言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・
Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」五、『偶像の黄昏』)
ーーここでのニーチェの「神」は、フロイト・ラカン的には「大他者」「父の名」あるいは「超自我」として捉えうる(「文」の「法」とは「大他者」=シニフィアンのネットワーク」を支える大他者=法であろう)。
ラカンには「神の仮説 l'hypothèse Dieu」という概念がある。ジジェクの説明をきこう(わたくしが知るかぎりこの概念を具体的に注釈しているのは、ジジェクとロレンゾ・キエーザだけである)。
無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。
L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)
ラカンには「神の仮説 l'hypothèse Dieu」という概念がある。ジジェクの説明をきこう(わたくしが知るかぎりこの概念を具体的に注釈しているのは、ジジェクとロレンゾ・キエーザだけである)。
人は直接的には大他者の不在を手に入れえない。人は先ず大他者に騙されなければならない。というのは、「父の名 le Nom‐du‐Père」とは、「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」を意味するからだ。「知を想定された主体」の錯覚 illusion への屈服を拒絶する者たちは、この錯覚によって隠されている真理を失う。
このことは、我々に「神は無意識的である」へと引き戻す。すなわち〈神〉(知を想定された主体としての神、大他者としての神、経験上のすべての受け取り手を超えた究極の受け取り手としての神)は、半永久的な、言語の構成的構造である。〈彼〉なしでは、我々は精神病となる。ーー〈神-父〉の場なしでは、主体はシュレイバー的妄想に陥る(Lacan, “La méprise du sujet supposé savoir,” 1968)。
「知を想定された主体」としての神は、この上ないものであり、大他者、真理の場の基盤的側面である。このように、大他者は神性のゼロレヴェルである。…《もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu—le dieur—le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説 l'hypothèse Dieu はそこにあるだろう》(Lacan, Le séminaire, Livre XX: Encore)。
我々が話す瞬間、我々は(少なくとも、無意識的に)神を信じている。ここで我々は、ラカンの「神学的唯物論」に、最も純粋な形で遭遇する。発話行為(究極的には、我々自身)そのものが神を創造する。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ニーチェは冒頭に引用した文で、 《私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからである》と記してることを想い起そう。文法とは、われわれの言説(大他者)を支える大他者であろう。
…………
ラカンの神=大他者をめぐる思考の変遷をいくらか追ってみよう。
なぜ我々は、他者 l'autre を大文字のA の〈他者〉« l'Autre » avec un A とするのか。
言語によって与えられる記号を補うよう余儀されるときは常にそうだが、疑いもなく種々の理由がある。その理由、全ての基盤…を次に示すなら、すなわちーー、
《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》というとき、結局何を知っているのか?
《あなたは私の師です Tu es mon maître》、これについて本当に確信が持てるだろうか。
この発話 paroles に「創設的価値 valeur fondatrice」をもたらすもの…このメッセージにおいて目指されてているもの、それが見せかけ(振り feinte)として言われている場合でも同様だが、《絶対的な他者 Autre absolu》としての〈他者〉がそこにいるということである。絶対的、すなわち、この〈他者〉は気づかれ reconnuてはいるが、知られて connu はいないということである。…
同様に、見せかけ feinte を見せかけたらしめているもの、それは結局、人は見せかけか否かを知らないということである。これは本質的なことである。
この本質的な要素、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》のなかの直かの未知 inconnue directe の要素、これが発話関係を特徴づけるものである。(ラカン、S3、30 Novembre 1955)
だがこのあと、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》ということになる。これは象徴的大他者を支える神はないという意味である(《メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage》と同一の意味)。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
大他者の大他者(他者の他者性)がなければ、なにがあるのか。1962年の段階では、対象aと言っている。
対象a とは、主体の構成の残余であり、他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a).(S10, 21 Novembre l962)
大他者も対象aも無意識的なものであるのは変わりはない。
無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970ーー 原超自我 surmoi primordial )
「大他者の大他者はない」、あるいは「大他者はない」は又、S(Ⱥ)というマテームで示される。
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。
…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。
La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。
…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)
大他者は存在しない:(S(Ⱥ))l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ) (S24, 08 Mars 1977)
S(Ⱥ) とはȺのシニフィアンという意味である。
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。
この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。
欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。
ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。
穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001、pdfより)
ミレールは上のセミネールをするすこし前に次のように言っている。
父の名とは言語である。そしてさらに、超自我とは言語である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)
最後に冒頭のニーチェにもう一度戻る。《言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女 alte betrügerische Weibsperson であることか!》
この《年老いた誤魔化しの女 alte betrügerische Weibsperson》で何を言わんとしているのか。たんなるレトリックか?
