このブログを検索

2017年2月9日木曜日

エビデンスに基づく「科学的」精神

神田橋條治)…わたくしは EBM をめぐってイライラしていた。EBM(エビデンスに基づく医療)推進派の意見は正当なものだと思えるのに、わたくしの中では嫌悪感が湧くのだった。(……)イライラから注意をそらさないことで連想が進んだ。そして分かった。EBM は医療の場に多数決を持ち込むことであり、患者とはおおむね少数者であり少数者に寄り添うという医療者の体質となじまないのだと分かった。(……)

分かったあとで連想すると、多数者が病む状況、例えばインフルエンザへの対策について考えるときには、わたくしのなかに EBM への反感が湧かないことにも気がついた。しかし、教育の場に EBM が導入されると、少数者へ寄り添うという医療者の気質は抑圧されて、公衆衛生行政官のような、正しい判断に終始する臨床家(?)が育つだろうと心配になった。 (『精神科における養生と薬物』 神田橋條治 八木剛平 )

ーーという文をネット上から拾ったので、以下いくらかのメモ。

…………

「エビデンス」という言葉でインターネット上で検索すると、まず医療にかかわるものが多く出現するので、この語が今のように流通するようになった起源とは、もともと「医療」からなのだろうと推測するが、詳しいことは分からない。

まず官僚ーーいわゆる「公衆衛生行政官」の範疇に属するだろう人ーーによって書かれたもの。

◆エビデンスに基づく医療政策の必要性―医療の質と費用対効果―調査と情報―ISSUE BRIEF― NUMBER 907(2016. 3.29.)   国立国会図書館 調査及び立法考査局社会労働課 (田辺智子)、PDF

医療政策に関する議論の中では、「エビデンス」や「科学的根拠」という用語がしばしば 使われる。医療費が増大する中、限られた資源を有効に利用し、医療の質と費用対効果を 高めるために、エビデンスに基づく医療政策の必要性が議論されている。日本でもエビデ ンスの活用が進められているものの、諸外国と比較して遅れている部分も存在する。
「エビデンスに基づく医療」 (Evidence-Based Medicine: EBM)とは、医師が診療を行う際、患者に合った最善のエビデンスに基づいて意思決定を行おうとする医療のあり方である。1991 年にカナダのマクマスター大学の臨床疫学・生物統計学部教授ゴードン・ガイアット (Gordon Guyatt) によって提唱された後、 それまでの経験主義的な医療に代わる新しいパラダイムとして急速に普及し、医療の世界を大きく塗り替えたと言われている。

医療におけるエビデンスとは、治療や予防等の有効性についての信頼性の高い研究結果を意味する。この場合の研究とは、実験室でマウスを使って行うような基礎医学の研究ではなく、人間集団を対象に行われる臨床研究や疫学と呼ばれる研究である。たとえ動物実験によって、ある治療法に効果があると示唆されたとしても、それが種の違いを越えて人間に当てはまるかどうかは、最終的には臨床研究によってしか明らかにできない。

臨床研究の方法にも様々なものがあり、どの研究方法を採用するかによって結果の信頼性は大きく異なる。 有効性を最も厳密に評価できるのは、 対象者を無作為に 2 集団に分け、一方にのみ効果を確認したい治療法を適用し、もう一方の適用しなかった集団と結果を比較する実験(臨床試験)である。ただし、研究対象によっては常にこのような実験が可能なわけではなく、観察研究という方法も用いられる。観察研究には、集団を継続して観察することで疾病と治療法等の関係を分析するコホート研究と、ある集団を対象に過去にさかのぼって調査することで同様の関係性を分析する症例対照研究(ケースコントロール研究)がある。これらと比較すると、単一の症例報告や、多数の症例を集積して報告する症例集積、専門家の意見等は、信頼性のレベルが低いとされる。

