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2017年5月14日日曜日

「喜ばしい」外傷性記憶

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

一見奇妙かもしれない、喜ばしい記憶が外傷性記憶でありうるとは。だがフロイトのトラウマの定義との(大きな)齟齬はない。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)

もっとも後年のフロイトは、《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ》( 『制止、症状、不安』1926年)とも言っている。だがこの文も Hilflosigkeitをどう捉えるかによって、ーーたとえばラカン的に「言語で表象しえない」表象無力とすればーー大きな齟齬はなくなる。

基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

ラカンはその晩年レミニサンスという言葉を出している。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

レミニサンスとは、「ソドムとゴモラ」の「心情の間歇 Les intermittences du coeur」の章ーープルーストは『失われた時をもとめて』の題名を最初は「心の間歇」にしようと考えていたーーにあらわれる《残存者と虚無との痛ましい再統合 》であるとともに(参照)、「見出された時」にあらわれる《あのような幸福の身ぶるい》を与えてくれる《きらりとひらめく一瞬の持続 、純粋状態にあるわずかな時間》でもある。

…………

以下、冒頭の中井久夫の文の前後を長く引用する。

私の記憶は生誕時から連続しているわけではない。ではいつから連続しているのであろうか。ある時期までの記憶はフラッシュバック的記憶であって、文脈を持たず、つまり前後関係がわからず、言葉で表現しにくく、揺らぎがなくしんと静まって、スティール写真のような鮮明な静止映像、多くは視覚映像であるが、聴覚、触覚、振動感覚などであってもよい。多少の動きはあってもよいが、単純で短時間の動きである。この記憶は感情を伴わず(離人的ともいいうる)、加工がなく、年をとらず、おそらく老化さえしないかもしれない。ただ、言語化することがますます困難となって、砂漠の河のごとく消えることはありうる。

それ以後の時期の記憶は、これに対して、文脈を持っていて、前後関係があり、ビデオ的あるいは映画的いやそれ以上にダイナミックであって、終始動きの中にあり、自己言及的であり、言語化されて「語り narrative」となり、それをとおして個人史の中に位置づけられる。おそらく人はこれ以後の記憶にもとづいて自我と人格の連続性、唯一性、一貫性、整合性、独自性の感覚を持つのである。ある時期以前の記憶は、これに反して、決して自我感覚に貢献せず、そのままの形ではその人の人格の形成に参与しない。(……)

臨界的な時期以後の記憶が個人的な記憶の意味でのエピソード記憶である。あるいはエピソード記憶は、フラッシュバック的記憶(f 記憶)とパーソナル記憶(p 記憶)とに分けて考えることがよいかもしれない。

p 記憶は個人史の中に位置づけられ、それによって逆に、個人史が絶えず再考され、再発見され、再加工され、再価値づけされるものであるから、その中のp 記憶も絶えずその意味と重みと内容が揺らぎ、時には大きく変化し変動する。このようにp記憶は揺れぎと動きと語りとの直結性とを特徴とする。現在を生きることによって過去はたえず変化する。「純粋過去」というものはない。

この二つの記憶の相違は19世紀の最後の10年間に、ヒステリー患者の解離性言明との関連において、ピエール・ジャネにおいてすでに意識されていた。つまりジャネはここでいうf 記憶はそもそも記憶ではなく「記憶以前」とした。

ここで私は、最近の心理言語学の成果に注目する。彼らは、二歳半から三歳を中心とする時期に、数ヵ月という短期間に「成人文法性 adult grammaticality」が顕在化することを指摘する。そして、この顕在化するものは元来生得的な「言語の深部構造(d 構造)」として中枢神経系に潜在的に存在していたものであると考える。チョムスキーのデカルト的言語学の再発見と拡大ということもできる。幼児語で育てられたものもこの時期に成人文法に従って言語を使用する。そうでなくても幼児の周りで飛び交う言葉は文法的には不完全である。それなのに三歳児が急速に成人文法性を表すのはふしぎといえばふしぎである。たしかに、ある時期、小児は大人の言葉の言い損ないや文法違いを指摘して面白がる。つまり、この年齢的境界線はf 記憶とp 記憶との年齢的境界線とほぼ一致するのではなかろうか。

精神分析学でも、ほぼ同じ時期(三歳から五歳)をエディプス期として重要視する。特にバリントは、問題を言語面に移して、この時期を成功裡に突破して初めて成人共通言語 common adult language が成立すると言っている。その理由は成人型の三者関係がエディプス期通過によって初めて成立するからであるという。

