【言語とはレトリックである】
言語はレトリックである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。
Die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen“ (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)
《しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。》(クリステヴァ1980、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection)
【すべての言語は隠喩である】
言語の使用者は、人間に対する事物の関係を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩を援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまず形象に移される! これが第一の隠喩。その形象が再び音において模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。
Er bezeichnet nur die Relationen der Dinge zu den Menschen und nimmt zu deren Ausdrucke die kühnsten Metaphern zu Hilfe. Ein Nervenreiz, zuerst übertragen in ein Bild! Erste Metapher. Das Bild wieder nachgeformt in einem Laut! Zweite Metapher. Und jedesmal vollständiges Überspringen der Sphäre, mitten hinein in eine ganz andre und neue.(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年:死後出版)
ーー神経刺戟 Nervenreiz → 形象 (イメージ Bild) → 音による模造 nachgeformt in einem Lautとある。
原始感覚的(プロトペイシック)→漠然とした綜合感覚(母親に抱かれた抱擁感等)→世界の整合化と因果関連化(言語化)(中井久夫ーー参照:言語による世界の整合化と貧困化)
《ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。
Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." 》(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
【世界の概念化】
人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組みSchemaのなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージを概念へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。
Alles, was den Menschen gegen das Tier abhebt, hängt von dieser Fähigkeit ab, die anschaulichen Metaphern zu einem Schema zu verflüchtigen, also ein Bild in einen Begriff aufzulösen. Im Bereich jener Schemata nämlich ist etwas möglich, was niemals unter den anschaulichen ersten Eindrücken gelingen möchte:(同上「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)
《言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。》(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
【真理とは錯覚である】
真理とは錯覚である。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩である。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。
die Wahrheiten sind Illusionen, von denen man vergessen hat, daß sie welche sind, Metaphern, die abgenutzt und sinnlich kraftlos geworden sind, Münzen, die ihr Bild verloren haben und nun als Metall, nicht mehr als Münzen, in Betracht kommen(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)
《私は常に真理を言う、すなわち非全体を。Je dis toujours la vérité : pas toute…》(ラカン、Télévision, 1973)
男でない全ては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体 pas « tout » )のだから、どうして女でない全てが男だというのか?
Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19, 10 Mai 1972)
ーーこれはカントの無限判断の論理である。
仮に私が魂について「魂は死なない」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)
[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)
《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。》(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
ーー「大他者の大他者はない「とは、 象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(父の名の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。
【物理学とは世界の配合・解釈】
《物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire》(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
《近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。》(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
【真理は仮象の対立物ではない】
《真理は見せかけの対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
《見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
《父の諸名 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである》(LACAN 、S22,. 3/11/75)
【物理学とは世界の配合・解釈】
・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung
・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)
《物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire》(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
《近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。》(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
【真理は仮象の対立物ではない】
わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。
Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
《真理は見せかけの対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
《見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
《現実界とは、見せかけに穴を開けることである。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
【名付けの機能】
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
【名付けの機能】
事物が何であるかよりも、事物がどう呼ばれるかのほうがはるかに重要である。
einzusehen, dass unsäglich mehr daran liegt, wie die Dinge heissen, als was sie sind.(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
【真理は女である】
《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(Lacan, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)
《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(Lacan, S9, 15 Novembre 1961)
《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! 》(Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
ニーチェの真理は女である、とは、ラカンの《女というものは存在しない》として理解されるべきである。
すなわち、それぞれの言語ゲームのなかで部分的真理はある。だが各ゲームを統一する真理はない(家族的類似性)。
※参照:家族的類似性
…………
※付記
ニーチェ批判(吟味)の文脈でかつて次のようなことが言われた。
この論理を適用すれば、例えば、《「神は死んだ」が真理なら、「神がいないことを保証する神=真理」があることになる》と言えるだろう。
他にも、ラカンによるニーチェへの当てこすりとも読める次の文をどうよむべきか。
後年、次のようにも言っている。
今、この問いは宙吊りにしたままにしておく。要するにはっきりとはわからない。真理はない(どう考えているかは本文ににいくらか暗示したつもりではあるが)。いずれにせよ、ニーチェを疑うのなら、ラカンの「無意識」のほうをもっと疑いたくなるところがわたくしにはある(参照:神と女をめぐる「思索」)。
【真理は存在しない】
女というものは存在しない 、だが女たちはいる。
la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
すなわち、それぞれの言語ゲームのなかで部分的真理はある。だが各ゲームを統一する真理はない(家族的類似性)。
・私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。
・私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性Familienähnlichkeit」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66ー67節)
※参照:家族的類似性
…………
※付記
ニーチェ批判(吟味)の文脈でかつて次のようなことが言われた。
「真理はない」が真理なら、結局ひとつの真理があることになる。(Maudemarie Clark、1990)
この論理を適用すれば、例えば、《「神は死んだ」が真理なら、「神がいないことを保証する神=真理」があることになる》と言えるだろう。
他にも、ラカンによるニーチェへの当てこすりとも読める次の文をどうよむべきか。
無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
後年、次のようにも言っている。
無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。
L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。
La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
今、この問いは宙吊りにしたままにしておく。要するにはっきりとはわからない。真理はない(どう考えているかは本文ににいくらか暗示したつもりではあるが)。いずれにせよ、ニーチェを疑うのなら、ラカンの「無意識」のほうをもっと疑いたくなるところがわたくしにはある(参照:神と女をめぐる「思索」)。
ところで、ニーチェの《遠近法 Perspektivismus》とは、ラカンの《メタランゲージはない》と相同的である、という見解がある(Daniel Smith、Nietzsche: Science and Truth 、2013、PDF)。
《メタランゲージはない》とは《大他者の大他者はない》と等価であり(参照)、Daniel Smith によれば、ニーチェの思想は、基本的に「女性の論理」、つまりカントの無限判断、ウィトゲンシュタインの家族的類似性の領域にある、と捉えていることになる。
最後に最初期のニーチェーー文献学者としてのニーチェーーの言葉を掲げておこう。
歴史とは、 それぞれの存立を賭けた無限に多様で無数の利害関心(Interessen)相互の闘争でないとしたら、一体何であろうか (Nietzsche, Nachgelassene Aufzeichnungen , Herbst 1867-Frühjahr 1868)
あきらかに遠近法あるいは「メタランゲージはない」の人がすでにここにいる。
※続き→「遠近法」、あるいは「自然は存在しない」