ーーいやスバラシイ、《限られた資源を有効に利用し、医療の質と費用対効果を高める》という文がなかったらとても素直に読める・・・

次に小中校の先生によって書かれたもの。

◆エビデンスに基づく教育とは何か(森 俊郎,中井俊之,大村正樹,PDF

医療の世界では, 「エビデンスに基づく医療 (Evidence Based Medicine:EBM)」という言葉がある(名郷,1999)。EBMとは, 「科学的に証明された根拠に基づいて医療行為を行なう」ということである。その背景には, 「これまでずっと行なわれてきた治療方法は正しい」, 「経験豊かな医師の言うことには従い, 口出ししない」, 「少しでも努力した人が早く治せる」, 「24時間懸命に治療すれば必ず治せる」といった, 科学的根拠のない治療が行われてきた歴史があったようである(佐々木,2010)。

しかし近年, この「エビデンスに基づく」という考え方による医療行為が定着しつつある。そして, 医療の分野に留まらず, 「エビデンスに基づく (Evidence Based)」という考え方は現在, 様々な分野に広まりつつある (津谷,2000;岩崎,2012)。

それでは, 教育の場合はどうであろうか。「これまでやってきた指導をあえて変える必要はない」, 「経験豊かな教師が言ったことには従い, 口出ししない」, 「24時間懸命に指導すれば必ず子どもは伸びる」, そんな言葉を耳にしたことはないだろうか。…………
Pollard(2008)は,「 エビデンスは万能薬ではない。しかし, 教育は, 今よりももっとエビデンスに基づく必要がある」と指摘する。筆者も, エビデンスに基づく教育の根底にあるこの考え方を支持したい。

ーーこれもとても「正しい」見解だろう。

次に安永浩のもとで鍛えられ、木村敏から多くを学んできた日本精神病理学の正統的嫡子の代表的一人である内海健の講演より(エビデンスというよりDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)批判にかかわるが、その裏にはエビデンス批判(=吟味)があるだろう)。

◆うつ病の臨床診断について 内海健(東京藝術大学保健管理センター、PDF)

現在の DSM の骨格は,第Ⅲ版(1980 )で作られました.当時,策定に当たった Andreasenら中大西洋学派を中心とするメンバーは,精神科診断から精神分析を一掃し,そこに彼らの信奉する欧州の精神病理学を導入しました.周知のことですが,DSM の第Ⅱ版までは,Meye rの精神生物学と自我心理学派の精神分析学が主導的な原理でした.中大西洋学派はそれを一挙に書き換えることに成功したのです .

DSM - Ⅲの根幹をなす思想が 2つあります.1つは,いましがた述べた欧州,それもおもにドイツの精神病理学です.注意深く目を配れば,Kraepelinや Schneiderの影響が読み取れるでしょう.これはいわゆる英米圏で“phenomenology”とよばれるものですが,いわゆる日本で「現象学」と呼ばれるものとは異なり,記述症候学のようなものです.実際にできたものをみればわかるように,精神病理学といってもごく初歩的なものです.

もう 1つの軸となるのが,「論理実証主義」です.論理実証主義とはウィーン学団に由来し,第二次世界大戦を機にアメリカに活動拠点を移した科学哲学の思潮です.

それは,事象を観察言語によって命題とし,理論言語によって説明することにより,人文・社会科学を含めてすべての学を,数学と物理学に還元することを基本思想としています.しかし,DSM- Ⅲで取り入れられたのは,観察言語に対応する「無- 理論主義」の方だけでした.もう一方の理論言語は DSM には存在しません .

ところで,論理実証主義はすでに当時,科学哲学の舞台からほぼ退場していました.Popperの反証主義やプラグマティズムによって取って代わられていたのです.

こうしてみると,DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.
私は 1 9 7 9年に精神科医になったので,臨床の修練を積むにあたって,DSM の影響はほとんど受けていません.ですから,日本の臨床現場に操作的診断学が浸透してきた時も,多少の戸惑いはありましたが,自分のそれまでの経験が大きくゆらぐようなことはありませんでした.いわゆるダブル・スタンダードと呼ばれる構えでさばいていたと思います.DSM や ICD は大数研究や疫学,そして行政的な文脈に限定して用いられれば,何の問題もないように思います.

ところが,近年では,DSM で臨床を学んだ人たちが増えてきました.もしかしたら日本の精神科医の半数近くがそうした世代にあたるのかもしれません.これは倒錯的といってもよい現象です.

