まず「真理は女である。ゆえに存在しない」に付記した、ニーチェ最初期の文献学者としての文を再掲する。
ーー1884年生れのニーチェであり、20歳代前半の言明ということになる。
そして実質上最晩年のニーチェの草稿(1886/87)を読んでみよう。
歴史とは、 それぞれの存立を賭けた無限に多様で無数の利害関心(Interessen)相互の闘争でないとしたら、一体何であろうか (Nietzsche, Nachgelassene Aufzeichnungen , Herbst 1867-Frühjahr 1868)
ーー1884年生れのニーチェであり、20歳代前半の言明ということになる。
そして実質上最晩年のニーチェの草稿(1886/87)を読んでみよう。
現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationenと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。
「すべてのものは主観的である Es ist Alles subjektiv」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観 Subjekt」は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。---解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。
総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」
世界を解釈するもの、それは私たちの欲求 Bedürfnisse である、私たちの衝動 Trieb とこのものの賛否である。いずれの衝動も一種の支配欲 Jeder Trieb ist eine Art Herrschsucht であり、いずれもがその遠近法 Perspektive をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。(ニーチェ『権力への意志』)
Gegen den Positivismus, welcher bei den Phänomenen stehn bleibt »es giebt nur Thatsachen«, würde ich sagen: nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen. Wir können kein Faktum »an sich« feststellen: vielleicht ist es ein Unsinn, so etwas zu wollen.
»Es ist Alles subjektiv« sagt ihr: aber schon Das ist Auslegung. Das »Subjekt« ist nichts Gegebenes, sondern etwas Hinzu-Erdichtetes, Dahinter-Gestecktes. – Ist es zuletzt nöthig, den Interpreten noch hinter die Interpretation zu setzen? Schon Das ist Dichtung, Hypothese.
Soweit überhaupt das Wort »Erkenntniß« Sinn hat, ist die Welt erkennbar: aber sie ist anders deutbar, sie hat keinen Sinn hinter sich, sondern unzählige Sinne. – »Perspektivismus«.
Unsere Bedürfnisse sind es, die die Welt auslegen; unsere Triebe und deren Für und Wider. Jeder Trieb ist eine Art Herrschsucht, jeder hat seine Perspektive, welche er als Norm allen übrigen Trieben aufzwingen möchte.(Nietzsche: Der Wille zur Macht I - Kapitel 24,481)
ニーチェはすくなくともこの点に関して、実に初期から首尾一貫している。いや文献学者としてのニーチェが、この思考を生んだとしてもよい。
ニーチェが『曙光』(1881年)に 1886年になって追加した序文(第5節)にはこうある。
私が文献学者であったのは無駄ではない。私はいまなお文献学者だろう、つまりゆっくりした読み方の教師だろう-そのあげく私はまたゆっくりと書くのである。 あらゆる種類の 「いそがしい」人間を絶望せしめないようなものはもはやなにも書かないということが、いまでは私の習慣に属するばかりでなく、また私の趣味-ひょっとして悪意の趣味だろうか?-に属する。けだし文献学とは、かの尊敬すべき技芸-精巧で慎重な仕事ばかりやらな ければならず、「緩徐に(レントー)」やるのでなければなにごともできない言葉の金細工師の技術・知識として、なにをおいてもまず次の一事をその崇拝者から要求するところの技芸である-すなわち回り道をし、時間をかけ、静かになり、緩慢になること。-しかもそのためにこそ、それは今日これまでになく必要なのである。そのためにこそ、それはわれわれをもっとも強く惹きつけ、魅惑するところがあるのだ。「勤労」の時代、すなわち躁急の時代、一切を、すべての新古の書物にしても、早速「片づけ」てしまおうとする不躾な汗まみれの性急な時代のさなかで。 -文献学というものはそんなにわけなく物を片づけない。それはよき読み方を教える。すなわちゆっくりと、深く、慎重な顧慮をもって、底意をもって、心の扉をあけ放したままにしておいて、繊細な指と眼とをもって読むことを…。(ニーチェ『曙光』「序文」)
…………
ある時期から考古学 archéologie から 系譜学 généalogie(系譜学の手続き procédure) へと移行したミシェル・フーコーは次のように言っている。
ニーチェの考えるような歴史的感覚は、自らがある視点 perspectif を持つことを知っており、自らに固有の不公正さの体系を拒否しはしない。歴史的感覚は、評価し、イエスかノーを言い、毒のあらゆる痕跡をたどり、最良の解毒剤を見つけ出そうという断固とした意図 (propos)をもって、特定の角度から眺めるのである。(フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史 Nietzsche, la généalogie, l'histoire」、1971年)
ここで人はカントの《視差parallax》を想い起しておくべきだろう。
以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢』)
こういったカントやニーチェの思考は歴史だけではなく、すべての事象が「ある視点」から捉えられたもの、--つまり「遠近法」だということになるはずである。
たとえば「科学」。
科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。
daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
科学者が形而上学者であるとはどういう意味か?
理論X が理論Y によって取って変わられるとき、科学者はそれにもかかわらず以前の理論X の部分的有効性を説明しようとする。通常の接近法は、古い理論は、実在のある相を正しく把握していたことを示そうとする。これは、底に横たわる「絶対的真理」があるという想定であり、その真理に対して、ある理論がより正しいかより劣っているかという考え方である。(Daniel Smith、Nietzsche: Science and Truth 、2013、PDF)
科学者たちは「真なる自然」があると信じている。だがニーチェは上に引用したように、科学はメタ信念に基づいているということにより、遥かにラディカルな観点を提示している。
ニーチェは物理学についてこう記している。
・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung
・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)
これはラカンの次の言明と相同的である。
物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
ところでジジェクは、すでに1991年の段階でこう言っている。
ラカンの「女は存在しない」という命題にならって、たぶん我々は「自然は存在しない」と主張すべきである。 Homologous to the Lacanian proposition "Woman does not exist," we should perhaps assert that Nature does not exist.(ジジェク『斜めから見る』1991年)
「真理は女である。ゆえに存在しない」にてジジェク2012の文を引用した。
女というものは存在しない 、だが女たちはいる。
la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
ラカンが、自然は《 非一 》pas-une であると言っているのはこの意味である。
La nature, dirai-je pour couper court, se spécifie de n’être « pas-une ». D’où le procédé logique pour l’aborder.(Lacan, S23, 18 Novembre 1975)
もちろんこういった考え方はラカン派だけではない。かねてよりニーチェの「遠近法」をくりかえし問うてきた柄谷行人は次のように書いている。
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)
経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される……そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」1983年)
こうして人は、初期ニーチェの言葉をかみしめなければならないことになる。
言語はレトリックである。Die Sprache ist Rhetorik, (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)
これは100年後にラカンが、 《見せかけ semblant、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971)としたのと等価な表現として捉えられるべきである。あるいは《言説自体、いつも見せかけ semblant の言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(S19, 21 Juin 1972)
ーーラカンの言説は、フーコーの言説とは異なり、「社会的つながり lien social」という意味である。
ラカンは人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」とも言ったが、それは「仮象の世界 scheinbare Welt」と言っても同じことである。
わたしにとって今や「仮象 Schein」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。
Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
真理は見せかけ semblant の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
もっともこういった観点は別に目新しいものではない、という人もいるだろう。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』1600年)
現在エビデンス主義などということを何の留保もなしに主張している連中は、シェイクスピア以前に退行していると見なすべきである・・・ガリレオ(1564年ー1642年)が言ったように、事実(エビデンス)は理論によって生み出されるのであり、その反対ではない。