2017年2月10日金曜日

どふぞかたきにめぐりあひたい

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)

ーー笑っちゃうな、このクンデラの文。何度か引用しているのだけどさ

ところで「あなたたち」はこの感じをもつだろうか? 

………いやあ、わたくしは明言をさけておくよ

私はーー明言を躊躇うのではあるがーー、女性が考える正常な道徳観のレベルは、男性の考えるものとは異なっていると思わざるをえない。女性の超自我は、われわれが男性に期待するほど揺るぎなく、非個人的で、情動の源の影響を受けないものには決してならない。太古の昔から、女性は正義意識が男性に比べて薄いとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、といったいくつかの性格上の特質のために非難を浴びてきた。これは上述した超自我形成の変態のうちに充分な根拠を見出すであろう。われわれに両性の完全な平等と等価をおしつけようとしているフェミニストたちの反対にあったからといって、このような判断に迷う者はいないであろう……(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)

まだ比較的若い時代のジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。


女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように 加えます。 「私は、 女性は男性と同じ超自我を持っていない、 そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、 男の行動、 活動に見られるような限界が無い、 という印象を持っている。 」 女性解放主義者達のように、フロイトが女性に反対だった、と考えてはなりません。彼にとってこれは単に一つの事実なのです。大切なのはこの事実から、例えばいかに男はグループ、団体を作る傾向にあるか、首長になりたがるか、などなど、そして女には間違いなくこのような男性的習慣を越えた次元があるというのを説明することです。…(ジャック=アラン・ミレール、エル ピロポ El Piropo、1981)

超自我に囚われないとは、ファルスに囚われないことなんだから、いいんじゃないか、自由で。そうだろ?

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010、PDF

やあすばらしい、自ら享楽する身体は、やっぱり女性的なんだよ。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

つまりはラカンの名高い女性の享楽=身体の享楽=他の享楽だよ。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

《超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。》(ラカ ン、セミネール7、18 Novembre 1959)

ーーでラカンはなんでこんなこと言うんだろ、わかるかい?

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し encore plus exigean、さらにいっそう圧制的 opprimant、さらにいっそう破壊的 ravageant、さらにいっそう執着的 insistant な母なる超自我が。(Lacan, S.5, 15 Janvier 1958ーー原超自我 surmoi primordial)
フロイトは、女の超自我は不足していると考えた。これは臨床的エビデンスと矛盾する。最も峻厳で圧制的な、《猥褻かつ無慈悲な》超自我は多くの女のなかにある。ジャック=アラン・ミレールは指摘している。女性の超自我の問題は、女性の享楽のより本源的問題の仮面に過ぎない、と。ファルス秩序への享楽の不完全な従属は、想定される無法の「自由な」享楽へと導く。(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO、Leonardo S. Rodriguez 1996、PDF

無法の「自由な」享楽ってのはやっぱりこっち系なんだろうか?

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)

吉行なんか真に受けちゃいけない、フェミニストのおねえさんたちの袋叩きにあうにきまってんだから、ーー《残酷さにかけてはじつに首尾一貫》しているかどうかしらないけど・・・

たとえ女性だってダメだよ、いや女性のほうがもっとやばいのかな

ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ、次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』)

やっぱり超自我と自我理想の区別をするべきなんじゃないだろうか、当面は。

フロイトは区別してないんだけどさ(参照:自我理想と超自我の相違(基本版))。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的 な中核ーードイツの観念論者が「否定性」と呼んだもの・フロイトが「死の欲動」と呼んだもの ーーを曖昧化することにある。超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって 我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なので ある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


【子宮自律戦線】 
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…

ファルスの彼方 Au-delà du phallus、キュートじゃないか!ça serait mignon ça, hein ! 女性解放運動にもうひとつの一貫性を提供するだろう(笑) et puis ça donnerait une autre consistance au MLF. [ Rires ] …ああ、ファルスの彼方の享楽!(Lacan20、20 Février 1973)

ああ女性の味方ラカン! すばらしい。キュートな女たちなんてなんとすばらしい!!

 世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし(太田南畝)

フローラがついうっかりぼくに見せてしまった報告…こんな風にしてぼくはFAMの存在を知ったのだ…「子宮自律戦線」…「男の絶滅と新たな出生率のための世界機構」…それ自身SGIS、「ソドムとゴモラ国際会議」から出たものだ…古くからの知己…すでにずっと前から事業の公式的ショーウインドでしかないフェミニスト解放運動、MLF商会をはるかに越えて…おびただしい兆候からして、もっと秘密で、もっと強硬で、もっと知的で、もっと野心的な組織があるんじゃないかとぼくがにらんでもうずいぶんになる…ついにお出ましだ…(…)ぼくはそれを、われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルスに見せに行った…彼は二十枚ほどのタイプ原稿を読むと、両腕を高く上げ、四、五回ため息をついて、長いことぼくを眼鏡越しに面白そうに見て言った、「言わんこっちゃない!…だからいつも私は言ったんだ!…もちろん、きみたちに降りかかったことだ!…こんなものは忘れてしまうことだよ、きみ…きみたちが知るべきことじゃない…ちがうかね…まぬがれんことだ…忘れたまえ…命を落とすことになるぞ…」もっとも、一年後にファルスは事実上あらゆる活動を停止した…(ソレルス『女たち』原著1983年、鈴木創士訳)

世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい(太田南畝)