DSM が臨床の現場に弊害を与えたとしたならば,それは第Ⅲ版ではなく,第Ⅳ版(1 9 9 4 )の時代ではないでしょうか.第Ⅲ版も第Ⅳ版も操作的診断学として,その基本骨格は同じです.しかし第Ⅲ版では, 「この診断マニュアルは,精神科の基本的診断ができるようになっている人が使用するように」 ,という但し書きが付けられています.つまり一定の臨床経験を積んだうえで使うものと位置付けられているのです.われわれもそれを確認して納得したものです.

実は,第Ⅳ版にもそうした但し書きがいくらか記載されているのですが,たいていは無視されています.ちなみにその箇所を読まれた方はどれくらいおられるでしょうか.第Ⅳ版の時代になって,米国の精神医学は謙虚さを失いました.そして誇りと自信を失った日本は,それに唯々諾々と従っているわけです.
診断の正しさには,2つの基軸があります.いわゆる妥当性(validity)と信頼性(reliability)です.妥当性とは,どれだけ真理に近いかということです.かつては神の智が真理の保証人として背後に控えていました.現在の身体医学では,病理所見やそれに準ずる生物学的マーカーと一致することです.

精神科疾患の場合には,そうした gold standard が確立したものはほとんどありません.ですから妥当性とは,名人あるいは達人と呼ばれる人が診た時の診断ということになります.操作的診断学を称揚する人は,こうした名人・達人といったものが,診断の斉一性,ひいては科学性と相容れないことを指摘しますが,私はどうしてもそうした批判の裏に,ルサンチマンを嗅ぎ取ってしまいます.

他方,信頼性とは,誰がみても同じ診断になるということです.そのために,診断のための規約をつくり,それをみんなが遵守するということが求められます.この考え方の背景には, 「真理というようなものなどないのだ」という断念があります.その意味では,神なきポストモダンにふさわしい正しさの基準と言えるでしょう.

だとすれば,信頼性は謙虚なたたずまいをしていなければなりません. 「所詮われわれは真理を知ることはできないのだ」という慎ましさをもってしかるべきでしょう.

操作的診断学は,経験を積んだ臨床家の間で形成される大まかなコンセンサスといった程度のものでよいのではないかと思います.おそらく第Ⅲ版を策定した人たちは,そうしたことを目論んでいたのでしょう.

ところが,現在の診断学では信頼性が暴走しています .たとえば経験豊かな精神科医でも,駆け出しの研修医でも同じ診断にならなければならないというのは乱暴な話です.さらには臨床に携わったことのない研究者でも同じ診断になるならば,臨床知は捨て去られることになります.なぜなら,一致させるためには,低きに合わせざるをえないからです.こうした体たらくでは,素人にばかにされるのもいたしかたありません

…………

次に手許にある書から中井久夫による「科学とは何か」。今読み返してみると、エビデンス批判としても読める論である(もっともここでも主にDSMにかかわるには相違ない)。

◆「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年

【科学とは、その方法を、徹底的に対象化したモノに対して適用するものである】
私は、科学は一つのネットワークを成していて、ある命題が科学に属するかどうかということは、このネットワークに属するかどうかで決まると考えている。それは、ポール・ディージングという科学哲学者の考えから出発している。彼は、科学の方法論を四つにわけて、どれも他に優先するものではないとした。私は、彼の四つの方法が相互にからみあっているということを付け加える。その四つの方法論とは①モデルづくり、②実験、③統計、④事例研究である。

②の実験は科学の王であるという固定観念があって、クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響が大きいわが国では特にそうであるが、実験とは条件をできるだけ簡略化して、数え上げられる範囲の僅かな変数だけで規定される場にだけ可能である。実験の場はそれだけ「現実離れ」している。(……)

場合によっては、この簡略化が大きな偏りのもととなる。(……)

③の統計的方法は、ランダム・サンプリングや二重盲検法やマッチングを使って対象を(近似的に)等質化したと仮定するところに成り立っている。(……)

