2017年5月15日月曜日

侵入・刻印・異物

「喜ばしい」外傷性記憶」にて、中井久夫による「刻印」と「侵入」という語を拾ったので、別の論の「異物」という語も含めて、トラウマをめぐる資料編として簡略に整理。

◆中井久夫

【刻印】
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

【侵入】
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の重要な症状項目である侵入症候群を構成する記憶こそまさに古型の記憶(フラッシュバック的記憶)だといういうことができる。(同「記憶について」)


【異物】
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

…………

◆次にフロイトによるもの。

【異物と侵入】
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss

ただしこうもある。

心的組織は実際は、異物 Fremdkörper のように振舞わない。むしろ侵入物(浸潤 Infiltrat)のように振舞う。

Die pathogene Organisation verhält sich nicht eigentlich wie ein Fremdkörper, sondern weit eher wie ein Infiltrat. (同『ヒステリー研究』1895年)

一般的にはブロイアーとのこの共著で、ブロイアーは「異物」を強調し、フロイトは「侵入」を強調した、とされる。

もっとも後年フロイトは次のように記していることから判断すれば、「異物」概念は生きている。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状、das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


【侵入する欲動興奮】
心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

ーー《幼児は、自らの欲動興奮を外部から来る何ものかとして経験する。ラカンは、この欲動興奮を“ a ”と記した。》(ポール・バーハウ2005、Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject)


【刻印(≒固着)】
もしも心的行為が(ここでは表象という性質を持ったものにかぎろう)「システム無意識 System Ubw」から「システム意識 System Bw」(あるいは「前意識 Vbw」)への変換を受けるとしよう。その場合、この変換とともに再度の「固着 Fixierung」、いわばその表象の第二の「刻印(記載 Niederschrift)」が行なわれる、とみとめるべきだろうか。つまり、その刻印が新しい心的局所にふくまれると同時に、本来の無意識的刻印もそのまま存続していることをみとめるべきであろうか。あるいは、むしろその変換はおなじ素材、おなじ局所で遂行される状態変化のうちに成り立つものと信じるべきであろうか。(フロイト『無意識』1915年)

Wenn ein psychischer Akt (beschränken wir uns hier auf einen solchen von der Natur einer Vorstellung) die Umsetzung aus dem System Ubw in das System Bw (oder Vbw) erfährt, sollen wir annehmen, daß mit dieser Umsetzung eine neuerliche Fixierung, gleichsam eine zweite Niederschrift der betreffenden Vorstellung verbunden ist, die also auch in einer neuen psychischen Lokalität enthalten sein kann und neben welcher die ursprüngliche, unbewußte Niederschrift fortbesteht?


※「固着」補足
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

※参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」

…………

◆次にラカンおよびラカン派版

【侵入】
「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan,S17、11 Février 1970)

【刻印】
・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970 )

・享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。…その徴は、裂目 clivage・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corpsから来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(S17、10 Juin 1970 )

ーーフロイトには《第一次的な欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungen 》という表現がある(『否定』1925年)

※後期ラカンには、《 Yad'lun(一のようなものがある)》という表現があり、これは「一の徴」よりいっそう根源的な概念だが、ここでは触れない(参照)。


【異物】
古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscientは、まさに我々の身体 corpsのなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

…………

【異物と外密】

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)

ーーEx+親密 intimité=外密 Extimité ーー《自我でありながら自我以上のもの moi et plus que moi》(プルースト)、《あなたの中のあなた以上のもの、〈対象a〉 chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)》(ラカン、S11)


【対象a の両義性】
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

究極の外密=対象aとは、象徴空間の「内に向かう湾曲」形態自体である。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

最後にもう一度中井久夫の文を再掲しておこう。

語りとしての自己史に統合されない「異物」……幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(「発達的記憶論」)

ーーここで中井久夫は、内容ではなく形態としての異物を指摘している。これはジジェク曰くの、象徴空間の「内に向かう湾曲」形態自体という指摘と相同的である。


…………

※付記:初期ジジェクの外密・異物・対象aをめぐる見事な叙述をここに付記しておこう。

………フロイトの「コペルニクス的転回」、すなわち自己中心的な人間像の転倒を、啓蒙主義の否定として、つまり自立した主体――外的な権威の束縛から解放された主体――という概念の脱構築として、捉えるべきではない。フロイトの「コペルニクス的転回」の核心は、主体が究極的には、自分では把握できない未知の力(無意識的な欲動など)に操られている人形にすぎないことを証明したことではない。この素朴で自然主義的な無意識の概念を、主体を言語そのものが語る場所にする、つまり脱中心的な意味作用のメカニズムの一審級にする、「大他者の言説」としての無意識というより洗練された無意識の概念に置き換えたところで、事態は改善されない。

ラカンの命題の中にはこの構造主義的な概念を反映しているものがいくつかあるとはいえ、この種の「脱中心化」ではラカンのいう「フロイトへ帰れ」の目標を捉えることはできない。ラカンによれば、フロイトは、〈生の哲学 Lebensphilosophie〉に見られるような、「非合理な」欲動の犠牲者という人間像を提唱しているのではない。フロイトは、啓蒙主義の根本的な態度、すなわち外的な伝統的権威や、主体が自己とのネガティヴな関係の空虚で形式的な点に還元されることを拒否するという態度を、無条件で受け入れている。

問題は、この自立した主体は、それ自身を自分の太陽として、「それ自身のまわりを回りながら」、それ自身の中にある、なにか「それ以上のもの」と出会う、自分自身のいちばん中心に異物を発見するということである。これこそが、外密 extimité というラカンの造語が指し示しているもの、つまり私の内面世界の真ん中にある異物 Fremdkörper である。主体は、まさに「それ自身のまわりだけを回り」ながら、「それ自身の中にあってそれ自身以上のもの」、すなわちラカンが das Ding というドイツ語であらわしている外傷的な享楽の核のまわりを回っている。主体とはおそらく、この循環運動の、すなわちもっと近くに寄るには「熱すぎる」、この〈モノdas Ding〉との距離の、別名である。

この〈モノ〉があるる故に、主体は普遍化に抵抗し、象徴的秩序内の場所――たとえば空っぽの場所だとしてもーーに還元することはできない。この〈モノ〉のために、ある点までくると、隣人愛は必然的に破壊的な憎悪に変わるのである。それは次のようなラカンのモットーと一致しているーー《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile》(ジジェク『斜めから見る』1991年)