彼の関心はそれ以前にあって、それ以前は特殊な濃密な二者関係であり、その言語を成人言語に引き上げて理解すると無理が生じるという。同じ幼少期早期への関心は多くの精神分析学者にある。実際、1920年以後の精神分析は、エディプス以前の時期に退行している患者とのコミュニケーションをめぐって展開してきたといってさえよい。メラニー・クラインが特殊な言語を発明してこれを以て患者と対話したのも、サリヴァンが「プロトタクシス」「パラタクシス」「シンタクシス」の三段階の言語発達論を立てたのも、ラカンが「現実界」「想像界」「象徴界」のヘーゲル的三界を立てたのも、多くの境界例治療者のいう治療原則も、すべて、この言語発達論に関連づけることができる。

成人文法性の成立と三者関係の理解とp 記憶の成立とは互いに連動していると私は思う。このようなものの基盤――成人性(a 性)の基盤(a 基盤)と総称しようーーによって成人型の正常な日常性が存在しえているのである。さらに、私は、それ以前の古い型の記憶(f 記憶)は新しい記憶と言語との関係理解が成立するために、黒板を拭き清めるようにわれわれの意識から遠ざけられ「メタ私」の一番奥にしまわれるのであると考えている。すなわち、およそ三歳以前の記憶の断片性、没文脈性、非人格性などは、単純に「脳の未成熟」ではなく、この「黒板拭き」の結果であると考える。つまり、われわれも昆虫に似て幼虫から蛹を経て成体になる。

言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。

おそらくf 記憶は一般論的に古型の記憶であり、p 記憶は新型の記憶なのであろう。すなわち、f記憶が優勢であった系統発生的な時期が存在していたという仮定である。

PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の重要な症状項目である侵入症候群を構成する記憶こそまさに古型の記憶だといういうことができる。このことにより古型の記憶とその有用性とを推定することができる。患者の報告する型のフラッシュバック的記憶は狩猟時代以前、人間がもっぱら狩られる存在であった時には有用性を持っていたであろう。オオカミの口を危うく逃れた記憶は大きく開いた赤い口と鋭い牙、滴るよだれなどの記憶映像として深く刻印されたであろう。そして、それはオオカミをさけようという非常に強烈な警告になったであろう。また、オオカミ的なものの微かな徴候、あるいはオオカミに遭遇した場所は、端的に回避行動を取らせたであろう。これはPTSD においてもっとも治療しにくく、特に薬物が無効であるとされる「恐怖症的回避 phobic avoidance」そのものである。過去にあってはこういう記銘力を持った者の生存率はそうでない者に比し高かったであろう。この古型の記憶能力は、われわれの心の奥に眠っていていざという時にはまた働きはじめる。つまり危機用の記憶なのである。新型の記憶はその上に乗っかっている上部構造である。つまりPTSD に定義されている外傷性記憶は幼児型の記憶である。それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであってもf 記憶の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。

「身体の外傷は八ヵ月すれば有機化されるが、心の外傷は恒久的に治癒しないことがありうる」ということもできるであろう。なお、覚醒剤を使ったことのある者が長年経ってから起こす覚醒剤を使った時の異常体験のフラッシュバックも、古型の記憶の装置となんらかの関係にあるものであろう。

いっぽう、新型の記憶は極限状況においては麻痺する。これが侵入症候群と対をなすとされている麻痺・狭窄症状 numbing or constriction であると私は思う。そして、一般に考えられているように両者は交代して現れるのではなく、古型の記憶の賦活が目立つか、新型の記憶の麻痺が目立つかの相対的な違いにすぎないと私は思う。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)

…………

プルーストによるレミニサンスの叙述のひとつを抜き出しておこう。《あのような幸福の身ぶるいでもって》《ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間 un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるした》

ーーこれも外傷性記憶の一種でありうる。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実 réalité を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実 réalité にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させた fait miroiter une sensation のであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念 l'idée d'existence を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間 un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質 subsistance、自分の悦楽 délices を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性 réalité を骨ぬきにしてしまうのである。

ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的ではなく現実界的 réels sans être actuels であり 、抽象的ではなく観念的 idéaux sans être abstraitsである二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する situé hors du temps 人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(プルースト「見出された時」井上究一郎訳ーー黒字強調箇所のみ変更)

※続き:侵入・刻印・異物