①のモデルづくりには事実にもとづく個別性が強い意識的な実験モデルから始まって、しばしば美学(あるいはそのくつがえし)に導かれる大局モデル(たとえば「セントラル・ドグマ」)から、個人の意識を超えたパラダイム(トーマス・クーンの意味での)までがあるが、これらのモデルの導きなくして科学の門を叩いた者は遠くまで歩めない、いや、多くの科学者はモデルの魅力にひかれて科学者となる。

このように、これらの方法は相互浸透的で、全体としてひとつのネットワークを作っている。たとえばモデルはしばしばある事例、統計、実験結果からヒントを得る、逆も真である。

ここで④の事例研究が確固たる方法論の一つに挙げられていることに首をひねる向きもあるだろう。これは「一つだけしか存在しないものに対する科学はありうるか」という問題に置き換えればわかりやすいだろう。(……)

事例研究から出発する方法論にも、実験や統計もあるかもしれないが(……)、ここでは比較と重ね合わせという、質のレベルの方法も重要である。実際には地理学の基礎的方法はこちらである。そこからモデルづくりに進む。地質学でもそうであろう。この「事例の重ね合わせ」は、臨床心理学における方法にも通じるものがある。

最後に、科学とは、その方法を、徹底的に対象化したモノに対して適用するものである。実際、科学と、これから挙げるものを区別する一つは、徹底的対象化ができるか否かである。もっとも、科学も、観測主体ではなく対象から引き出されて生まれ発展してきたというアフォーダンス的な考え方も可能である。

すなわち、ふつうそう考えられているように科学とは徹底的能動者である観測主体と徹底的受動者である観測主体との関係であるとみることもでいるが、これは後から整理してつくられた、いわば後知恵であり、反対に観測主体は観測対象にも導かれ「教えられて」はじめて何ごとかをなしうると考えることもえきる。実際の科学体験はむしろ後者ではないだろうか。(……)ちなみにアフォーダンスという考え方は、失明者が自己世界を創りだしてゆく過程をよく理解させてくれる(統合失調症の作業療法の理解にも使われている)。精神医学、臨床心理学の科学的部分はなおさら対象が差し出すものに依拠して成り立っているのではないだろうか。

【怠惰な精神は規格化を以て科学化とする】
怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。DSM体系は、20世紀前半に統合失調症の一次症状と二次症状との区別に倦んだ後、その断念の上で、代案として生まれたクルト・シュナイダーの「一級症状」の延長上にある。これは一つの便宜的な申し合わせである(もっとも、現在シュナイダーの一級症状のほとんどがPTSDにも存在することが明らかにされている)。それはリューマティズムにおける「ジョーンズの基準」に似ていて、ただ重みづけが欠けている。すべての基準は等価値的である。これ自体科学からはむしろ遠ざかっている。「有用性」と「便宜性」が出発点にあることは、「無理論的」「(症状)記述的」をうたっている点からも明らかである。基底機制 underlying mechanisms を問わず、その研究の出発点になるということである。DSM体系に魂があれば、自分の役割はいったん黒板を拭いて出直そうということであって、自己完結的体系として精神医学に君臨しようとするつもりはないというであろう。すなわち、次の順番は改めて基底機制を問うことである。

【質の異なるものを一つの尺度に収めることは原則的に科学ではない】
……科学の定義、その限界の画定は、最初思ったほど容易なものではないことが次第に明らかとなっていった。定義を狭く取ると、明らかに科学として通用しているものが除外され、広く取ると、その定義では占星術も入るのではないか、という揶揄が巻き起こったりする。

19世紀と20世紀の、この領域におけるもっとも大きな相違は、19世紀では数学を科学に数えていたのに対して、20世紀になって数学は科学ではないと確定したことである。(……)

この発見が驚くほど遅れたのは、科学は、数学的表現ができる領域で長足の進歩を遂げたからであり、実際、物理学をモデルとして科学は、数式化、数量化を目指す。(……)

科学的数量化が意味を持つためには質が同一でなければならない。質の異なるものを一つの尺度に収めることは原則的に科学ではない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

