにとっては、《娼婦愛 Dirnenliebe》でさえ母のコンプレックスーーここではブロイアー起源の《観念複合体 Ideen Complex》として「コンプレックス」という語を捉えなければならないーーに起源がある。
男児は、母が性交を、彼自身とではなく父とすることを許さない。彼は、それを(娼婦と同様な)不貞な行為と見なす。(……)
こうして我々は心的発達の断片への洞察を得た。…娼婦愛 Dirnenliebe…娼婦のような対象を選択する愛の条件 Liebesbedingung は、直接的にマザーコンプレックス Mutterkomplex に由来するのである。(……)
ある種の男性の愛の型…それは思春期において形成された幻想への固着にある。それが結局、後の実際の生活に出現するための隘路を見出すのである。(……)
(娼婦の)救出モチーフ Rettungsmotiv は、…マザーコンプレックス、より正確には親コンプレックス Mutter- oder, richtiger gesagt, des Elternkomplexeの独立した派生物である。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne』1910年、私訳)
上の文は次のような文脈のもとに書かれている。
ある型の男性は、《愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben. 》(フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて」1912年)
場合によっては、《誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。》(『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年)
ーーここには古来からの名高い格言「一盗二婢三妾四妓五妻」がある。
もっともこれらはすべての男性のタイプではないことを、当たり前だが、強調しておこう。たとえば神経症的に「父の名」が十分に機能していればーーファルス秩序の囚人であればーー、こうでなくなりうる。
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)
ーーわれわれは原初の「母なる性的ハラスメント者」に対抗するために「父の名」が必要なのである・・・
ところで「父の名」を課すとは、ファザーコンプレクスを課すこととどう異なるのだろう。「父」を「父の機能」という風に捉えれば、ファザコンはマザコンの上に課されなければならない、と言いうるのではないだろうか。
宗教、道徳、社会的感覚ーー人間における高等なものの主要内容ーーは元来一つであった。(……)これらは系統発生的にファザーコンプレックス Vaterkomplexe から得られ、宗教と道徳的制約は本来のエディプスコンプレックス Ödipuskomplexes を支配することによって、そしてまた、社会的感情は若い世代の仲間い起こる競争をなくす必要によって得られた。(フロイト『自我とエス』1923年)
「ファザコンはマザコンの上に課されなければならない」とするときのファザコンとは、後期ラカンの概念「サントーム sinthome」も含めて考えている、《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2009)。
…………
※「誘惑者」という用語を使っていない、おそらくより一般に受け入れやすいフロイトにとっての原初の母子関係についての考え方は 「われわれの出発点」を見よ。とくに《母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter》(『制止、症状、不安』)という形でトラウマという用語を使っている等。
トラウマという語もコンプレックスと同様に、フロイト・ラカン派においては巷間で一般に使用されているのとは大きく異なる意味合いをもっている。
われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé(ミレール、«Vie de Lacan» , 17 mars 2010ーー「女とは「異者としての身体」のこと」)
ほかにも、たとえばwikiのマザーコンプレックスとファザーコンプレックスの項には次の記述がある。
子供の母親に関する感情の理論はジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングが唱えた。だが、彼らがマザーコンプレックスという用語は使ったことはない。
父親に対する感情はジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングが語ったが、彼らはファーザー・コンプレックスという用語は使っていない。
日本語版wikiには、しばしば驚くべき初歩的な誤謬が書かれているので、この項についてもことさら文句をいうつもりはないが、上にフロイト文を引用したように、フロイトは「マザーコンプレックス Mutterkomplex」「ファザーコンプレックス Vaterkomplexe」という用語を使っている。