ーーと記してきたが、はっきりと分かっているつもりは、わたくしには毛頭もない。ここからララング(母の舌語)に結びつけてみたい誘惑がないではないが(参照:ララングという母の言霊)。
ようするに「神の仮説」とはーージジェクのとても説得的な解釈以外にもーー「母の仮説」として捉えうるのではなかろうか? 《女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut》(Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838ーー「神さん」という原超自我)。
フロイトの「固着 Fixierung」(ラカンのサントーム sinthome)、治療不能の核--ララングが身体の上に置き残した「原徴」(原抑圧)のなかにあるもの、この「純粋享楽」の形式。これはラカンの Yad'lun(一のようなものがある)、あるいはS(Ⱥ)、 斜線を引かれた女 Lⱥ femme である。
このかぎりでどのシニフィアンも最初は「固有名」でありうる。《ララングは固有名の核である 》(Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot)
…………
ニーチェの音調 Töne とは、ラカンのララング lalangue (母の舌語 lalangue maternelle)としたらどうだろう?
この《年老いた誤魔化しの女 alte betrügerische Weibsperson》で何を言わんとしているのか。たんなるレトリックか?
真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年ーー真理は女である。ゆえに存在しない)
ーーと記してきたが、はっきりと分かっているつもりは、わたくしには毛頭もない。ここからララング(母の舌語)に結びつけてみたい誘惑がないではないが(参照:ララングという母の言霊)。
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。
ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。
ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)
ようするに「神の仮説」とはーージジェクのとても説得的な解釈以外にもーー「母の仮説」として捉えうるのではなかろうか? 《女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut》(Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838ーー「神さん」という原超自我)。
……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じている………naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)
フロイトの「固着 Fixierung」(ラカンのサントーム sinthome)、治療不能の核--ララングが身体の上に置き残した「原徴」(原抑圧)のなかにあるもの、この「純粋享楽」の形式。これはラカンの Yad'lun(一のようなものがある)、あるいはS(Ⱥ)、 斜線を引かれた女 Lⱥ femme である。
ラカンのYad'lun(一のようなものがある)。この「一」は存在に先立つ。どのシニフィアンもそれが「一つきり」であるとき、Yad'lunである。この唯一のシニフィアンは消去される。これは原徴であり、フロイトの原抑圧である。それは欠如の場を位置づけうる。フレーゲは「一」からくる欠如を非存在の記号とした。(The Bodily Root of Symptoms、Bernard Porcheret、摘要訳)
…………
ニーチェの音調 Töne とは、ラカンのララング lalangue (母の舌語 lalangue maternelle)としたらどうだろう?
言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。
それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。それぞれの魂にとって、他の魂はみな一つの背後世界 Hinterweltである。
最も似かよっているものどうしのあいだにかかっているとき、仮象 Schein は、たとえいつわりにせよ、最も美しい。わたしがそう言うのは、最小の裂目 die kleinste Kluft は、最も橋をかけにくいものであるから。
わたしにとってはーーどうしてわたしの外Ausser-mir というものがありえよう。外 Aussen というものは存在しないのだ。しかし、音調を聞くたびに、わたしはそのことを忘れる。忘れるということは、なんとよいことだろう。
事物に名と音調が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部)
・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調 Töne や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の der Formen, der Töne, der Worte 崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。
Oh diese Griechen! Sie verstanden sich darauf, zu leben: dazu thut Noth, tapfer bei der Oberfläche, der Falte,der Haut stehen zu bleiben, den Schein anzubeten, an Formen, an Töne, an Worte, an den ganzen Olymp des Scheins zu glauben! Diese Griechen waren oberflächlich — aus Tiefe! Und kommen wir nicht eben darauf zurück, wir Wagehalse des Geistes, die wir die höchste und gefährlichste Spitze des gegenwärtigen Gedankens erklettert und uns von da aus umgesehn haben, die wir von da aus hinabgesehn haben? Sind wir nicht eben darin — Griechen? Anbeter der Formen, der Töne, der Worte? Eben darum — Künstler?(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加)
《ものの形の、音調の、言葉の der Formen, der Töne, der Worte 崇め人》とある。ララングとは「純シニフィアン signifiant pur」の物質性である(参照)。
そしてララングは永遠回帰でもある。
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。
Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos.(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)