さらに中井久夫の別のエッセイからいくらか抜き出しておこう。

【硬い現実主義からやわらかな現実主義へ】
観測の精度を上げても、予測の精度がどこまでも向上するということはない。現実の世界は予想外を含むものである以上、因果律によって織られた「硬い現実主義」に対して、少なくとも「やわらかな現実主義」のほうが〝現実的″であることを示唆している。

リハビリテ-ションの領域においても、観測の精度を上げようと、多くのテストや計測を実施するのに比例して、予後や改善の予測の精度がどこまでも向上したり、介入すべき問題点がより明瞭になる訳ではない。むしろ、観察者のあらさがしの眼にさらされることによる対象者の心身の緊張が増すことの不利益が問題になることもあるのである。(中井久夫『隣の病い』)

【医療は呪術である】
一般に「不確実な事態に不確実な技術で対応する場合に呪術があり、確実に成功する技術に呪術はない」(マリノフスキー)。医療は明らかに前者である。方角で病院を決めても咎められることではない。医師も大手術の前には祈る。不祥事の続く病室をこっそりお祓いする・良質な抗体を得るコツはウサギに抗原を注射するとき、「よい抗体を作ってくれよな」と頼むことだとアメリカのマニュアルにあるそうである。こういうのは無害である。(……)

医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年『精神科医がものを書くとき』所収)

この見解はラカン派の見解とともに読むことができる。

ラカンは『科学と真理』で強調している。科学による真理と知との共約不可能性を認知することの拒絶は、魔術や宗教よりもさらにいっそう根源的であると。

事実、宗教家は、「神が知っていることを知らない」ことを知っている。また文化人類学者が示したように、呪術師は、「己の行為の有効性が欺瞞的実践に依拠している」ことを知っている。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)
科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。(アレンカ・ジュパンチッチ 2013、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDF

さらに中井久夫からもうひとつ。

【分裂病の遺伝性とは手足や顔の形態や機能の遺伝と同じ】
分裂病の遺伝性に関するタブーに触れそうだが、私が問題にしている機能自体は遺伝しなければ人間の形をなさないもので、手足や顔の形態や機能の遺伝と同じである。失調するかどうかは、非常に多くの要因がからんでいるであろう。なお、この機能は必ずしも人間に限らなくて、ひょっとすると系統発生的に古い成分を含んでいるかもしれない。変化しか認知しないという点(分裂病の微分回路的認知)では、嗅覚がそれに近いと思う。また、調節遺伝子を含む多因子遺伝は、古典的な遺伝対環境論を無効にする。(中井久夫「精神分裂病の病因研究に関する私見」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)

この文は、たとえば死後脳研究などを素朴に信じ込み、自閉症や統合失調症が脳の問題などとーー留保なしに言ってしまうエビデンス主義者批判とも読める。

※より理論的に語られた、《遺伝学は分裂病の遺伝性を多因子遺伝であると言っているが、これは環境因というのにほぼ等しい》(中井久夫『治療文化論』1983年)をめぐっては「家族的類似性」を参照。

統合失調症の発病(発症)は,精神病エピソード発現時ではなく,それ以前の「警告期」や ARMS(at risk mental state)を呈する時期に起こっている可能性があり,精神病エピソード発現までの間に,既に存在していた認知機能障害や脳萎縮のさらなる進行が起きる。初回精神病 エピソード発現から治療介入がなされるまでの未治療期間(DUP : duration of untreated psy-chosis)が長いほど,治療反応性の低下 ,寛解 到達レベルの低下,寛解到達までの期間の延長な どが惹起される。

また,初回精神病エピソード発現後数年の間に,左上側頭回の萎縮およびこれと関連した認知機能障害の基盤である神経生理学的異常が進行する。精神病エピソードの反復回数が多いほど,実行機能,言語記憶障害,注意力などの障害が進行し ,5 年の間の精神病エピ ソードを示唆する入院回数が多いほど,左前頭領 域灰白質の萎縮が進行する 。(「統合失調症の病態進行のメカニズム」安部川智浩 ,伊藤侯輝 ,仲唐安哉 ,小山司、2009,PDF

