具体的なものを失わずに、 絶えずそこへと立ち返ってください。多様体、 リトルネロ、 感覚、 等々は発展して純粋な概念になりますが、それらはある具体的なものから別の具体的なものへの移行と緊密に結びついているのです 。(ドゥルーズ書簡ーー弟子筋のクレ・マルタン宛)
人は具体的なものに立ち返えらなければならない。だが、わたくしが具体的なものに立ち返ると、つねに「女」となってしまう。わたくしの「アンリエット・ガニョン夫人」が起源としてあるリトルネロに。
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)
ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)
ーージュラール・ジュネットは、このスタンダール文の《省略法、人を動揺させずにおかぬ沈黙の効果》に感嘆している。エクリチュールは雌鹿のように活発に軽やかに、視線の上を跳び越えてゆく。この《ひと跨ぎ un enjambement》によって何が起こったのか。見てはならず、見たら死なねばならぬものの一閃である。
この一閃についてはわたくしはスタンダールの文才がないので語り難い・・・
ロラン・バルトも実は常に彼自身の「アンリエット・ガニョン夫人」の一閃をめぐって語っていたのではなかろうか、とわたくしは睨んでいる。
…………この一閃についてはわたくしはスタンダールの文才がないので語り難い・・・
ロラン・バルトも実は常に彼自身の「アンリエット・ガニョン夫人」の一閃をめぐって語っていたのではなかろうか、とわたくしは睨んでいる。
・プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなしみ petite tache、小さな裂け目 petite coupure のことでもありーーしかもまた、骰子の一振り coup de dés のことでもある。
・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。
・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。
・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。
・ある本質(心の傷の)une essence (de blessure) …それは変換しうるものではなく、ただ固執 l'insistance する。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
さてここでリトルネロをめぐる文章をいくらか列挙しよう。
・迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour (Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)
・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)
・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)
リトルネロとしてのララング(母の舌語)lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…Etre amoureux, c'est se perdre dans un labyrinthe. l'amour est labyrinthique. Par les voies de l'amour, on ne s'y retrouve pas(ミレール1992「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
上で見たように、リトルネロとはリフレイン、反復(永遠回帰)である。だが音楽用語としてのリトルネロの文字通りの意味は「回帰する小さなもの the little thing that returns」だそうだ。
「小さなもの」とはおそらく切片であり欠片である。
潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance 》(ラカン,S17, 11 Mars 1970)
いやいや具体的なものに立ち戻らなければならない。
リトルネッロ形式(伊:Ritornèllo)は、西洋音楽の楽曲形式の一つ。
バロック時代の協奏曲に多く見られた形式で、リトルネッロと呼ばれる主題を何度も挟みながら進行する。ロンド形式と類似しているが、ロンドの場合にロンド主題が毎回同じ調(主調)で奏されるのに対し、リトルネッロ形式では、楽曲の最初と最後以外は主調以外の調で奏される。また協奏曲では、リトルネッロを全合奏で、リトルネッロに挟まれた部分を独奏楽器(群)が奏する。(WIKI)
最初の主調は外傷的記憶の側面がある母のリトルネロ(ララング)であれ、移調して反復されれば原トラウマの衝撃は薄れるはずである。最後に主調に戻ればよいのである。それは「死」のときである。
ここで音楽用語であるリロルネロの基本を「具体的に」確認しておこう。
◆Vivaldi. L'estro Armonico. Concierto en La menor Op.3 nº 6 I Allegro. Análisis.
リトルネロはこういったものである。プルーストが母の主調を移調させ、ジルベルト、オデット、ゲルマント夫人、アルベルチーヌ、そしておそらく家政婦フランソワーズへとリトルネロしたように。
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◆Vivaldi. L'estro Armonico. Concierto en La menor Op.3 nº 6 I Allegro. Análisis.
リトルネロはこういったものである。プルーストが母の主調を移調させ、ジルベルト、オデット、ゲルマント夫人、アルベルチーヌ、そしておそらく家政婦フランソワーズへとリトルネロしたように。
愛の反復は、セリー的反復である。ジルベルト、ゲルマント夫人、アルベルチーヌに対する主人公の愛は、ひとつのセリーを作っていて、そのセリーの中でそれぞれの関係項が小さな差異をもたらすのである。《せいぜいのところ、この愛においては、われわれがあれほど愛した女は、ひとつの特別なかたちを付け加え、そのかたちによって、われわれは不忠実な場合でさえも彼女に対して忠実になるだろう。次の女に対して、われわれが同じ朝の散歩が必要であり、夜はまた彼女を連れて行き、くり返して沢山の金を与えることが必要となろう。》 しかしまた、セリーのふたつの関係項の間でも、反復を複雑なものにする対立関係が現われる。《ジルベルトに対する愛のあとでは、その運命を予感できるように考えていたアルベルチーヌへの私の愛は、何と完全にジルベルトへの愛と対立して発展したことだろう。》 そしてとくに、われわれが愛のひとつの対象から別の対象へと移るとき、われわれはセリーの中での進行のひとつの理由として、《新しい領域、生活の別の緯度のなかに入ってくるにつれて目立ってくる変化の指標》として、愛の主体のなかに蓄積された差異を考慮しなくてはならない。つまり、微小な差異と対立関係とにまたがっているセリーが発展するときは、必ずこのセリーの法則へと集約され、それによって愛する者自身が次第に根源的なテーマの理解へと接近するのである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
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ラカンが《リトルネロとしてのララング》というときのララングとは何であったか。
身体とララングとの最初期の衝撃。これが、法なき現実界、論理規則なき現実界を構成する。choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique (ミレール2012, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )
ララング lalangue、すなわち、《母の言葉(母語、母の舌語 la langue dite maternelle)》(S20)である。
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009)
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。
これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。
この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
いずれにせよ、ひとつの核心は声、母の声である。
ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー 『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)
リトルネロは享楽回帰に基づいている。だが究極の享楽とは「死」である。
・死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance
・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母によるララングの徴、それはーー
・その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17、10 Juin 1970)
・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(S.17、11 Février 1970)
ーーリトルネロとは享楽回帰である。永遠回帰とは享楽回帰である。ただし母のララングの徴は反復してもそれ自身と一致しない「絶対的差異」、あるいは「内的差異」(純粋差異)である。
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
反復とは…一般的差異 différences générales から単独的差異 différence singulière へ、外的差異 différences extérieures から内的差異 différence interne への移行として理解される。要するに、差異の差異化 le différenciant de la différenceとしての反復である。(ドゥルーズ『差異と反復』)
・徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
・この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9, 06 Décembre 1961 )