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2017年8月22日火曜日

女とは「異者としての身体」のこと

《我々にとってマレビトである身体 un corps qui nous est étranger》と記したこと(参照)に異和を言ってくる人がいるので、わたくしが現在とらえているラカンの考え方を出来る限り簡潔に記す。

…………

ラカンにとっての、女とは「異者としての身体」(異物としての身体 corps étranger)のことである。解剖学的な女とは(基本的には)関係がない。

アレンカ・ジュパンチッチは、そのフロイト読解において《厳密な分析的観点からは、実際のところ、一つの性、あるいは一つのセクシャリティしかない》と言っている(Alenka Zupančič、Sexual Difference and Ontology、2012)。

この一つの性に外立するものが、女である(外立 ex-sistenceについては、「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」を参照)。

そして、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976ーー神の仮説

またジャック=アラン・ミレール1990年代にすでに次のように言っている。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

さて、ラカンにおいて《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》という表現は、セミネール23(11 Mai 1976)に出現する(この文の前後は「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照)。

別に次のような表現がある。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

この《他の身体 autre corps》が、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》と等価なものであると明言しているラカン派は、ネット上で調べる範囲ではいない。だがわたくしは等価である、と今のところ判断している。

ところで《異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは、フロイト用語である。

フロイトは1893年にすでにこう記している。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

この独原文は仏語では次のように訳されている。

le traumatisme psychique et, par la suite, son souvenir, agissent à la manière d'un corps étranger qui, longtemps encore après son irruption, continue à jouer un rôle actif ». (Freud, 1893)


すなわち「異物 Fremdkörper」=「異者としての身体 corps étranger」。
後年フロイトは次のようにも言っている。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper》とある。これは上に掲げた《他の身体の症状 symptôme d'un autre corps》のことに他ならない、とわたくしは考える。

ラカンにおいて「他の身体」という表現は、次のような形でも使われている。

…次の考え方は正当化される。すなわちこの「他の身体の享楽 jouissance de l'autre corps」を境界づけるもの、ーーそれがたしかに穴をつくる限りでだがーー、そこに我々が見出すものは、不安である。

S'y justifie que, si nous cherchons de quoi peut être bordée cette jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou, ce que nous trouvons c'est l'angoisse.(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

「穴 trou」という表現が出現するが、ラカンは同時期に身体は穴である、とも言っている。

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice

かつまた前年には、穴ウマとも言っている、《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21、19 Février 1974 )

こうして1893年のフロイト文における《トラウマは異物のように作用する》という表現とまぎれようもなくつながってくる。

したがって《他の身体 autre corps》、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは「穴としての身体」、「トラウマとしての身体」でもある。

これは言語を使用する人間の宿命としてのトラウマである。言語を使用することによって、われわれは身体と切れてしまう。これがラカンにとっての「去勢」である。フロイトの想像的去勢とは異なる象徴的去勢である(参照)。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant

・去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17)

ゆえにジャック=アラン・ミレールは、《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(Miller, «Vie de Lacan» , 17 mars 2010)と言うことになる。

以上。