ーーこれは最も基本的な観点だろう。死後脳研究においても、病を得たから脳の萎縮があったのではないか、という側面を取り逃してはならない。

…………

ここでいくらか引用者に顔を出さしてもらって、「エビデンスなし」の非科学的見解を言い放っておこう。

人は、スピノザやニーチェ流にいえば「遠近法的倒錯」に陥っていないかを常に疑わなければならない。

系譜学的な思考、つまり原因と結果の遠近法的倒錯を見出す思考は、《超越論的》な思考に固有のものである。実際に、そのことを最初にいったのは、前章で引例したようにスピノザである。

《……いまや、自然が自分のためにいかなる目的因もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが私は、さらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけくわえておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に〈結果であるものを原因と見なすからである。》(『エチカ』第一部付録)

ーー柄谷行人『探求Ⅱ』1989

《しばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。》(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

ラカンの「原初 primaire は最初 premier のことではない」(『アンコール』)も同じことを言っている。すなわち原初の原因は結果から遡及的 rétroactivement に構成される。

そもそもエビデンスの本質とは何か? という基本的な問いを放ってみよう。エビデンスとはーー究極的にはーー認識論的パラダイムの下で見出されるレトリックである。あるいは社会的諸関係の所産にすぎない。それが、上に引用した中井久夫の《私は、科学は一つのネットワークを成していて、ある命題が科学に属するかどうかということは、このネットワークに属するかどうかで決まると考えている》という文の含意(のひとつ)である。

ここでマルクスとニーチェを引用しておこう。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』)
現象に立ちどまって、「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うだろう。いや、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ、と。われわれは、いかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理だろう。(ニーチェ『力への意志』)

認識論的パラダイムとはようするに「幻想の窓枠」である。

……描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは、よくみるためではなく、みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。(ロラン・バルト『S/Z』)

このバルトの観点は、世界、そして我々が世界に関わる関係性は、《幻想の窓 fenêtre du fantasme》(ラカン、S11)によって仲立ちされている、ということである。

経験科学の真理にかんしては、「確証可能性」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争があった。ポパーの考えでは、科学法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。

ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)

この文は、上に引用した内海氏の《論理実証主義はすでに当時,科学哲学の舞台からほぼ退場していました.Popperの反証主義やプラグマティズムによって取って代わられていたのです.》とともに読むことができる。

そしてこれらは蓮實重彦の簡潔な表現なら、《解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線》となる。

………解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収、1979年)

ーーもちろんこう記された諸見解でさえ「遠近法的倒錯」を疑う必要がある。それがラカンの《メタランゲージはない》の究極の意味である(参照:ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ)。

とはいえ小中学校の先生が書かれた文に、《Pollard(2008)は,「 エビデンスは万能薬ではない。しかし, 教育は, 今よりももっとエビデンスに基づく必要がある」と指摘する。筆者も, エビデンスに基づく教育の根底にあるこの考え方を支持したい》とあったように、現場にはとんでもない「反エビデンス」の経験主義者がいることはまちがいないので、エビデンスに依拠する考え方を全面的に否定してはならない。

もっと一般的に言えば、われわれは通常はーー現在の認識論的パラダイムの下であれーー誰もが効能という「エビデンス」が高い薬を飲みたい。効率という「エビデンス」が高い勉強方法をしたい。性能という「エビデンス」が高い機器を購入したい。

だが、エビデンスに基づく考え方が、たとえばマニュアル化されてそれを「真理」として無暗に信奉されてしまったときが問題なのであって、必要なのはマニュアルとしてではなく、あくまでレシピとして捉えることだろう。それは複雑な問いであればあるほどそうなる。

医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。複雑系においては「プログラム」は成立せず、もっと柔軟でエラーの発生を許容する「レシピ―」の概念によって止揚されねければならないことは数学者の金子・津田(金子邦彦・津田一郎『複雑系のカオス的シナリオ』)の述べるとおりであると思う。「レシピ―」によれば状況に応じていろいろ似たものを使い、仕方を変えてもとにかくそれらしい料理ができる。「レシピ―」の実現のために用いられるのが「スキル」であり「技術・戦術・戦略のヒエラルキー」である。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年)

もしそうでないなら、つまりエビデンスを闇雲に信奉する「科学的」態度とは、ラカン曰くの《呪術師は、「己の行為の有効性が欺瞞的実践に依拠している」ことを知っている》ーーを超えた超呪術師となってしまう。今後、二言目にはなんの留保もなしに「エビデンス」、あるいは「エビデンスがない」と口にだす連中を、超呪術師、超「シャーマン的主体(sujet chamanisant:ラカン、エクリP.871)」と呼ぶべきである!

