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2017年9月23日土曜日

高麗笛



ーー ははあ、すばらしい。ビックリした。

だがなにがすばらしいのかは言わないでおく(内政にも外交にもとびきりのすぐれたメッセージであるなどと主張するつもりはない。あくまで天皇・皇后両陛下の私的旅行である)。

とはいえ高麗神社について、一週間ほどまえに読んだところだった、というのも「すばらしい」のうちのひとつである。

今日では埼玉県入間郡高麗村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能行きで終点まで行き、吾野行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗です。
この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。(安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― )


そのとき、読んだだけではなく、高麗神社の映像まで見ている。

◆高麗神社 桜の下で雅楽とあそぶ 2010年3月28日


改めて笛の音にきき入ると、モウイイカイ、マアダダヨオ、という子供たちの隠れんぼの声が、この笛の音律と舞いの内容に深いツナガリがあって民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきたものではないかと思われ、そう信じても不当ではないと言いきりたいような大きな感動に私はひきこまれていたのであった。

安吾の言うように高麗笛(こまぶえ)の響きは徹底的に美しい。

この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅に亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
霊亀二年五月に今の高麗村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた」 とある通り、すでに各地に土着しておったコマ人を一ヶ所にまとめたにすぎない。 

これがコマ人の総数でなかったことは確かであろう。恐らくそれ以前に日本各地に土着したコマ人たちは、単に部落民として中央政府の支配下に合流して自らをコマ人、クダラ人、シラギ人などと云うことなく新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違なく、これに反して、すでに日本の諸地に土着しつつも敢てコマ人と称して異を立てておった七ヶ国のコマ人一千七百九十九人の方が珍しい存在と云うべきであろう。彼らが土地を移して一ヶ所にまとめられた意味はそういうところにあるのかも知れない。(安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― )

武満徹の秋庭歌も高麗笛(こまぶえ)を使っている。じつは三日ほどコマ笛の音色が頭のなかで鳴っていた。風で木の葉が揺れるとことさら鳴るのである、《民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきた》かのようなあの音色が。そしてわたくしの知らない「京城の深く青く凛として透明な空」に思いを馳せたのである。