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2017年2月8日水曜日

家族的類似性

・私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。

・私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性Familienähnlichkeit」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66ー67節)



インド・ギリシア・ドイツのすべての哲学的思考に通ずる驚くべき家族的類似性 Familien-Ähnlichkeit は、簡単に説明される。ここには言葉の血縁関係 Sprach-Verwandschaft がある。(ニーチェ『 善悪の彼岸』第二十節)
ショーペンハウアーは 『 意志と表象としての世界 』 (Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819)において、形態学(Morphologie)と原因論(Aitiologie)とを対比したうえで、形態学が植物のもつ「数え切れない、無限に多様な、しかしまぎれもなく家族的類似性によって似かよった諸形態をわれわれに示してくれる」と述べている。(Schopenhauer[1995: 153]ーー(関口浩喜、家族的類似性についての予備的考察

関口氏の論文によれば、家族的類似性はラテン語の 'gentilis similitude'から来ているとのこと。





現在の診断論議は…もう少し考えてみる余地があるように思う。(……)

そもそも、先験的に共通項による分類が可能だとは決っていない。

分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。「家族類似性」という名は、父と兄は鼻と目が、父と娘は目と口が、母と兄は口もとと耳たぶが、兄と弟は口もとが似ているが、必ずしも家族全員に共通の類似点がないことが多いという事実からの発想である。(……)精神医学において可能な分類はこういうものであろうと私はかつて書いたことがあったし、よく見るとDSM-Ⅲはその構造を部分的に(おそらくさほど意識せずに)備えている。(……)

分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。かつて私が若くてもっとむこうみずに造語していたころ、前者を「公理指向性」(axiomatotropism)、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」(paradigmatotropisum)と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年(初出1983年)、P105 )



精神科医の病いの分類が「家族類似性」に従うかも知れないことはすべに述べた。遺伝学は分裂病の遺伝性を多因子遺伝であると言っているが、これは環境因というのにほぼ等しい。遺伝子の活性化が一つでも行われないと表現型として現われない(ないしは別のものになる)ことになるからである。そうであれば遺伝子の発現はオペレーターあるいはサプレッサー遺伝子をつうじて環境条件に左右されるからである。一般に家族類似性による漠然とした境界づけになる可能性が高いであろう。そもそも多遺伝子遺伝の代表というか極限は“人体全体”であって、ウリのツルにはナスビはならない。しかし同時に、枚挙し同定しえない環境条件が、たとえば鎖国以後も日本人の容貌体型をゆるやかに、しかし大幅に、変えている。そして容貌・体型こそ「家族類似性」をヴィトゲンシュタインが抽出した原標本なのである。つまり同定しコントロールできない要因が多すぎる。

「人体」といって「人間」と言わなかった。一卵性双生児遺伝の一致例(最近の報告は約30%)では妄想の形式までは一致するが内容までの一致はないらしい。(人間の思考内容が遺伝しえないことは、遺伝子の含むビット数(情報単位の数)と神経細胞のあらゆる組み合せのビット数を比べると後者が格段に多いという推論から示唆される。)遺伝学者メダワーが、生物学的遺伝機構ではまかない切れないから文化的伝統が「体外遺伝」として生じたと述べたのも一理がある。「本能がこわれたから文化が必要になった」というものこれに近いおおまかな表現であろうか。なお蛇足であるが、遺伝を静的とみなすのは遺伝学者以外の人々であるようだ。(中井久夫『治療文化論』、p.163)



ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(同トランスクリティーク P112)



ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)



※上の文でジジェクの言っている「語りえぬもの/家族的類似性」(例外/非全体)とは、カントの否定判断/無限判断のこととされる。

二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う〈理性の光〉という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は〈夜〉、〈世界の夜〉なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

中井久夫の文に《遺伝学は分裂病の遺伝性を多因子遺伝であると言っているが、これは環境因というのにほぼ等しい》とあったが、ほぼ必然的に無限判断(家族的類似性)になるということだろう、《一般に家族類似性による漠然とした境界づけになる可能性が高い》。