中井久夫の文に《怠惰な精神は規格化を以て科学化とする》とあったが、これは、怠惰な精神はエビデンス信奉を以て科学化とする、と読み換えてなんの問題があろう? 

(ここでの記述は実は現代日本に跳梁跋扈する「超呪術師」たちに向けて書かれたものだが、わたくしは遠慮深いタチなので、引用の仮装を纏いつつその仮装の綻び目から最後にこうやってボロっと口に出すだけにしておく・・・)

最後にもう一度、精神医療関係者の発言に戻って次の文を再掲しておこう。

信頼性とは,誰がみても同じ診断になるということです.そのために,診断のための規約をつくり,それをみんなが遵守するということが求められます.この考え方の背景には, 「真理というようなものなどないのだ」という断念があります.その意味では,神なきポストモダンにふさわしい正しさの基準と言えるでしょう.

だとすれば,信頼性は謙虚なたたずまいをしていなければなりません. 「所詮われわれは真理を知ることはできないのだ」という慎ましさをもってしかるべきでしょう.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011、PDF)) 

…………

※付記

ここでさらに以前にメモした文を貼り付けておこう(わたくしはもともと全く科学的人間ではなく、そして「科学」にかかわる問いを発する日本の著者はほとんど中井久夫しか読んだことがないので、また中井久夫の文であり、上に引用した箇所と全く重なる部分もあるが、あえてその箇所を(文脈上)削除せず引用する)。

スキルは、言語によって伝達できない部分を含む。理論的には言語化できるかもしれないが、具体的には異星人に鉛筆の削り方を教える場合を考えてみればよい。鉛筆をみたことのない者に対する「鉛筆の削り方マニュアル」を作成すれば何ページになるであろうか。(……)しかし、眼の前で削ってみせればあっという間に伝達される。これを行動による伝達としよう(これは神経心理学にいう「手続き記憶」にほぼひとしい)。最近の医学教育には、鉛筆を削るマニュアルを、鉛筆を削ってみせることよりも何か正しいこと、新しいことのように考えるきらいがある。その傾向は現場を知らずに育った医学教育者に特にみられる(……)。スキルにはそういう実践的にしか伝達しえないものがある。スキルにはドレファスのいう五段階があり、現実に相渉るには「技術」「戦術」「戦略」のヒエラルキーがある。(……)

医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。複雑系においては「プログラム」は成立せず、もっと柔軟でエラーの発生を許容する「レシピ―」の概念によって止揚されねければならないことは数学者の金子・津田の述べるとおりであると思う。「レシピ―」によれば状況に応じていろいろ似たものを使い、仕方を変えてもとにかくそれらしい料理ができる。「レシピ―」の実現のために用いられるのが「スキル」であり「技術・戦術・戦略のヒエラルキー」である。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」)

スキルとエビデンス至上主義とは相いれない。エビデンス的マニュアルとは、結局、スキルの最も初歩的な「技術」にかかわる。いやそれさえ疑わしい。

ただしわれわれは皆みずからの専門以外の分野ではこの「技術」さえない。そのときの参照として「エビテンス的マニュアル」を馬鹿にしてはならないだろう。

福島震災からしばらくたった時点でーーいわゆる「科学者」のとんでもツイートに業を煮やしてかーー、鈴木健は次のようにツイートしている。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

ドレファス兄弟のスキルをめぐる書を眺めると次のような図表が提示されている。

◆Hubert Dreyfus and Stuart Dreyfus Mind Over Machine:1986



以下も同様に中井久夫の「医学・精神医学・精神療法は科学か」より。

【スキルの五段階】
第一段階「ビギナー」は、Context-free rules すなわち文脈の如何にかかわらず成功する規則にもとづくスキルである。

第二段階「中級者」は状況依存の要素が加わった行動規則を使いこなすスキルの段階である。この段階で言語表現不能の要素が出現する。

第三段階「上級者」 これは文脈依存・非依存の諸要素の間に目的に適った優先順位をつけて状況を整理し計画を立て、しかも実践の途中において質的に変化する自己および周囲の状況に対応してこれを変化させ、目的を達成するスキルである。(……)

第四段階「プロフェッショナル」は大局観にもとずくスキルであるが、この場合、客観的選択や検討はもはや重要でなく、特定の視点を重視して状況を構成する要素を直感的に選択して予測を立てる。おそらく過去の成功経験を重ね合わせて予測を立てていると推測される(「全体観的類似性認知」)。ただし、直観によって予測を立てるが、目標達成の過程においては、しばしば意識的分析に戻る。

第五段階「エキスパート」においては、経験に裏打ちされた円熟した理解力にもとづいて、刻々と変わる状況に対処することに没頭し、先の心配をしたり計画を立てたりもしない。すなわち、スキルは身体の一部になっている。ボクサーであるモハメッド・アリの行動をヴィデオ解析すると、相手が全く行動を起こしていない時点で、対処行動を起こし「チョウのごとく舞い、ハチのごとく刺す」。この行動は時遅れにならざるをえないフィード・バックにもとずく行動選択を超えている。多くの人間も自動車運転においては人車一体のこの段階に達している。

(……)なお、「スキル」に対応する語がドイツ語に(フランス語にも)見出せないのはバリントの指摘するとおりである(『スリルと退行』)。ことばのなおところ、概念は洗練されない。

【「技術」「戦術」「戦略」のヒエラルキー】
「技術」technic は当面の問題を端的に解決するスキルであり、たとえば「個々の手術手技」である。「戦術」tactics は「技術」をいつどのように組み合わせてどこに適用して、当面の状況を好ましい方向に導くかという複合的スキルである。たとえば、手術の適応と時期を決定し、実践の途中においても逐次変更――時には中止――する手術者のスキルである。「戦略」strategy は、この手術がその人の人生全体をどのように好ましい方向に変え、QOLと寿命とを積分した値を最大にするように考えて、いつどのような手術をどこで誰によって行うかという、全体的・大局観的スキルである。この三段階は、スキルの五段階と微妙にからみあうが、「ビギナー」段階においても、すでに存在し、次第に複雑なヒエラルキーを作ってゆく。………

…………

もうひとつこんな文章はどうだろうか。以下に出て来る「証拠」とはもちろん「エビデンス」のことである。

一般に治療文化において、患者とその家族は、治ってきたということ以外というか以上というか、治療費と家族の分担した治療努力とに対する反対給付をもとめるものである。それは、理由の解明あるいは治療の証拠である。歯科医は抜歯した歯を患者にみせる。外科医も切断した虫垂をみせる。精神医学的治療文化においては、最初期から「見せる物」に腐心してきた。シャーマン文化においては、ボアスの報告するカセリドというシャーマンは血まみれのミミズを口からだして、これを病いの原因として提示することによって乗り切っている。むろん、ミミズを口中にふくんだ上で口腔粘膜のどこかを自分で噛み切ったわけだ。精神医学という、治療にかんしてもっともあいまいな医術において「洞察」という治癒の証拠を発見したことは、力動精神医学の重要なポイントであった。すくなくとも「理由」を重視するヨーロッパ文化の下位文化としての精神医学的治療文化には要石である。それだけでなく患者と治療者との相互作用性を回復した。これなくしては、いかに「人道的」な精神病院も患者の排除というそしりを完全には免れることはできないだろう。治療文化はシャーマニズムのごとく重要な成員として患者をふくむのであって、そうでなければ、治療文化として大いに欠けるところがある。(中井久夫『治療文化論』p.141)

人はこのようにして「エビデンス」をもとめる。呪術師(シャーマン)たちが最初から知っていたように。